福島原発事故の母子避難者 森松明希子さん(写真/共同通信)

 未曾有の原発事故から10年。母子避難者の森松明希子さんにとっては、住み慣れた地域を追われた年数でもある。子どもたちが夜行バスでやってくる父親に会えるのは、今も月に1度だけ。家族一緒の暮らしは奪われたままだ。国連の壇上で、講演で、裁判で、森松さんは声を上げ続ける。避難した人も、とどまる人も、等しく大切な命だから。

問題の本質は“被ばく”です

 2011年3月11日、東日本大震災・福島第一原発事故が発生した。そしていま、「原発事故から10年」という文字が飛び交う。しかし、被害を受けた当事者にとっては、あの日から地続きの積み重ねが3652日目を迎えるだけだ。ひとりひとり、事故前の歴史と、事故で断絶されたその後の歴史がある。

 事故から7年後の'18年3月18日、スイス・ジュネーブの国連人権理事会の壇上に、1人の日本人女性の姿があった。森松明希子さん──2人の子どもを守るため原発事故後、福島県郡山市から関西へと避難した女性だ

今後も福島、そして東日本の、特に、脆弱な子どもたちを、さらなる被ばくから守ることに力を貸してください

 そう世界に訴えた彼女は国内各地でも、精力的に講演活動を行っている。

問題の本質は“被ばく”です

 森松さんは、筆者の取材の最初にそう言った。原発事故は、核災害であり、命が脅かされる「被ばく」を伴う。その本質から逸れると、原発から遠くに住む人には、何が問題なのか見えにくくなってしまう。

命より大切なものはないという強い思いを森松さんは持ち続け、放射線被ばくから免れ、健康を享受する権利は、最も大切な“基本的人権”にほかならないと訴える

 森松さんは、いわゆる「自主避難者」だ。政府の避難指示がなかった地域から、子どもを連れて避難した、「区域外避難者」とも呼ばれる。筆者も含め、メディアは「わかりやすさ」から、「自主避難」という言葉を使う。

 しかし、その言葉のせいで「必要もないのに勝手に避難を選択した人たち」と勘違いされ、避難が「自己責任」にされてしまう原因ともなっている

 森松さんは「この“自主避難”という言葉が、私たちの苦悩を、より増幅させている」という。原発事故のせいで被ばくさせられる環境がなければ、誰ひとり、避難などしなかった。だから、森松さんは「自力避難」という言葉を使っている。自分の力で、避難するよりなかったのだ、という思いを込めて。

県外へ出るハードルは高かった

 1973年10月、兵庫県伊丹市で森松さんは生まれた。1つ上の兄と森松さん、7歳差の妹の3人きょうだいは、男も女も関係なく平等に育てられた。「女の子だから」と何かを制限されることもなく、父とのキャッチボールも兄と同じようにやった。

3人きょうだいの長女として、男女関係なく平等に、のびのびと育てられた森松さん

 中学校からは、中高一貫の私立同志社女子中・高等学校に通い始めた。毎朝、礼拝の時間に聖書を読む時間があり、森松さんはとても関心を寄せ、熱心に話を聞いていた。日雇い労働者の町で炊き出しをしている牧師、ハンセン病患者の支援をしている人など、社会課題について講師が話をしに来てくれることもあった。このときに聞いたさまざまな話は、今につながっていると森松さんは言う。

 中学2年生のときの担任だった大西恵美さんは、森松さんをよく覚えている。

成績も飛び抜けてよく、スポーツもできて、利発クラスをまとめて、文化祭や体育祭を盛り上げていました先を見通して、はっきり意見を言える子でした

 大学では法学部に進学。進学の際、ある企業の返済義務のないスカラシップ生(奨学生)に合格した。

 このスカラシップ制度での奨学生同士の交流は、森松さんにさまざまな人との出会いをもたらした。のちに学者や研究者、官僚、医療従事者、議員、経営者、音楽家や芸術家になるなど、多様な価値観を持つ人たちだった。夏はキャンプ、冬はスキー合宿など、泊まり込みで深い討論も行い、意見は違っても互いを尊重し、理解し合えるという貴重な経験を積んだ。

