3月11日で東日本大震災から10年。震災直後から被災地に入り、取材を重ねてきたジャーナリストの渋井哲也氏が、現地からリポートする。第三弾は、高校一年生だった少女が母親となり、今でも地元・福島で暮らし続けている。内部被曝の検査、妊娠出産への不安、そして今でも見る津波の夢…。それでもここに住むと決めた彼女の10年を聞いた。

公民館跡で震災当時のことを話す駒場由里絵さん('21年)

 

「ここに公民館があったんですよね。10年前は、防風林がボウリングのピンのように倒れていたのを思い出します。もう10年になるんですね。早いですよね」

自宅が津波に流されるのを目撃

 福島県相馬市磯部にある「東日本大震災慰霊碑」前でそう話すのは、駒場由里絵さん(26)。10年前の東日本大震災のときは、高校1年生だった。「慰霊碑」には、中学の後輩の名前が刻まれている。後輩4人が流され、そのうち3人は同じ部活だった。

「後輩の1人は“先輩と同じ高校に行くことになりました”と報告してくれて、私も“待っているよ”と言っていたんです。あの日は、中学校の卒業式があったんですよね。その後輩は家に帰る途中で津波にのまれてしまったのです。

 連絡先はまだ(スマホの連絡帳の中にあり)消さずに残しています。10年も経っていればほかの人がその番号を使っているんでしょうけど、名前を消すことに抵抗があるんです

 駒場さんもあの日、自宅にいた。14時46分、巨大地震があり、玄関の扉にしがみついた。そして津波警報が発令され、最初は「2〜3メートル」と言われていた。そのとき、自宅には祖母といとこがいて、祖母は地震で崩れた荷物を整理していたが、駒場さんは津波が心配で、外から海のほうを見ていた。

「津波の音は聞こえませんでしたが、木が倒れていて、その先に波が見えました。部屋を片付けているおばあちゃんに“それどころじゃないよ!”と声をかけ、携帯電話だけ持って、いとこと一緒に裏山に逃げました。おばあちゃんは土地勘があったのか、“そこだと、まだダメ。もっと上に上がって”と言ったので、さらに上がりました。上がっていなければ、津波にのまれていたと思います」

 高台に逃げたあと、駒場さんは自宅が津波にのまれ、流されていくのを目撃した。家族は無事だったが、大切にしていたぬいぐるみや制服、コスプレの衣装が流された。

「津波が来たときに、一時的に避難していた裏山で私たちだけ孤立してしまいました。でもその夜、高台にある磯部小学校に避難した人が懐中電灯を持って探しに来てくれたんです。私たちは月明かりを頼りに学校まで歩いて行きましたが、途中で靴が脱げ、裸足で歩きました。痛かったけど、緊急のときはなんでもできますね」

南相馬市では「窓を開けないでください」と

 筆者が駒場さんと出会ったのは、震災から2週間経ったとき。相馬市の避難所のひとつ『総合福祉センター・はまなす館』だった。

「磯部小学校に避難した後、『はまなす館』へバスで行きました。その後、南相馬市鹿島区の親類の家に避難したんです。でも、原発事故もあったため、広報車が“窓を開けないでください”とアナウンスしていて……そこでの生活も不安だったので、親類と会津地方に避難しました」

 東京電力・福島第一原発は、地震や津波によって全電源喪失となった。3月11日19時03分、原子力緊急事態宣言が発令された。14日までに、20キロ圏内に避難指示。15日までに20〜30キロは屋内退避指示となった。駒場さんの自宅があった相馬市磯部は約40キロで、避難区域ではない。駒場さん家族は自費で会津地方の旅館に泊まっていたが、いつまでも泊まっているわけにもいかず、相馬市の『はまなす館』に戻った。

'11年の被災直後に取材したときの駒場さん

「仮設住宅ができるまで、気が気でなかったんです。仕切りもなく、プライベートもありませんでした」

 避難所では洗濯もなかなかできず、徒歩30分以上もかかるコインランドリーまで行っていた。しかし原発事故で、洗濯物を外に出せなくなった。

 その後、駒場さんが高校を卒業する際に取材で会ったとき、彼女は内部被曝の検査を受け「異常なし」の判定をもらったばかりだった。当時の彼女は不安を口にしつつも、こう語っていた。 

