3月25日の判決後、記者会見を開いたアイさんと笹田参三弁護士

 岐阜市で昨年、ホームレスの渡邉哲哉さん(当時81歳)が少年グループに襲われ死亡して丸1年。3月25日、岐阜地裁で傷害致死罪に問われた元少年A、元少年B(ともに20歳)に、それぞれ懲役5年、懲役4年の実刑判決が下った。

 事件発生当初から取材を続け、渡邉さんと20年一緒に生活していた、被害女性アイさん(仮名・69歳)の支援活動をしてきた筆者は、初公判から第5回、全ての審理を傍聴した。

 証言台に立ったアイさんは「怖かった、殺されると思った」「なぜ、渡邉さんを死なせたのか」と必死に訴えた。

 この岐阜ホームレス襲撃殺人事件では、傷害致死罪に問われたA、Bだけでなく「C、D、E、F、G、H、I、J」と称される当時19歳の元少年たち10人が関与。さらに、その「彼女」や「友達」なども含めると、10数人が襲撃現場に行っていた。20日間で計7回も少年たちは執拗に「ホームレス襲撃」を繰り返していた。

 中高時代は、野球に打ち込み、その成績を認められ、進学や就職をしていたAとB。渡邉さんに「土の塊」を投げつけ致命傷を与えたAは、被告人質問で「みんなと遊ぶことが楽しかった」「ホームレスを見下す気持ちがあった」と述べた。Aと共謀し、被害者二人を追って石を投げたとされるBは? 前編《【岐阜ホームレス襲撃事件】致命傷を与えた元少年Aが見た、被害者の最期の姿》に続き、審理のゆくえを追った。

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音声記録とは食い違うBの証言

 3月16日、岐阜地裁にて第4回公判、Bの被告人質問がおこなわれた。

 Bは小学2年から野球をはじめ、朝日大学にもスポーツ推薦の学費全額免除で進学した。高校2年のときに肘を痛め手術したが、思うように球が投げられず「大学の人づきあいもイヤで」、大学1年の夏に退学した。

 その後「11月から車の免許を取りにいって、2月からはバイトも辞めて、何もしてませんでした」。弁護人に「野球は好きでしたか」と聞かれて「特に好きとは……そこまで考えたことはありません」と淡々と語った。

 Bは最初の襲撃となる3月6日から25日の事件当日まで、計7回全ての襲撃に同行している。石を投げたときの投げ方は、「野球用語で野手投げ。何かを壊すつもりや人を傷つけるつもりはなかったので、楕円を描くようなスピードで投げました」。

 3月7日と22日の2回は、石は投げず、橋の付近にいたという。

 事件当日の通話アプリの音声によると、Aに投石の合図を送り、Bが「石いく?」と聞いた。その後、A「投げる」、B「僕が合図するからそのとき投げて」と録音されていた。

 しかしBは「僕が合図はしたけど、石は投げていません」と断言した。さらに「もともと投げるつもりはなかったし、北側からは投げる目標もなかったし」

 自分は投げる気がないなら、なぜ「投げない」と言わないのか?

「『僕は投げないから、A投げてー』と言うと、Aに限らずみんな誰でも『なんでお前、投げんのや!?』 と、なると僕は思ってたから。自分も『投げるー』と言っただけです」

事件直後、渡邉さんとアイさんに投げつけられた小石があちこちに散らばっていた(筆者撮影)

 この点を「あまりに不自然」だとして、検察側は詰問したが、Bは同じ返答をした。

――音声アプリで「いくよー、ライトライトライト、3、2、1」と言っているよね?

「はい。(そう言ってるけど)僕は何もしてませんでした。(石は)投げてません」

――じゃあなんで、ライトライトライト、って言ってるの?

「僕はスマホしか持ってなかったので。Cは懐中電灯を持っていたので」

――じゃあ石投げないなら、なんでそんなこと言うの? なんの意味があるの?

