柔道で断続的に起きる子どもへの暴力指導。その空気が今変わりつつあります(写真はイメージです)

 組織内のパワハラ問題で大きく揺れる日本柔道連盟。その横で、もうひとつの根深い問題が動き出している。

 多くの子どもたちが被害に遭ってきた日本の「柔道事故」を取り巻く環境が今、大きく変わり始めているのだ。

 兵庫県宝塚市の市立中学校柔道部で昨年、1年生の男子2人を柔道技で骨折させたなどとして傷害罪に問われた事件。2月15日に同校の元教諭の男(50)の判決公判が神戸地裁であり、懲役2年、執行猶予3年(求刑懲役2年)が言い渡された。

当記事は「東洋経済オンライン」(運営:東洋経済新報社)の提供記事です

 報道によると、元教諭は昨年9月25日、差し入れのアイスを部員らが食べたことに腹を立て、背負い投げや袈裟固めなどの柔道技を10回ほど繰り返した。当時12歳の部員に対しては、意識を失った後も顔を平手打ちで目覚めさせて暴行を続け、胸椎圧迫骨折など全治3カ月の重傷を負わせた。

 この裁判結果に驚きを隠せないのは、過去に起きた柔道事故の被害者家族たちだ。かつて息子が部活動顧問の指導を受けた際に重度の障害を負った首都圏に住む60代の女性は「今回は警察、教育委員会、そして全柔連も実に動きが速かった」と振り返る。

 この宝塚市の事件は、被害者側が県警宝塚署に被害届を出したことで元教諭は逮捕、起訴された。事件が起きた日から2カ月後には同市教育委員会が、元教諭に懲戒免職処分を下した。現場にいながら制止しなかった副顧問の男性教諭は減給となり、この学校の校長も指導監督が不十分等の理由で戒告の懲戒処分となった。これまでに起きた学校内での柔道事故では考えられなかったスピード感と処分の重さだ。

一命を取り留めたケースでの「免職」は異例

 部活動での事故で教諭が免職になったケースで思い出されるのは、2013年1月に発覚した、大阪市の市立高校バスケットボール部員だった2年生男子の自殺だ。顧問による暴力や理不尽な扱いを苦にして自殺したもので、この顧問は懲戒免職となった。しかし今回の宝塚のように、生徒が命を取り留めたケースで、暴力を理由に公立学校の教職員が免職となるのはかなり異例だ。

 過去記事でも報じてきたように、日本は柔道での死亡事故が多発してきた世界で唯一の国だ。世界中、日本以外の柔道強豪国での死亡事故はゼロだが、日本ではスポーツ振興センターの記録が残る1983年度から現在まで中学校・高校の学校内における柔道事故で121人が亡くなっている。しかも部活動中などに死亡するといった重大な事故が起きても顧問への重い処分はなく、そのまま指導を続けているケースも少なくない。

 ところが今回、全日本柔道連盟(以後、全柔連)は宝塚市の加害顧問に「除名」という最も重い処罰を科した。日本の柔道を取り巻く環境は、確実に変わり始めている。

2月9日、全柔連を訴えていた裁判で東京地裁にて和解した後に会見する石阪さん。右は代理人の宮島繁成弁護士(写真:筆者撮影/東洋経済オンライン)

 宝塚判決が出る前の2月9日には、福岡市の親子が、指導中の事故をめぐり全柔連を訴えていた裁判で和解が成立した。被害男性の父親である石阪正雄さん(50)は「宝塚市の裁判とともに、日本の柔道にとってターニングポイントになるのではないか。柔道の指導現場が正常化する道筋を見守りたい」と前向きだ。

 石阪さんは、和解の条項として「暴力の根絶に努める」「通報を受けたとき、双方の意見を十分に聴取する」「改善に向けた取り組みの内容をウェブサイトに掲載するなどして透明性を持たせる」などを全柔連に求めてきた。

柔道初心者だった中2長男が「片羽絞め」で失神

 中学2年生だった石阪さんの長男は柔道を始めて間もない2014年10月、指導者から首を絞める「片羽絞め」の技を二度にわたって受け、一時的に意識を失った。

 休んでいると、指導者から「誰に断って休んでいるんだ」と叱られ、別の指導者からも「演技がうまいね。そんな演技をしているんだったら学校に言いふらしてやる」と怒鳴られた。その後、「迷走神経性失神及び前頸部擦過傷」との診断を受けた長男は、失神のショックで柔道ができなくなった。

 石阪さんは、相談した福岡県柔道協会に適切な対応を受けられなかったことから、2014年12月、全柔連の内部通報制度「コンプライアンスホットライン」に通報した。ところが、全柔連は石阪さん親子、指導者や当時柔道場にいた他選手への聞き取りといった調査を十分にしないまま、同県柔道協会の報告に従って「問題なし」とした。

 これを受け、2015年2月、親子は指導者らを相手に損害賠償請求訴訟を起こした。技を使ったことの違法性が認められたものの、「内部通報制度の趣旨からすると、まず通報者本人から詳しく事情を聞き取ることが基本なのに、(それをしなかった全柔連は)ガバナンスが効いていないと感じた。このままでは被害は出続けるのでは」と石阪さんは危機感を抱いた。そこで2019年4月、全柔連を相手取り、計330万円の慰謝料を求め東京地裁に裁判を起こしたのだ。

