熊谷海音さん(写真/本人提供)

 10年前の東日本大震災で『週刊女性』が出会った一人の女の子(当時の記事は〈東日本大震災〉両親と姉はお星さまに…「うち、ひとりになっちゃった」7歳少女の涙』)。あのとき7歳だった女の子は、17歳の少女へと成長していた。震災で両親、姉、母方の祖母を亡くした彼女は、この10年、何を思い、どう過ごしてきたのかーー(取材・文/熊谷あづさ)

 現在、17歳の熊谷海音さんの人生初の記憶は3~4歳のころのことだという。姿見の前に立ち、「どうして私は太っているんだろう」と思った瞬間を鮮明に覚えている。いつもスリムな体型の2歳年上の姉の花瑚さん(震災当時9歳)と自分を比較していた。海音さんにとっての花瑚さんはライバル的な存在で、ケンカは日常茶飯事。通学途中にケンカをし、置いてきぼりをくらったこともある。

 ふたりの娘を見守る母親の安美さん(震災当時37歳)は手先が器用な人だった。布製のおもちゃや小物を作って販売し、娘たちとともにお菓子作りや料理をした。一緒に作ったズッキーニの炒め物は今でも海音さんの好物だ。父親の純さん(震災当時43歳)は子煩悩で、毎日、仕事から帰ると真っ先に娘たちにハグをした。

「父は顔が濃くて、姉もその血を受け継いでハッキリした顔立ちなんです。母は私たちにお揃いの服を着せるのが好きだったようで、よく姉と色違いの服を着ていました。今でも写真を見るたびに、『お姉ちゃんはどんな恰好でも映えるのに、私はなんて平凡なんだろう』って思ってしまいます(笑)」

家族は津波にのまれ、自分だけが生き残った

震災の8日前に、祖父の誕生日とひな祭りを祝ったという。これがお姉ちゃんと撮った最後の写真となった(写真/家族提供)

 明るくにぎやかで愛情に満ち溢れた海音さんの生活は、2011年3月11日を境に一変した。生まれ育った町は宮城県仙台市若林区荒浜地区。東日本大震災の津波で多くの人々が犠牲になった場所だった。

 あの日、ひとりで帰宅途中だった海音さんは、地震発生直後に偶然通りかかった知人の車に乗って避難所へと向かった。その間、花瑚さんを連れた母親と仕事中だった父親は、海音さんの姿を必死に探していた。

 両親も姉も大津波にのまれ、先に避難した海音さんだけが生き残った。一週間後に姉が、結婚記念日の4月14日に母親が、5月の連休中に父親の遺体が見つかった。海音さんは岩手県陸前高田市の父方の祖父母のもとに引き取られた。

震災から1年後の海音さん。本を読むのが好きな彼女に、スタッフが『たまごっち占い』をプレゼントすると「(亡くなった)お姉ちゃんと海音の相性、占いた〜い」('12年3月)撮影/週刊女性写真班

「引っ越しや転校をしたりと、震災の後はすごく忙しかったです。姉の遺体を確認してから、日を追うごとに両親の生存を諦める気持ちが大きくなりました。『パパもママも元気でいるなら、電話のひとつくらいかけてくれるはずなのに』って。目に映る世界から色が完全になくなったような状態で過ごしていました

 人間は多面体の生き物で、それゆえに人間関係は複雑で、生きることは100%快適だとは言い難い。多くの子どもたちは親兄弟や親族、教師など周囲の大人たちが適度な緩衝材となりながら、少しずつ人間社会の厳しさや不条理に接していく。しかし海音さんはさしたる免疫を持たないまま、突然、むきだしの現実にさらされることとなった。

「ひとりだけ生き残ってしまってかわいそう」「あの子のせいで家族が犠牲になった」「親がいないから出来が悪い」「ウザい親がいなくていいね」。今日にいたるまで、エゴや悪意や無神経な感情にまみれた言葉を数えきれないほど向けられた。幾度も“自殺”の二文字が頭をよぎった。

「あのころの私は、自分が生きていることで誰かを不幸にしてしまうと思っていたんです。一人息子を亡くしたおばあちゃんが悲しんでいるのは、私ひとりが生き残ったせい。学校でいじめられるのも、自分に非があると思い込んでいました。毎日、自分で自分を『がんばれ!』って励ましていたけれど、でも、つらかったです。自分が生きている意味があるのかなって何度も思いました

