左から西野亮廣、宮迫博之、オリラジ・中田敦彦と藤森慎吾

 日本のお笑い界を支えてきた吉本興業だが、このところトラブル続きだ。

「2019年に『FRIDAY』が吉本所属芸人の“闇営業”を報じたのがきっかけです。仲介をしていたカラテカの入江慎也が契約を解除され、2700やレイザーラモンHGなどが謹慎処分に。雨上がり決死隊の宮迫博之は芸能活動自粛から結局、退社。

 この騒動で契約や給料などの問題まで浮かび上がり、タレントが吉本とエージェント契約を結ぶという新しい方式が導入されました」(スポーツ紙記者)

『スッキリ』(日本テレビ系)で吉本首脳陣を批判した加藤浩次はエージェント契約に。

「闇営業騒動がおさまった後も、退社が相次ぎます。昨年末でオリエンタルラジオの2人、今年の1月にはキングコングの西野亮廣が退社しました。オリエンタルラジオと宮迫はYouTube、西野はオンラインサロンを中心に活動しています」(同・スポーツ紙記者)

 彼らは吉本に頼らなくても収入を得ることができるのだろう。しかし、多くの芸人は吉本が作ったお笑いのシステムの恩恵を受けている。その歴史は100年以上にもなる。

「明治45年(1912年)に吉本せい、吉兵衛夫妻が大阪の天満で寄席を経営するようになったのが始まりです。せいは2017年のNHK朝ドラ『わろてんか』ヒロインのモデルですね。もともと問屋を営んでいましたが、吉兵衛は芸人たちと遊んでばかり。せいはその人脈を利用すれば寄席ができると考えました。

 彼女は型破りな手法を考案します。当時の寄席は落語中心が当たり前だったのに、漫才を前面に出す編成に。舞台の前に溝を作って電球を設置し、フットライトで派手に演出しました」(同・スポーツ紙記者)

当時は斬新だった“専属”制

 江戸川大学マス・コミュニケーション学科の西条昇教授は、特に“専属制”が斬新だったという。

「かつて東西の演芸界では落語家を中心とした組織と寄席の経営者が提携して、演者を寄席に“派遣”していました。東京では今もその方式が続いています。しかし、吉本は自前の寄席を持ちながら芸人たちを抱えていました。これが当時からの吉本の特徴といえます」

 さらに、月給制にすることで、生活の不安定な芸人の囲い込みに成功した。

「実力に合わせて金額を決め、人気絶頂だった初代桂春団治は月給700円。1000円で家が建った時代です。一方で、入場料は抑えて客を呼び寄せます。現在の400~500円という破格の安さでした。そのかわり飲食の販売で儲けを出します。夏になると“冷やし飴”を氷の上でゴロゴロ転がしながら入り口で売りました」(同・スポーツ紙記者)

 昭和に入ると、吉本は全国的に知られるように。

「昭和の初めに浅草に進出し、さらに神田や新宿や横浜にも寄席を持つようになりました。今の吉本が東京に持っている劇場を上回る数です。吉本所属の芸人エンタツ・アチャコが“しゃべくり漫才”で東京に進出。東宝と組んで主演コメディー映画を撮り、全国的な人気になります。喜劇も落語もどちらもいけたのが柳家金語楼さん。さんまさんや鶴瓶さんの元祖みたいな芸人でした」(西条教授、以下同)

 そのころから吉本はメディアの利用が上手だったという。

「初代桂春団治さんがNHK大阪のラジオ局と組み、吉本に無断で落語を放送するという事件がありました。吉本は“ラジオで落語を無料で聞かせるとお客さんが寄席に来なくなる”と考えていましたが、ラジオで春団治さんを知ったお客さんが寄席にやって来たんです。ラジオに“価値”があるとわかり、エンタツ・アチャコを積極的にラジオに出すと全国的な人気に。レコード、映画など新しいメディアを積極的に利用するようになっていきました」

テレビ進出を機に事業拡大

 プロデューサーとしてせいを助けたのが、弟の林正之助だった。吉本を発展させていくが、戦争でほとんどの劇場が壊滅。正之助は芸人たちに“解散”を宣言して、大阪での事業は映画を中心にした。

「1959年に毎日放送などの民放テレビ局ができたのを機に、吉本は演芸部門を復活させ映画館だった『うめだ花月』を演芸場に戻しました。吉本に残っていたのはアチャコさんだけでしたが、改めて漫才師や落語家を集め、『吉本新喜劇』も作りました

 そのころは多くの大御所を抱えていた松竹芸能が人気となっていたが、毎日放送でテレビ中継されることで吉本新喜劇の知名度が向上。吉本は若手中心に勢いを強めていく。

「1980年代の漫才ブームで吉本の若手が伸びていきました。“格”を大事にしていた松竹に対し、吉本は面白ければ若手でも活躍の場が与えられました。さんまさんなどがどんどんテレビに出て人気になり吉本は東京に再進出します」

NSC価値高めたダウンタウン

 漫才ブームで人気芸人のテレビ出演が相次ぎ、劇場の出番に穴があいてしまう事態が多発。吉本は芸人を育てる必要性を痛感し、1982年に吉本総合芸能学院(NSC)を設立する。

「NSCは画期的でした。以前も松竹芸能の養成所や『明蝶喜劇スクール』がありましたが、漫才コンビや芸人を専門に育てるというのは吉本が初めて。それまでは師匠に弟子入りしないとプロになれず漫才ブームに乗った人たちも師匠のカバン持ちをして、修業をしていました。会社が芸人を養成するという考え方は以前にはなかったのです」

 ダウンタウン、トミーズ、ハイヒールなどが1期生。反発するベテラン芸人もいたが、彼らが活躍することでNSCには多くの芸人志望者が集まるように。

芸人になるための学校として吉本が設立し、今や全国7か所に校舎があるNSC。その1期生がダウンタウン

ダウンタウンの成功がNSCの価値を高めました。東京でザ・ぼんちのマネージャーをしていた大崎洋さん(現会長)がNSCに顔を出すようになり、ダウンタウンにひと目惚れしたのです。

 今の吉本の流れは、大崎さんとダウンタウンの出会いからできたといっても過言ではありません。当時のマネージャーは売れている芸人につくことが出世コースだったのに、大崎さんは誰も知らない、まだ立ち上げたばかりのお笑い学校の1期生、在学中のダウンタウンにのめり込みました。自らマネージャーに名乗りをあげたのだそうです」

 ダウンタウンをはじめNSC出身者が心斎橋筋2丁目劇場で若い観客を集めるようになり1987年にバラエティー番組『4時ですよ~だ』(毎日放送)が始まった。彼らはアイドル的な人気を獲得する。

「少し前の漫才ブームのときは若手だった今田耕司や東野幸治、130Rなどが出演して新しい風を吹き込みました。今も吉本の基盤を支えているのが新喜劇の舞台なんです」(前出・スポーツ紙記者)

 新たな試みを打ち出しながら、伝統もしっかり守る。だから吉本興業はトップに君臨し続けているのだ。