「過去にいろいろな事件が起きているのに、(全柔連は)組織としてなかなか変わらない。そんな歴史をもつ全柔連という巨大な敵に立ち向かってきた」(石阪さん)

 全柔連の会長はJOC会長でもある山下泰裕氏であり、柔道は日本にオリンピックメダルを最も多くもたらしてきた、いわば「国技」。石阪さんが、「巨大な敵」と表現するのには、そういった背景もある。

 このまま戦うか、裁判所から提案された和解に従うか。迷い続けるなかで心の支えになったのは、前述した宝塚市の裁判だった。石阪さんの裁判とほぼ同時進行だったが、宝塚市教育委員会の対応は大いに励みになったという。

教育委員会が教員の体罰を告発するケースはまれ

 報道によると、宝塚市は、今回の柔道事故が保護者による被害届で判明するなど対処が後手に回った反省から、犯罪行為に当たると判断した体罰について今後は市教委が刑事告発するとの指針を策定し、即日運用を始めた。

 公務員の犯罪は「刑事訴訟法」で自治体に告発義務が定められているが、教育委員会が教員の体罰を告発するケースはほとんどなく、指針策定は全国でも異例だ。

 背景には、2016年に発生した宝塚市の市立中学2年生(当時)の自死があったという。市のいじめ問題再調査委員会で部活動でのいじめが原因と認定されたことから、運動部活動における指導改善が喫緊の課題とされていた。

「学校や教育委員会が、事件と真摯に向き合っていることが伝わってきた。スポーツにおけるインテグリティ(誠実さ)は、大人の都合ではなく、ピュアなものであるべきだと思う」(石阪さん)

 その点、宝塚市の裁判の過程では、宝塚の元顧問や全柔連の関係者が、暴力を指導の一環と受け止めているような態度が垣間見えたようにも感じられた。

 宝塚の裁判で、被告人質問にたった元顧問は「(生徒らに)お灸を据えようと思った。感情のコントロールができず、正しい方向に導く思いが空回りした」と、指導の延長線上であるかのような表現をしている。全柔連の中里壮也専務理事も昨年10月、石阪さんの裁判で東京地裁に出廷した際に「正しい判断であり、体罰でもない」と主張している。

 中里専務理事のこのコメントを聞いた石阪さんは、ショックを受けたという。

「息子は今も、失神させられたときに味わったトラウマと戦っている。そのトラウマを晴らすには、柔道指導を正常に行ってもらうことだと思い、6年間裁判などを通して戦ってきた。息子のことが起きた2014年は、大阪のバスケット部員だった高校生が自殺した事件の後で、全柔連は前年の2013年に暴力行為根絶宣言を出していた。でも、宣言するだけじゃ何も変わらない。改善のための具体案を示してほしい」

 石阪さんが中里専務理事のコメントを聞いた10月、ちょうど全柔連は2度目の暴力行為根絶宣言を出している。それで「宣言するだけ」と不信感を抱かれてしまっているわけだ。

 筑波大学名誉教授でスポーツ心理学が専門の市村操一さんは「この波を逃さず変化につなげていくべきだ」と話す。

 市村さんによると、AP通信東京支社は昨年10月、日本の学校における柔道部の活動中に死者が多いという記事を世界に発信。全柔連会長の山下さんはインタビューの中で「(暴力や事故防止の)メッセージが現場の指導者の全員にはいきわたっていなかったことが問題だ」と語った。同じ記事の中でフランスのボルドー大学の柔道家だったブルーゼ七段は「日本の柔道教師の問題は、柔道の腕前はあるのに、若者の身体的条件や心理的欲求に対応することができないことだ」と述べている。

 この記事は、アメリカのUSA Today紙をはじめ、インドのCNN-News18の電子版にまで中継され世界に広がっている。

 市村さんは、上記も含めた内容を論文『「数えきれないほど叩かれて」の世界の反響』として、「上競技学会誌先」に寄稿。最後のページに、こうつづった。

「2021年の東京オリンピックが開催されるか否かに関わらず、日本のスポーツ界はオリンピックファミリーのメンバーとして世界のスポーツの健全な発展に寄与するために謙虚な努力をしなければならない」

「草の根」でも変わり始めた

「草の根」にも新しい動きが見える。

 柔道による発達障害の子ども支援や国際交流のコーディネートなどを手掛ける「特定非営利活動法人judo3.0」代表理事の酒井重義さん(44)は2月、識者を招き「中高の柔道部が大きく減少。これからどうする?」と題したセミナーを実施した。

 2004年に20万人だった国内の登録柔道人口は減少の一途をたどり、2020年には14万人にまで落ち込んでいる。人気の落ち込みの理由はさまざまあるだろうが、V字回復には、柔道指導者の意識の改善が間違いなく急務だろう。

「子どもに熱心にかかわる先生は多い。オープンに指導者が対話できる環境づくりが進めば、きっと変われる」と酒井さんは力を込めた。


島沢 優子(しまざわ ゆうこ)Yuko Simazawaフリーライター
日本文藝家協会会員。筑波大学卒業後、広告代理店勤務、英国留学を経て日刊スポーツ新聞社東京本社勤務。1998年よりフリー。主に週刊誌『AERA』やネットニュースで、スポーツや教育関係等をフィールドに執筆。

著書に『世界を獲るノート アスリートのインテリジェンス』(カンゼン)、『部活があぶない』(講談社現代新書)、『左手一本のシュート 夢あればこそ!脳出血、右半身麻痺からの復活』(小学館)など多数。