タモリ

 タモリのイメージは世代によってまったく違う。1970年後半~1980年代における”アングラ時代”の彼を想像する方もいれば、'82年〜'14年まで8054回にわたって出演した『森田一義アワー 笑っていいとも!』(フジテレビ系)でサングラスをつけている司会者、と思う方もいるだろう。いくつもの顔を持つ背景には「今」と「普通」を楽しむ彼の”禅的”な考えがある。ぜひとも、タモリの魅力について語らせてほしい。

“私”を消してすべてを許す力

 タモリという男は不思議だ。日本全国のほとんどが彼の存在を知っている。しかし「タモリがどんな人か」をつかめている人は少ないだろう。例えば、彼は小学3年生のころに、けがをして右目を失明している。この重大な事実はあまり知られていない。

 また、タモリは肩書きの付けようがない。いわゆる”ゆとり世代”だった少年期の私にとって、タモリといえば「お昼にサングラスをかけている、あやしい司会者」だった。しかし、その後、深夜に『タモリ倶楽部』(テレビ朝日系)を観たときに「あっ、この人は芸人なのかも」と直感した記憶がある。

 芸人、司会者、俳優、ミュージシャン……どれもタモリの側面を表した言葉でしかない。その結果、彼は「タレント」という超便利な言葉で呼ばれる。

「日本でトップクラス並みに有名なのに、まったくつかみどころがない」。タモリという男はまったく飄々(ひょうひょう)とした”不思議な人”だ。その背景には、彼の”禅的”な生き方がある。具体的には後述するが、「私を消してすべてを許すこと」「今を楽しむこと」「“普通”を愛すること」がタモリたるゆえんだ。そんな彼のゆるい生き方は、SNS全盛の時代の中で、少し忙しく生き過ぎているであろう現代人にこそ、必要なのかもしれない。

 まず、タモリについて、とにかく誰もが「怒らない」と言う。「笑っていいとも!」の最終回では爆笑問題の太田光も、関根勤も「タモリは怒らない」と口をそろえた。

「タモリ怒らない説」を象徴するのが、早稲田大学時代のエピソードだ。彼は入学後、わずか1年で学籍を抹消されている。その理由は「学費が支払えなかったから」だ。

 当時、仲間内で旅行を計画していた際に、仕送りがあるのがタモリしかおらず、友人のぶんを立て替えた。そのお金が戻ってこなかったから、除籍になったのである。

 タモリがすごいのは「その仲間たちとは、退学後も何も変わらず仲良く遊んだ」という点だ。人生を変える大きなミスを受けても、タモリはほとんど気にしていなかったのである。

 自分と相手の間に相違があったとき、人はついプッツンしがちだ。怒りとは、つまり「自分の考え以外を認めない」ということだ。自我を捨て、すべてを許して受け入れると、人は怒らない。

 仏教の言葉に「一切皆苦(いっさいかいく)」や「諸法無我(しょほうむが)」がある。前者は「そもそも人生って思い通りにいかないもんだ」という考えである。後者は「世の中、自分の所有物なんてなく、すべてはつながりのなかで生まれ、変化していくよ」という意味だ。

 まとめると「“私の考え”自体がそもそも存在しないし、トラブルが起こるのなんて当たり前だよ」ということになる。すると、もとより「怒るきっかけ」がないのだ。タモリにはそもそもプライドがないのである。なんて軽々として“自由”な考えだろうか。

 また、“私”を消してすべてを受け入れることで、人との距離も縮まる。笑福亭鶴瓶は、先述した『笑っていいとも!』のスピーチの場で「(明石家)さんまも(ビート)たけしも緊張するが、タモリとは普通に喋れる」と感嘆する。おぎやはぎの矢作兼は、ラジオ番組で「タモさんは大御所なのに、ずーっと自然でいられるの」と驚く。相手をすべて受け入れるからこそ、誰もが肩の力を抜いて喋れるのだろう。

過去・未来でなく「今」を楽しむ姿勢

 タモリは早稲田大学時代「モダンジャズ研究会」に属していた。また、芸能界に入るきっかけもピアニストの山下洋輔をはじめ、ジャズマンが関わっている。山下は偶然出会ったタモリが、初対面にもかかわらず場を盛り上げまくったことを気に入り、後日、漫画家の赤塚不二夫や作家の筒井康隆など自分の友人に、タモリを紹介したのだ。タモリを表すキーワードには間違いなく「ジャズ」があり、ジャズといえば「セッション」。つまり、即興だ。