 大学時代は、大手進学塾から派遣される塾講師と家庭教師のアルバイトを始めた。

子どもを教えるのは楽しかったんですお寺の集会所で教えていたクラスは、進学塾というよりは、まさに『寺子屋』のようでした

 評判が広まり、毎日のように寺子屋に子どもが集まるようになった。

 当時は就職氷河期。森松さんは、大学4年間、家庭教師として派遣されていたその塾に就職が決まっていた。しかし、バブルが崩壊し、卒業間際でその塾が倒産。「この先どうしよう」と思っていたところ、「寺子屋を続けてください」と子どもたちの保護者からお願いされた。

 その一方で、大学在学中にスポーツジムのインストラクターの資格も取得し、大手企業が運営するジムで、昼間のクラスも担当していた。 

 ジムでは日中は、比較的健康な高齢者が参加することが多い。ひざに負担がかかりにくい水中のアクアビクスや、青竹踏みを取り入れたエアロビクスなどを、学びながら教えていた。もともと命や健康に関心のあった森松さんは、「スポーツジムも素晴らしいことをやっている」と感じていた。

 昼間はジムのインストラクター、夜は寺子屋で子どもたちを教える日々を続けていたが、「インストラクターの仕事は体力的にも長くは続けられない」とも考えていた。そのため、27歳のとき、中途採用で兵庫県尼崎市の医療系の団体に就職。地域医療や福祉、予防医学など、これまでのスポーツジムの経験が活かせると森松さんは考えた。関心のあった命や健康、医療・福祉分野には関われると思ってのことだった。

 就職して2年目、東京の本部への異動を命じられた関西圏から1歩も出たことがなかった森松さんは、東京に行くことに躊躇(ちゅうちょ)し、大学時代を東京で過ごした兄に相談した

 兄はそんなチャンスは人生で絶対に来ない。東京は日本の首都だから、視野も経験も広がるし、1度は関西を出てみて経験を積んだらいいよと、背中を押してくれた

このときの私の気持ちは、避難をしたくてもいきなり福島県を出るなんてできない、と思う人の気持ちと同じだったと思います県外や、まして東京に行くハードルは高く、怖かった

 東京に出てきた森松さんは、残業や出張の多いハードな仕事を続けていた。そんな中、新司法試験制度ができたことを知る。社会人経験のある人が法曹になるための司法改革としてロースクール制度が導入された。

 森松さんは医療事故の問題を近くで見聞きしていたこともあり、医療訴訟に関心があった。そこで、関東のロースクールに出願。晴れてロースクールの1期生になった。

「ロースクールでも、多様な社会人経験を重ねた友人や恩師と出会えました。そのことは、いまに影響しています」

汚染された水を飲み、与えた母乳

 2005年、森松さんは、同じスカラシップ生のOBである夫と結婚夫は研修医として1年間、福島県郡山市の病院に勤務したが、このことが、森松さんが郡山市で暮らすきっかけとなる

「地域医療をやりたいから、東京ではなく郡山の病院で働きたい」という思いで、夫は郡山市内の病院に就職。一緒に転居した森松さんも、温泉やスキー場もあり、地方都市でもあり、環境もよい郡山市をとても気に入っていた。

 ロースクール卒業後、森松さんは司法試験を受験したが、合格にはいたらなかった。その直後に妊娠し、'08年に長男が誕生。言葉や文化の違いに戸惑うことも多かった郡山市での子育て。身寄りのない土地で、妊婦・母親教室でつながった友人たちと一緒に、さまざまな「初めて」を乗り越えた。'10年には長女も誕生、4人家族に。ともに母親として成長する友人たちに、森松さんは助けられていた。

 2011年3月11日。森松さんは自宅の中で、0歳の娘を抱きかかえ、部屋の真ん中に座ったまま、激しい揺れと死の恐怖に耐えていた絶対に動くはずのない家具がこちらに迫ってくる

 娘だけでも助かってほしいと、とっさにテーブルの下に押し込むと、遊びと勘違いしたのか、娘はキャッキャと笑顔を向けた森松さんは“この笑顔を見るのが最期かもしれない”と思いながら、せめて、この子だけは助かってほしいと願っていた

 三陸沖を震源としたマグニチュード9の大地震。郡山市は震度6強の揺れだった。息子と夫、2人の命が無事なのか、万が一の覚悟を決めなければならないとも考えた。

 幸い、息子も夫も無事帰宅したが、自宅マンションは地震の影響で水浸しになり、避難所に行かなくてはならなくなった。夫の勤め先の病院に転がり込み、そこで丸1か月を過ごすこととなる。