「意味は……ないですけど、『自分は投げんから、そっち投げてー』と言うと、『なんで俺だけ投げて、そっちは投げんのやー?』ってなるから」

 Bはそれ以上、説明のしようがないというふうに、くり返した。検察は論告で、Bのこの話を信用できないものと断じ「音声アプリの通話記録から、互いに投石の準備をして、Bがかけ声をかけてAと二人で投石したと考えるのが、自然かつ合理的」とした。

気を引いて、追いかけられたかった

 確かに、Bの話は「不自然で非合理的」に思える。でも、AやBや仲間の話から共通して浮きあがる「みんなで、一緒に」ルールが、見えない掟のように存在し、彼らにとってはそれが至極当然な「自然」だとしたら、あり得ないことだと言いきれない気もした。

 でも真実はわからない。嘘なのか、理解できないだけなのか。それは例えばこういうことか、こういう気持ちなのかとさらに掘り下げ、直接、尋ねられないことがやっぱりもどかしかった。審理の場は、心理を追う場ではないのだと、その限界を痛感した。

 Aと対立したBの投石行為については、「2、3cmくらいの石を拾って、おじいさんの後ろ、1~2m位の地面に向かって投げました。石を投げるのは相手の気を引くためだったので、その位置に向かって投げました」。さらに、気を引くために「わざと足音を立てて、近くに走っていく」などの行為もしたという。

 何のために、相手の気を引こうとするのか、と検事に問われたときには、

「気をひいて……、渡邉さんが鉄パイプを持って追いかけてくるか、石を投げてくるのを……、求めていました」

 つまり、『追いかけられたかった』というのだ。

 以前、兵庫で起きたホームレス襲撃事件の加害者少年たちに会いに行ったときも、同じ言葉を私は聴いた。最初は小さな石だった。小屋に投げると、野宿者の男性が飛び出してくる。それがやがて、小さな石では反応しなくなり、大きな石やボール、ブロック、消火器、だんだん大きなものを投げるようになっていた。「追いかけられないと、面白くないから」と少年は言った。自分たちは遊びのつもりでも、相手に与える恐怖や命を脅かす危険性をわかっていない。その意識の落差と幼さに、愕然とした。

 検事から「石を投げるのが、何が楽しかった?」と問われたとき、Aと違ってBは「楽しいと感じた覚えはないです」と、答えた。

「初めて行ったときは、ぼくが中学校のときに後輩が(河渡橋に襲撃に)行ったという噂を聞いて、そのことを小牧城でホームレスを見たときに思い出しました。(中学で噂を聞いてから)4、5年たっていたので、まだいるんかなぁーという思いで、行ってみたら、おじいさんがいて、鉄パイプを持って僕らを追いかけてきたり、僕らに向かって石を投げてきたり……、そういうスリルというか、恐怖感を味わっていました」

18歳のときからずっと死にたかった

 裁判員からも質問があった。

――そういう鉄パイプを持った人に「追いかけられてみたい」というのは怖くないですか?

「理解してもらえるかわからないのですが……、心霊スポットとかも、ほかの子は単にスリルを求めていたかもしれないですけど、僕は、そういう現象を信じていたから、体験したいという気持ちで。追いかけられてるとか、石投げられるのも、怖いという印象はなかったです」

「小牧城は距離があったけど、河渡橋だと近くて行きやすかったので、何回も行くっていうふうになっただけで。それと、心霊スポットより確実に恐怖感っていうのがあったので、だから何回も行きました」

 さらにBは、なぜ7回も河渡橋へ行くことになったか、こう述べた。

「僕はずっと18歳のときから死にたかったので、何も考えてなかった。死にたいと思っていると、他人がどう思っているかわからないですけど、僕は何もかもどうでもいいと思っていたんで、河渡橋へ行くことも特にやめようとかも言わなかった。全てにおいてどうでもいいと思っていた。だから河渡橋へ行くのも何でもいいやという思いでした」

「特に行きたくてしょうがないわけでもなく。僕が消極的だったわけではないですが、たまたま7回行っているのは、結局Cの家に連続して泊まるというのがよくあったので」

渡邉さんたちが暮らしていた河渡橋西詰下に、事件後すぐに置かれた献花台(筆者撮影)

――どうでもいいのに口火を切るようなことをしてる、それもどうでもよかったんですか?

「ハイ、どうでもよかったんで、何か具体的なことは考えず、そう発言していただけです」

――どうでもいいという考えは今でも持ってる? 事件については?