「原発事故なんで仕方ないし、どうにでもなれって思いました。被ばくは防げないし、放射線は目に見えないし……。この数値は本当か? と疑うこともありました。南相馬の友達も、“最初だけ怖かったよね。今はどうでもいいや”って開き直っています。将来、子どもを生まないようにしようとは思わないですね。障害を持って産まれたとしても、自分の子どもには変わりがない」

上司からのハラスメントに苦しんだ日々

 高校卒業後、駒場さんは南相馬市内の企業に就職したが、3か月で退職。その後、別の会社に6年間勤めた。しかし、そこでハラスメントに遭ってしまい、精神的に追い詰められた。

「ある日、どうしても仕事に行く準備ができなくて……精神科で診断してもらって退職を選びました。辞めたくないのに、辞めるのはつらかったです」

 なぜ、この時期、上司はハラスメントをしていたのか。駒場さんなりにこう推測していた。

震災当初は、『震災バブル』と言われるくらい仕事が忙しかったようですが、私が就職したころは落ち着いていました。みんな新しい家を建てて、相馬市では復興が進みました。意識したことはないのですが、徐々に自分たちが“被災者”とは思わなくなっていったんだと思います。その会社はいろんな地域に営業所があったのですが、震災バブルが終わってからは、赤字になっていたようです。

 でも、ほかの地域の営業所から見れば、“まだ、震災バブルはあるはずだ”と思われていたようです。そのため、上から『もっと目標を高く』と言われていたのです。それで上司は頭を抱えていました。いちばん年下の私は、そのプレッシャーのはけ口になっていたのだと思います

吹っ切れたと思っても見る津波の夢

 今は結婚して子どもをもうけた駒場さん。1人目の子どもは4歳。現在、2人目が生まれようとしている。

「『結婚できないかも?』というよりは、『明日、死ぬかも。生きられない』と思っていました。『もう終わったな』と思ったこともありましたが、今は家庭もあるのでそうは思わなくなりました。夫は一時的に原発で働いていたので、出産については周囲に言われたことがあって、いろいろ思うことも多かったです。1人目を妊娠したときに甲状腺がんの検査をして、何かあったらどうしようと思いましたが、異常はありませんでした」

 10年前の被災体験が、いまだにストレスになっている。やはり、自宅が津波で流されるのを目の前で見たことが影響しているのかもしれない。

震災当初の相馬市内では自衛隊が捜索活動をしていた('11年3月27日)

「思い返しても、何も戻ってこないですから……。自分でも吹っ切れたと思っていたんですが、よく夢を見るんです。職場で地震が起きて、“津波が来るんだって”と話をしているんです」

 最近も震災の日を思い出させる出来事があった。'21年2月13日23時7分、福島沖でマグニチュード7・3の地震が発生。最も揺れた地域であった相馬市は震度6強を観測し、相馬市や隣接する新地町の間で、常磐道が通行止めになり、市内では落石もあった。駒場さんはこの夜、眠れず、テレビで被害情報を見ていた。

「あの夜は、不安で眠れませんでした。地震後、すぐに『津波の心配はありません』と伝えられました。でも私、津波の予報を信用してないんです。震災の日も『津波は3メートル』という警報だったんですが、実際には10メートルくらい(筆者注:観測データでは9・3メートル以上)でしたから。地震があって、津波があって、ライフラインがだめになる。そして避難所に行く──二度とあんな経験はしたくありません」

 浜に生まれた駒場さんは、これからも浜で過ごすことを選んだ。子どもを預けている保育園でも、津波を想定したことを含めて、避難訓練をしている。

保育園にいるときに津波が来れば、園が誘導をしてくれると思います。しかし、いつどこで津波が発生するかはわかりません。海沿いの公園で子どもを遊ばせているときに津波が来たらどうしようと思ったりもします。この取材でも、津波が来たらどこへ避難しようと、無意識に考えています。子どもを抱えていると、子どもを優先しないといけないですから。

 当時私が避難した場所でも、今の私の子どもと同じような年齢の子どもがいました。あの子たちの親の気持ちを考えると、気が気ではなかったんだろうな……」

 いまだ癒えることのない傷を抱えながら、親となった駒場さんの相馬市での暮らしは続いていく。


取材・文/渋井哲也(しぶい・てつや)◎ジャーナリスト。長野日報を経てフリー。東日本大震災以後、被災地で継続して取材を重ねている。『ルポ 平成ネット犯罪』(筑摩書房)ほか著書多数。