 病院は停電せず、待合室のテレビが見られた。また、断水もしていなかった。救援物資はなかったが、水さえ出れば「これで数日生きられる」と思った。

 数日の間、テレビにかじりつき、報道から得られる情報を集めていたが、そこで初めて福島第一原子力発電所の過酷事故を知った

 爆発の映像を見た瞬間、「あれ?」と森松さんは思った。事故を絶対に起こさないと言われていた原子力発電所が、爆発している。すぐに恐怖に変わっていった。原発から郡山市までは、60kmしか離れていなかった。

“核の平和利用”とうたわれていた原子力発電所が事故を起こせば、出てくるものは原子爆弾と同じですよね害悪以外の何ものでもない、毒物です

水素爆発で白煙を上げる福島第一原発3号機。事故から10年たっても収束は見通せない

 森松さんは、原発から同心円状に、「5km」「10km」「20km」と拡大していく避難指示の情報を、固唾を呑んで見守っていた。

「きっと、混乱なく逃げるための情報を与えてくれる。60kmまで拡大されれば、私たちも車に飛び乗って逃げ出すのだろうと考えていました」

 国は住民の命や健康をいちばんに考えてくれると信じていた。だから「勝手に避難をしたら混乱を招く、冷静でいなくては」と、恐怖を必死に抑えていた。

 しかし、当時の枝野幸男内閣官房長官は「健康にただちに影響はございません」と繰り返すばかりこのころ、母親教室で知り合った友人からは「逃げたい」というメールが来ていた実際に、福島県外に避難した友人らもいた多くの人が、「ここに住んでいても大丈夫なのだろうか」という不安を抱えていた

 3月23日には、東京都の金町浄水場で、水道水から放射性物質が検出されたという報道があった。それを聞いて、まず「なぜ東京の報道が先なの?」と思った。原発から200km離れた水道水に放射能が含まれていて、60kmしか離れていない郡山市の水道水に含まれていないはずがない。テレビでは「念のため小さいお子さんがおられるご家庭の方は、水道水を飲まないようにしてください」と呼びかけていた。

 翌日には、ローカル局が、郡山市にある4つの浄水場のすべてから放射性物質が検出されたことを告げていたしかし郡山市では、水道水の汚染が報じられても、東京の一部地域のように各家庭にペットボトルの水が配られることはなかった

 避難所にいる森松さんに選択肢はない汚染されているとわかって、水を飲むその水を飲んで出た母乳を泣く娘に与えたこれは、当時の福島県で子育てをしていた人すべてが直面したことでもあった森松さんは、この水の話だけは、つらく、消し去りたい記憶として、2年ほど人前では話せなかったという

母子避難を決意させた息子の表情

 4月になり、息子の幼稚園の近くに住むところを決めた。それからの暮らしは、被ばくを避けるため、日常生活と呼べるものではなかった。洗濯物は外に干せない。自分も子どもたちも自宅に缶詰め状態。買い物は24時間営業のスーパーに仕事帰りの夫が立ち寄り食料品・日用品を買う。

 息子の入園式の日。被ばくを恐れながらも、娘をベビーカーに乗せて幼稚園に向かった。大切なお祝いの日だ。子どもたちの晴れの日の写真を撮る保護者に、園長先生が言った。

もっと写真を撮っておいてください

 森松さんが不思議に思うと、園長先生は、郡山市にも放射性物質がずいぶん降ったこと、実際に幼稚園内も測定したこと、少ない線量でも浴びないほうがよいことを話し、明日以降は、幼稚園の制服は着ないで、長袖・長ズボン・分厚い上着を着用させてくださいと言ったまた、園庭での外遊びを一切させないことも告げられた

 森松さんはショックを受けつつ、「やはりそうだよね」と納得していた。100人ほどの入園予定者が、70人に減っていたことも知った。「地面にいちばん近い小さな子どもたちが、いちばん危ないよ」と、幼稚園の先生やほかの母親から教えてもらったため、翌日から娘をベビーカーには乗せず、抱っこひもに換えた。それでも足りないかもしれないと考え、より高い位置で固定するおんぶひもで送迎するようになった。