 タモリはご存じの通り、生放送のMCをいくつか務めている。また、毎年恒例で出演しているトーク番組『徹子の部屋』(テレビ朝日系)では、「芸人泣かせ」として知られる黒柳徹子の無茶ぶりにも完璧に応(こた)えて徹子を毎回、爆笑させる。

 この当意即妙なトーク力の裏には間違いなく、ジャズで鍛えたアドリブ力があるに違いない。アドリブとは「思いついたことを実行すること」だ。前もって考えた台本はない。

 タモリは過去でも未来でもなく「今」を楽しむ天才である。例えば、タモリの名言に「反省するな」「目標なんていらない」がある。反省や目標とは「過去」や「未来」を考えたうえでの言葉である。そうではなく「今を生きる」のだ。

 これは、曹洞宗の開祖・道元の言葉でいう「而今(じこん)」 だ。私たちは常に「今」の連続にいる。未来がくるかどうかなんて、わからない。過去を悔んだり、未来に不安を感じるのなんて、ある意味で時間の無駄なのだ。それより、とにかく今と向き合うことが大事だと説くわけである。

 こう書くと「うだうだ言わずに、目の前のことを全力でやれ!」とスパルタっぽく見えるかもしれない。しかし、それでは長続きしない。タモリは「やる気になって仕事をしたことがない」とも語っている。今と向き合うことを長く続ける秘訣は「決して張り切らずに楽しむこと」なのだ。

普通を愛する“諦め”の思考

 先述したように、タモリの真骨頂は「アドリブ力」にある。とにかく、いつ何時ネタを振られても、すぐさま反応し場を笑わせる。タモリの芸は仕込んだものではない。

 タモリは「ミュージカル嫌い」としても有名だ。急に踊ったり歌ったりする様に「こっちが恥ずかしくなる」のだという。これに通ずるエピソードとして「テレビの過度な演出を嫌った」という話がある。音楽番組『ミュージックステーション』(テレビ朝日系)や『笑っていいとも!』でスタッフが演出を加えようとすると「普通でいいんだよ」と直したそうだ。

 また、タモリはこんな言葉も発している。「マンネリ化した番組は、いろんなことをやろうとして失敗する」と。

『タモリ倶楽部』1000回放送記念の際には「652回と1000回で何が違う」と語った。また『笑っていいとも!』の最終回での締めの言葉は、それまでと同じ「明日も観てくれるかな」だった。タモリは常に「普通」や「日常」を愛し続けた男だったわけだ。

 仕事もプライベートもマンネリ化すると、足掻(あが)きたくなるものだ。しかし、タモリはある意味で諦めている。「諦」という言葉は、実は仏教用語の1つだ。今ではネガティブなイメージが強いが、もともとは「明らめる」。つまり、集中をやめることで、周りがよく見えてくるわけである。これは彼の「やる気のある者は去れ」という名言にも通ずる姿勢だ。

 往々にして「派手なコンテンツ」というものは、一発屋になりやすい。「最初のインパクトを次回以降で超えられないから」というのが原因のひとつである。毎日きちんと「普通」であり続けることで、視聴者も安心して番組を観られる。タモリが担当した番組の多くが長く愛される理由ともいえるだろう。

 人は生きている限り、周囲とコミュケーションをとりながら暮らしていく。ましてや現代はSNSの影響などによって、過剰なほど他人の声が聞こえてくる。とんでもない速さで情報が入ってくる現代はとっても便利だ。しかし、便利過ぎて、LINEの通知や仕事のメールを少し窮屈に感じる方もいるかもしれない。

 そんな方に、私はタモリの気張らない生き方を提唱したい。「私を消す」「今をゆるく楽しむ」「普通を愛する」という3点に共通するのは「がんばらないこと」だ。

 もし他人とぶつかっている方は、いったん戦うのをやめて、相手を認めてあげるといい。過去の後悔や未来への不安にとらわれている方は、まずは今だけを見つめてみてはどうだろう。周りと比べて特別な自分になろうとしている方は、普通の自分を維持することの素敵さを見つめ直すのも一興だ。

 何かとがんばりたくなる私たちだからこそ、タモリの“飄々とした禅的な生き方”は、きっと救いになるに違いない。

(文/ジュウ・ショ)


【PROFILE】
ジュウ・ショ ◎アート・カルチャーライター。大学を卒業後、編集プロダクションに就職。フリーランスとしてサブカル系、アート系Webメディアなどの立ち上げ・運営を経験。コンセプトは「カルチャーを知ると、昨日より作品がおもしろくなる」。美術・文学・アニメ・マンガ・音楽など、堅苦しく書かれがちな話を、深くたのしく伝えていく。note→https://note.com/jusho