「事件については……、全員が僕のような考えではないのに、僕の勝手な考えで、アイさんが、夜も眠れないくらい怖い思いをさせて、渡邉さんの命を奪ったことには、反省しています、が、そのあとの自分の人生はどうでもいいという思いです」

 家族への思いを聞かれると、「父と母は面会のときには笑って話してくれて、妹も僕のことを早く会いたいって言ってくれていると聞きましたが、それでも僕は両親に対して、もっと面会に来てほしいと言ったり、本の差し入れを何回も要求して、金銭的にも迷惑をかけている。それをやめることができない。自分が許せないです」

 父親は、Bのことを「手のかからない子でした」と証言していた。「家族みんな仲がよく、友だちのこともよく話してくれました」と。AもBも、親の前では乱暴を働くこともない、家族思いの「優しい、いい子」だったのだという。

死をもって償いたいと泣くB

 そんなBに裁判長が尋ねた。

――警察沙汰になる悪いことだとはわかっていた?

「よくないことだという認識はありました。ホームレスだからといって、家がないだけであって、ほかの人たちと一緒で、普通に生活しているのに、それを邪魔して、僕らが何かされたわけでもないのに、河渡橋を家に例えたら、僕らが勝手に家に入って行って、石を投げてるのと同じだと思っていたので、それが悪い事だと思っていました」

――悪いことだとわかっていて、その罪悪感、抵抗感を乗り越えてしまったのはなぜ?

「野球部をやめたことや、大学やめたことも、両親に何の相談もなしに、急にやめたり、自分の人生について、将来のこととか何も考えてなくて……。だから、今考えれば、違う選択もあったとわかりますが……。そのときには違う選択肢があったとは考えられないで、他人の気持ちを思いやることができなかった……。だから、そういう行為を行っても、自分を止めることができませんでした……」と、泣いた。

 結審の日、最終陳述でBはこう述べた。そのままを、記す。

「私はずっと自分の気持ちを偽りつづけ、自分しか見て来ずに、生きてきました。今回、おじいさんの命を奪ってしまい、怖い思いをさせて、自分は人としてやってはいけないことをしてしまいました。私とそれ以外の人たちは、私と同じ考えはありません。ここにいる人たちも、私より年上の方ばかり、今まで苦労してきたこともたくさんあると想像できます。

 私は、そんな人が好きじゃなく、生きることも好きじゃないです。ここにいる人たちと比べたら、私は、生きて、この罪を償う資格はありません。私は、人という立場、立ち位置には、立ってはいけない考えを持った自分に、ずっと偽り続けてきたことで、一生懸命生きている人の命を奪い、恐怖を与えました。人の尊厳を踏みにじった、私は……私は……、死をもって償いたいです

 そう言って、再び、泣いた。

 渡邉さんなら、なんと言うだろう。やりきれない思いの中、自問していた。

事件を知り、被害女性アイさんを励ます手紙も… (筆者撮影)

 第5回公判。検察側はAに懲役8年、Bに懲役5年を求刑した。対して、A弁護人は懲役4年6か月、B弁護人は執行猶予が妥当と主張した。

 両弁護人は、「土の塊」や「2~3センチほどの小さな石を投げることは、人を死なせるほど危険性を持つ行為とは一般的に言えない」「命の危険に関わるとは常識的に考えにくい」といった弁護をくり返した。

 路上生活では、石ころ一つ、花火一つが命取りになる。それがやはり理解されていないと感じた。またどんな小石だろうと、人に石を投げることは「一般的・常識的に」は考えない。

 判決を受けて、アイさんは記者会見を開いた。

「こんな判決では渡邉さんにいい報告ができない。犯人たちは言い逃れをしたり、本当のことを答えているようには思えない。ひとつの石の重み、その痛みを、わかっていない。私は許せないし、許してはいけないと思う。こうした(ホームレスを襲う)事件が後を絶たないし、ずっとくり返されて、なくならないから」

 今後、被告2名だけでなく、一連の襲撃に関わったほかの元少年たちも対象に、損害賠償を求めて民事訴訟を起こす意思を明らかにした。

判決が出た渡邉さんの命日に、河渡橋下の献花台で祈るアイさん

渡邉さんから与えられた“課題”