 当時は、小・中学生の保護者たちも、子どもたちを守ってほしいと声を上げ始めていたころだ小佐古敏荘内閣官房参与が、政府の子どもへの被ばく対策を批判し、この数値(校庭利用基準の年間20ミリシーベルト)を、乳児・幼児・小学生にまで求めることは、学問上の見地からのみならず、私のヒューマニズムからしても受け入れることができませんと、涙ながらに辞任した時期でもある

 幼稚園からは、マスクが束で配布された。森松さんは、マスクができない0歳の娘を外に出さないために、ひとり家に残し、3歳の息子を自転車に乗せて、猛ダッシュで幼稚園と家とを往復するようになった。

 外に出しても危険、部屋に残しても危険な中での、苦渋の選択3歳の息子には「早く! 早く歩いてね!」と急かす暖かい春のきれいな花、草木、虫、小石など、幼い息子の好奇心を揺さぶるひとつひとつに、「ダメ!」「触っちゃダメ!」「拾っちゃダメ!」と言い続けた

 週末になると、山形県や新潟県の公園に、高速道路を使って向かった。家の前にも、マンションに併設された公園があったが、そこで遊ばせることができなかった。

 ある日、県外の公園で遊ばせていたときだった息子が「お母さん、見て!」と小石を見せようとした瞬間、「しまった!」という顔をして、パッと小石を手から放した母に叱られてしまうと身構えた息子の様子を見て、「もう福島で子育てすることはできない」と思っていた

 町からどんどん人がいなくなっていった。週末のたびに、引っ越しトラックが子どものいる世帯を乗せていく。

 その年のゴールデンウイーク、森松さんは、親戚・縁者が多く住む関西へと向かった。一時的な滞在のつもりだったが、福島県内のテレビ報道と関西の報道のあまりの違いに驚愕し、“これはもう福島に帰ってはいけない”と思った。

 夫とすぐに話し合い、急きょ母子避難をスタート。避難住宅として、大阪市内の交通局の官舎に入居できることになった。

“患者さんをおいていけないから、僕は仕事に戻るけれど、何か問題が起きれば、そのつど話し合って最善の方法をみつけていこう”と、夫はひとりで郡山へ戻りました条件がひとつでもそろわなかったら、私は福島にとどまっていたかもしれない、と今でも思うときがあります

 逃げたいと言っていた大切な友人には、言葉を選びながら、避難することを告げた。友人は、逃げたくても逃げられない仕事をしている人だった。友人は、「ありがとう」と言った。思ってもいなかった言葉。

 さらに「森松さんは避難すればいいって思っていた」と言い、「私には避難する先がないけれど、森松さんが避難してくれることで、福島県の外に頼って行く先ができる。ありがとう」と伝えてくれた。この言葉を、森松さんは今も忘れることはない。

避難できた自分の子どもも、放射能で汚染された土地に残る子どもも、等しく大切な命守られるべき命です

 その後、避難できなかった友人は、「放射能のことを意識しないように、考えないように生きている」と森松さんに打ち明けた。一時は避難をしたが、2年後に帰還を選んだ友人も、「ある意味、自分を殺して生きていくんだと思う」と話す。しかし、2人とも口をそろえて「人には言えない」「話しにくい」とも語っていた。

「放射能」「汚染」「被ばく」という言葉はタブー化され、タブー化が進むほど事実が共有されなくなるため、被害がなかったことにされてしまう。「その言葉を使うな」という言論封じによって、「命を守る」ことから遠ざかってしまうのだ。

対峙すべきは放射線被ばくであって、被害者同士が分断させられてはならないんです」と、森松さんは言う。

置き去りにされる「自主避難者」たち

 避難してからも、森松さんは“いつになったら家族が一緒に暮らせるようになるのだろう”と考え続けていた。しかし、その後も、郡山市内など中通りでもホットスポットの存在が明らかに。

 さらに事故直後、被ばくを避けるため住民に放射性物質の動きを伝えるはずだった『SPEEDI』(緊急時迅速放射能影響予測ネットワークシステム)の情報は、住民に提供されなかったことも、時間を追うごとに次々と明らかになっていったそういった重要な情報は、すべて後出しだった

 '12年6月には、原発事故子ども被災者支援法が成立。避難する人、福島にとどまる人、帰還する人、それぞれに具体的支援策が作られることが多くの人から期待された。

 森松さんも、全国に散らばる原発避難者も、避難できなかった人も、平等に被ばくから自由になれることを願っていたが、法律は骨抜きのまま、国は具体的な救済施策をほとんど作らなかった

