オスカー名物となった『国民的美少女コンテスト』も、初めは〝第2のゴクミ〟を求めての開催だった

 昨今、“美の総合商社”と呼ばれたオスカープロモーションから、タレントが退社する動きが加速している。

「米倉涼子さんを筆頭に、剛力彩芽さん、森泉さん、忽那汐里さん、岡田結実さん、草刈民代さんなど、そうそうたる顔ぶれが去っていきました。オスカーにとっては痛手ですが、逆に言えば、とてつもなく豪華なメンバーをそろえていたということにもなりますね」(スポーツ紙記者)

 今では、多方面で活躍するタレントを多く抱える芸能プロダクションというイメージが強いが、もともとはモデル専門の事務所として出発している。

1970年に現会長の古賀誠一氏が設立しました。企業理念は“美文化の創造”。古賀会長は“容姿端麗な人材が、もっと多方面で活躍するべきだ”と考えていました。当時の日本の芸能界は、“歌手は歌手、俳優は俳優、モデルはモデル”という縦割りの構造。欧米ではモデルが多方面で活動するのが当たり前でしたから、日本でも同じ流れを作ろうとしたんです」(同・スポーツ紙記者)

『美少女コンテスト』が始まった理由

 オスカーが、モデルの世界から女優の世界へ進出するきっかけとなったのが後藤久美子。“美少女ブーム”を巻き起こした立役者である。

後藤さんは小学生のときに事務所に応募。すでに完成された美人だったそうです。大事に育てていこうと初めの2年はどこにも出さず、ひたすら教育に明け暮れたと聞きます。中学生になった'87年に出演したNHK大河ドラマ『独眼竜政宗』で爆発的なブレイク。桜田淳子さんが演じた愛姫の幼少期役で、わずか3回の出演でしたが、“あの子は誰だ?”と話題が沸騰しました」(同・スポーツ紙記者)

“ゴクミ”という愛称で呼ばれるようになり、事務所の知名度も急上昇。ただ、後藤は当時の芸能界の流れからははずれた存在だった。

デビューまもないころの後藤久美子。「国民的美少女コンテスト」は“第2のゴクミを探せ”がコンセプト

おニャン子クラブなどのアイドル全盛期で、庶民的で親しみやすいキャラクターが求められていました。“一億総タレント”なんて言葉も生まれた時代に“正統派美人”の後藤さんが大人気となったんです。このことで古賀会長は、“やはり選ばれた人が芸能界で活躍するべきだ”と美文化の重要性を再認識。その火を絶やすことなく継承していこうと、『全日本国民的美少女コンテスト』の開催を決めました」(同・スポーツ紙記者)

 '87年に第1回のコンテストが始まり、その後30年にわたって開催されてきた。

「10万人もの応募がある中から書類選考、面接を経て本選でグランプリが決まります。ただ、実際に芸能界で活躍するのはグランプリ受賞者とは限りません。米倉涼子さんも上戸彩さんも審査員特別賞でした。本選当日に最も素晴らしいパフォーマンスを見せた人がグランプリに選ばれますが、本選に残ったメンバーはみな高いレベル。事務所としては、誰が売れてもおかしくないと考えていたそうです」(同・スポーツ紙記者)

 その言葉どおり、福田沙紀、忽那汐里、武井咲、堀田茜もグランプリをとっていない。コンテスト開催は、オスカーにとって芸能プロダクション化を進める大きな武器となったが、すぐに効果が表れたわけではなかった。

「後藤さんに続くスターを発掘するのが目的でしたが、彼女を超える逸材は簡単には現れませんでしたね。しかも、後藤さんが結婚による渡仏で芸能活動をほぼ休止。事務所はセクシー路線のC.C.ガールズを売り出し、'92年グランプリの佐藤藍子さんも活躍しましたが、時代を象徴するような存在は現れず、一時期ははっきりと勢いが落ちていました」(オスカー関係者)

テレビ局との結びつきが弱かったが……

 停滞ぎみのオスカーに再び光をもたらしたのが、米倉涼子と菊川怜だった。

2人はモデルとしての活躍を経て、'99年に『女優宣言お披露目発表会』という会見を開き演技の道へ。米倉さんは松本清張作品などに出演して本格的な女優路線を一気に駆け上がります。菊川さんは知的なイメージからバラエティー番組のオファーも多く、2年連続のCM女王にも輝きました。“女優宣言”や“CM女王”というオスカーのイメージは、彼女たちが作ったんです」(同・オスカー関係者)

米倉涼子と福田沙紀

 続いてオスカーの名を高めたのが、上戸彩。'01年に『3年B組金八先生』(TBS系)で“性同一性障害に悩む中学生”という難役を演じて、世間に驚きを与えた。

上戸さんの売れ方は驚異的でしたよ。マネージャーはドラマの撮影が終わると彼女を家に送り、自分はそのまま車内で仮眠をとってまた次の現場まで送るという日々の繰り返しだったなんて話も。彼女はオスカーとしては珍しく歌手としても活躍し、'04年の『紅白歌合戦』に出場。通算で6回のCM女王にも輝きました。古賀会長は小学生だった上戸さんをひと目見て“後藤久美子の再来だ”“この子は日本の芸能界を変える”と断言したそう。幼かった彼女の才能を見抜いていたんですね」(同・オスカー関係者)

 勢いそのままに'00年代に入ると、剛力彩芽、河北麻友子、福田沙紀、武井咲、忽那汐里、堀田茜、高橋ひかるなど、今日に至るまで数多くのスターを生み出してきた。しかし、原点がモデル事務所だったオスカーには苦労もあった。

テレビ関係者などとの結びつきが弱かったんです。業界の人脈をつくるため、古賀会長は強い印象を残すことを目指して“来た人が度肝を抜かれるような食事会をしなくては”と考えたそうです。例えば、最高で1人3万円のコースのお店なら“1人6万円で作ってほしい”とお願いしたり。1人10万円で用意させたこともあったそうです(笑)。でも、食事の場で“うちの○○をなんとか……”なんてヤラしい話はいっさいなし。それがよかったんですね。業界ではすぐ評判になりましたよ」(テレビ局関係者)

 モデル事務所だったことが、むしろアドバンテージになったケースもある。

「'80年代当時、芸能プロダクションは所属タレントが雑誌の表紙を飾ることを、それほど重要視していませんでした。でも、オスカーは雑誌に出るメリットを知っていたんですね。

 モデル事務所から始まったので、ファッション誌をはじめとする雑誌業界とのつながりはもとから強かった。古賀会長は精力的に売り込み、ファッション誌が最盛期を迎えた'90~'00年代には、オスカーのタレントが雑誌の表紙を席巻。旬なタレントのプロモーション期間に、あらゆる雑誌の表紙を独占する“表紙月間”という現象も、オスカーが生んだものですよ」(ファッション誌編集者)

 昨今は主力タレントや敏腕スタッフの退社問題に揺れるオスカー。経営方針の転換が理由とされるが、築き上げた“美の財産”を軸にこれからも進化を続けてほしい。