 私は刑の年数よりも、判決内容そのものに疑問と不満が残った。

 まず判決では「石や土の塊を投げつける暴行自体は、人を死亡させる危険性が高いとはいえない」と、弁護人の弁明をそのまま採用していたことに驚いた。

 また、渡邉さんは「ホームレス」だったからこそ、見下され、命を落としたのに、判決には、事件の根底にある「ホームレスへの差別意識」について、ただのひと言も触れられていなかった。

 全5回の審理では、主に投石行為等の事実・経緯確認に集中し、被告の内面、心理を明らかにすること、Aはなぜどのように「ホームレス」を見下していたのか、Bは自暴自棄な心の虚しさを、なぜ「河渡橋のホームレス」にぶつけるようになったのか。根本的な動機に、迫っていくことは、残念ながらなかった。

 さらに事件当日の襲撃のターゲットは渡邉さんではなく、女性であるアイさんであったが、なぜ「ババアに用がある!」と彼女に執着し、執拗に追い回したのか。「ホームレス」の「女性」に対する明らかな「性的ハラスメント」であるのに、その点も、不問に付された。

 一方で裁判をとおして、より明らかになったのは「教育の責任」だった。

 事件の発端は、Bが中学時代に聞いたという後輩の襲撃談だった。河渡橋での10年前のテント放火も、小学生の投石事件も、発覚した時点で、少なくとも近隣の小中学校で「ホームレス」問題の人権教育に取り組むべきだった。けれど重大事として扱われないまま、火種は「噂」となってくすぶり、数年後、Bの記憶から再燃し、猛火となってしまった。

 裁判所にも、警察にも、学校にも、親たちにも、くり返し言いたい。

「投石」を決して軽く見てはならない。家を持たない路上生活にはそれがどれほど危険なことか、子どもたちを容易に「人殺し」にしてしまう。結果、この25年間で24人もの野宿者が命を奪われてきた。襲撃を止めるためには、我々大人がまず「ホームレス」問題と真摯に向き合い、正しい知識を伝える教育に取り組むことが急務で不可欠なのだ。

 裁判に先立ちアイさんは、大阪で野宿者への「子ども夜回り」活動を続けている「こどもの里」に講師に招かれ、子どもたちの前で初めて事件について語り、ホームレス経験についても話した。「かわいそうだった。アイさんの家ぞくがなくなっているみたい」「わたなべさんをいきかえらせてあげたい」といった感想が寄せられた。

 襲撃をなくすため、アイさんは今後、小中学校などにも話に行きたいと意欲を示す。

 閉廷後、アイさんと一緒に河渡橋へ向かった。渡邉さんの墓石のまわりは、花や供物が途絶えることがない。アイさんが言う。

「渡邉さんと私の縁は、渡邉さんが殺されたことで、20年で途切れてしまったけど、かわりにこの1年で、こうしてたくさんの人との縁ができた。これは、人間嫌いだった私に、渡邉さんがつなげてくれた縁なんだと思う。裁判に立つこと、いろんな人とつながっていくこと、一つ一つが、渡邉さんから与えられた“課題”なんじゃないかなって、今は思う」

 渡邉さんとアイさんは、家(住居)を持たないハウス・レスだったが、互いを尊重し、あるがままの自分でいられる、心が還る居場所「ホーム」が、ここにあった。

 一方、家はあっても夜な夜な彷徨い、暗い遊びに高じていった少年たちのほうが、拠りどころとなる居場所を持てない、心の「ホーム・レス」だったのかもしれない。


北村年子(きたむら・としこ)◎ノンフィクションライター、ラジオパーソナリティー、ホームレス問題の授業づくり全国ネット代表理事、自己尊重ラボ主宰。 女性、子ども、教育、ジェンダー、ホームレス問題をおもなテーマに取材・執筆する一方、自己尊重トレーニングトレーナー、ラジオDJとしても、子どもたち親たちの悩みにむきあう。いじめや自死を防ぐため、自尊感情を育てる「自己尊重ラボ Be Myself」を主宰。2008年、「ホームレス問題の授業づくり全国ネット」を発足。09年、教材用DVD映画『「ホームレス」と出会う子どもたち』を制作。全国の小中学・高校、大学、 専門学校、児童館などの教育現場で広く活用されている。著書に『「ホームレス」襲撃事件と子どもたち』『おかあさんがもっと自分を好きになる本』などがある。