 森松さんは、'13年9月、原発事故を起こした国と東京電力の責任を問う「原発賠償関西訴訟」の原告団代表となり、国と東電を相手に裁判を提起した。

 加えて翌年には、『東日本大震災避難者の会 Thanks &Dream』(サンドリ)も立ち上げた。「当事者自身がアーカイブ」を掲げ、避難当事者の声を発信していくためだった。当事者だからこそ見える視点、気づき、自分自身の受けた被害を紡ぎ、多くの人が救われる施策、取りこぼしのない救済制度の確立につながってほしいと思っていた。

 しかし一方で、世間はどんどん原発事故を忘れ、置き去りにしていくようだった。'15年には、'20年のオリンピック東京開催招致のために、安倍晋三首相(当時)は福島の状況を「アンダーコントロールされている」と発言。多くの人が反発した。

 その年の年末、一時帰宅した森松さんの自宅裏には、除染で出た土を入れたフレコンバッグが大量に積み上げられていた。ざっと数えても、400個、置かれていたのだ。

フレコンの 前で子育て 私無理

 そんな川柳を森松さんは作った。しかし、その川柳に対して、「傷つく人がいる」と言われた。森松さんのなかでも葛藤がないわけではなかった。

 だが、「傷つく人がいるから発言できない」という理屈は、言葉のタブー化であり結局、何も発言できなくなるそして、社会が知るべき事実が知らされず、なかったことにされてしまう

自身の体験を伝えたいと、子育てや仕事に励みながら、講演活動も精力的に行う

 そのうえ同年、区域外避難者に対し、借上住宅(災害時に無償供与されるみなし仮設住宅)の提供が'17年3月末で打ち切られることが知らされた避難指示があった地域には毎月10万円の精神的慰謝料があったが、区域外避難者には定期的な賠償は一切ない

 つまり、区域外避難者にとって、借上住宅は唯一の経済支援だった「追い出さないでほしい」と、多くの区域外避難者が声をあげた打ち切られると、帰らざるをえない人も出てくるそれは、被ばくを避ける暮らしが再び剥奪されることと等しかった

 区域外避難者は、そもそも生活再建が難しかった。まして幼い子どもを抱えての母子避難では、就労も困難だ。離れ離れの暮らしで心がすれ違い、離婚に追いやられた人もいる。区域外避難への周囲の無理解は、孤立をも深める。経済的にも精神的にも追い詰められる人が数多くいた。

 借上住宅の打ち切りをめぐって、復興大臣の失言が相次いだ。

 '17年4月、今村雅弘復興大臣は(自主避難は)本人の責任でしょう。(不服なら)裁判でもなんでもやればいいじゃないかと発言し、辞任

 続いた吉野正芳復興大臣も同年12月、事故から7年もたったんだから、そろそろ自立を考えたらどうかと非公式の席で発言し、問題となった

 加害側である国が、被害を受け、避難をした人たちに対し「自己責任」と切り捨てるあげくの果てに、裁判のなかでも自主避難者を「国土の評価を不当に下げる」と主張し始めたのだ

 森松さんは、今村大臣の失言があった日、娘の入学式だった。本来なら、夜にケーキを食べてお祝いをするつもりだった。しかし、お祝いのケーキはいつでも食べられると判断し、入学式を終えたその足で新幹線に飛び乗り、関西から東京での記者会見の列に参加。暗くなるまで、復興庁前で全国から集まった被害者の仲間たちと抗議をした。

今、声をあげなければ、子どもたちの生活も、“自主避難は自己責任”という、差別的で偏見に満ちたいばらの道になってしまうと、危機感を抱いたんです

 さらにはこの年、復興庁のホームページで毎月発表している避難先自治体の避難者数が実態よりはるかに少ない88人と記載されていたことも発覚森松さんら当事者・支援者が声をあげたことにより、避難者数は800人近くまで上方修正された避難者数の中に、森松さん親子が含まれていなかったという驚くべき事実も発覚した「自己責任」「自立」どころか、存在そのものを無視されたのだ

 この避難者数の問題は、現在も進行中である復興庁が発表する約4万2000人(令和3年1月13日現在)は実態を表すものではなく、実際には7万人とも、それ以上とも言われている