自分の経験が、誰かのためになる

 海音さんの人生が大きく変わったのは、中学2年の夏。震災で被災した子どもたちを支援するプロジェクト「Support Our Kids(サポート・アワー・キッズ/SOK)」に応募し、2週間、カナダでホームステイを経験した。周囲の人たちの助けを借りながら震災に関する英語のスピーチ原稿を書き上げて発表した。

「家族がいないつらさとか、それをきっかけにいじめられたこととか、震災の現実を話しました。そうしたら、日本人のちょっと年上の男の子が、『毎年、SOKの発表を聞いているけど、海音の話を聞いて、一番、現実を知った気がする』と言ってくれたんです。『海音が体験したことは重いことだし、話すことは簡単なことじゃないけど、でも、俺らにとってはすごく勉強になる』って

 その言葉をきっかけに、海音さんの意識に変化が芽生えた。

ずっと海が怖かったというが、「もう海は怖くない」と海音さん(写真/海音さん提供)

「自分の経験が誰かの勉強や知識につながるということに気がついたんです。そうだとしたら、私が経験したことは悪い側面ばかりではないかもしれないなと思うようになりました」

 また、ホームステイ先のホストファミリーの母親・内藤洋子さんからかけられた言葉は海音さんの大きな救いとなった。

「洋子さんと一対一でお話をする機会があり、つらい経験も含めていろいろな出来事や想いを話したんです。すでに何度も話しているようなことなので私自身は淡々としゃべっていたのですが、気づいたら洋子さんが大号泣をしていました。

 そのときにかけてくださった『あなたが生き残った意味は必ずあるから、それを探して見つけてほしい』という言葉は、今でも深く印象に残っています。洋子さんの言葉を聞いて“私は生きてていいんだな”と思えるようになりました

 無神経な言葉によって傷ついた心は、血の通った温かい言葉によって少しずつ癒されていった。実はもうひとつ、海音さんの大きな心の支えとなっているものがある。

「小さいころから今まで、私が助けられていたのは自分の想像力です。どんなにつらい状況でも、自分の中で物語を作って想像することが好きだったんです。『小公女』を読んだときに、つらいときでも想像の力で乗りきって明るい未来を手にした主人公のセーラに共感しました。セーラと同じように、想像力が私を助けてくれました。どんなに薄暗いところにいたとしても、自分が考えた世界やキャラクターたちを想像するだけで幸せを感じられるんです

 中学2年の冬には生活の場を仙台市内の叔父の家へと移した。高校では英語学習に力を入れているクラスに入り、2020年11月から2021年4月までイギリス南部のボーンマスへ語学留学をしている。ホームステイ先の家族や年上の級友たちとのおしゃべりを楽しみ、新型コロナによるロックダウン中はオンラインで勉強に励んだ。

 震災からの10年を経た今、海音さんは何を想い、何を考えているのだろうか。

「私は震災で家族を亡くしました。そのことを肯定的にとらえることはできないけれど、でも、“パパもママもお姉ちゃんも私のせいで死んじゃった”、“家族がいなくて悲しい”って思うことはやめたんです。だって、家族が亡くなったことは事実だし、覆らないことだから。それに、震災をきっかけにたくさんの素晴らしい人たちに出会えたことは、本当にラッキーだと思っているんです」

 最後に、「10年という節目の今、天国の家族に伝えたいことは?」と訊ねると、海音さんは少しの間、考え込み「特に伝えたいことはないかもしれないです」と答えた。

「きっとみんな、毎日、私のことを見てくれていると思うから、わざわざ伝えることもないかなぁって。パパもママもお姉ちゃんも現実にはいないけれど、でも、私の中にちゃんと記憶は残っています。だからきっと、これからもなんとか大丈夫だろうなって信じています」

熊谷海音(くまがいかのん)さん
2003年宮城県生まれ。2011年3月11日の東日本大震災で両親と姉を亡くし、父方の祖父母に引き取られ、中学2年の冬からは母方の叔父家族と暮らす。2017年の夏にカナダでのホームステイを経験し、2020年11月から2021年4月まではイギリスに語学留学。趣味はマンガ、アニメ、ゲーム、小説の執筆、歌、ミュージカルと多岐にわたり、高校ではミュージカル部に所属している。

<取材・文/熊谷あづさ>
ライター。猫健康管理士。1971年宮城県生まれ。埼玉大学教育学部卒業後、会社員を経てライターに転身。週刊誌や月刊誌、健康誌を中心に医療・健康、食、本、人物インタビューなどの取材・執筆を手がける。著書に『ニャン生訓』(集英社インターナショナル)。ブログ:「書きもの屋さん」Twitter:@kumagai_azusa、Instagram:@kumagai.azusa