「あなたが国連に行ってくれてうれしい」

 '18年、森松さんのもとに、ドイツ在住のジャーナリストから「ジュネーブでの国連人権理事会で、被災当事者としてスピーチをしてほしい」という依頼があった。

 これまでに憲法の条文や基本的人権を盾に、原発事故被害から身を守りたいと訴えてきた森松さんそのことを知っている周囲の人たちの励ましもあり、ヨーロッパでの受け入れメンバーと、日本でのサポートメンバーに見守られながら、国連人権理事会でのスピーチに挑んだ

国連人権理事会でのスピーチだけでなく、海外から講演を依頼され登壇することも少なくない

 フランスに住む杉田くるみさんは、そのときの受け入れサポートメンバーとして、森松さんの英語スピーチの特訓を手伝った。

彼女は、何も恐れない権力・権威に対し、ひるむことがありません被ばくを避ける権利を国際的人権運動として展開し、国際的に訴える力を持った人

 森松さんについて、そう杉田さんは話す。

 国連でのスピーチ枠を森松さんに用意したのは、国際環境NGOの『グリーンピース』だった。準備期間が1か月もない中、スピーチ前日まで、その内容を詰めるため、日本語・英語・フランス語・イタリア語・ドイツ語が入り交じる大激論になった。

 森松さんは、原発事故後、平和のうちに生存していると思えたことは1度もないという思いを、どうしても伝えたかった避難していても、福島にとどまっていても、どちらにも当てはまる基本的人権の侵害であるからだ

 同年3月19日、森松さんは国連人権理事会でスピーチした。その直後に届いたメッセージは、スピーチの様子をネット配信で見守っていた、福島県内の人からだった。

森松明希子さん、私はあなたが国連に行ってくれて本当にうれしいあなたは最初から、一貫して、避難した人たちだけでなく、福島県内に残っている人のことも、避難していない人のことも、避難したけど戻ってきた人のことも、全部の人に通じる話をし続けてくれているから

 同じ区域外避難者として、福島から埼玉に避難をしている鈴木直子さんも言う。

人権という視点から訴え続けてくれることに、ありがとう、と思います矢面に立つことは、きっとつらいこともあると思うでも、いつもパワーがあってすごい人です

 また7月には参議院・東日本大震災復興特別委員会に被災・避難当事者として参考人招致された森松さんは、放射線被ばくからまぬがれ健康を享受する権利は、人の命や健康にかかわる最も大切な基本的人権ですと訴えた

 ところが、いちばん聞いてほしかった地元・福島県選出の議員は、森松さんの発言の時間だけ、席をはずしていた──

◆  ◆  ◆

避難した人は、誰ひとり、福島の復興をさまたげようなどとは思っていないんですよ

 と、森松さんは言う。福島が大好きだからこそ、豊かな自然と美味しい食べ物の中で、家族で暮らしていたのだ。

 娘は小学1年生のとき、担任教師に「福島の家も、大阪の家も、私の家」と話したことがある。事故当時は0歳だったが、郡山にある「お父さんの住む家」は「1年に1回だけでも、私が帰る私の家」だと認識している。今でも、子どもたちが夜行バスでやってくる父親に会えるのは、月にたった1度だけ。今年で10歳になった娘の年齢が、避難生活の年数でもある。

 コロナ禍で、「目に見えないものとの闘いで、どんどん日常生活が奪われるさま」は、森松さんに、原発事故当時を彷彿とさせた。

“自粛”は、“自主避難”という言葉の使われ方と似ています

 と森松さんは言う。確かに“自粛”は、自らの自由な選択ではなく“感染拡大がなければ必要なかったもの”だ。

本来、持っているはずの権利を、手放すことを強要されているんです

 長期にわたり“自粛”を強いられる中、森松さんの言葉が腑に落ちる人は多いのではないだろうか。「自主避難」も強いられたものなのだ。

 3・11以後、あらゆる節目の祝い事ですら、森松さんは「めでたい」とは思えない喜ばしさを感じるのではなく、子どもたち、家族に「生きていてくれてありがとう」と思う日だ人権が守られ、すべての人が日々の暮らしの安心を取り戻せたとき、初めて「めでたい」を取り戻せるそう森松さんは考えている

《取材・文/吉田千亜》


よしだ・ちあ フリーライター。1977年生まれ。福島第一原発事故で引き起こされたさまざまな問題や、その被害者を精力的に取材している。『孤塁 双葉郡消防士たちの3・11』(岩波書店)で講談社ノンフィクション賞を受賞