フランスのオルセー美術館前の看板に飾られたゴッホの自画像

 世界でトップクラスに有名な画家、フィンセント・ファン・ゴッホ。彼はわが道を突き進み続けた“ヤバい人生”を送ったことで知られる。

 特に、1956年に伝記映画『炎の人ゴッホ』が上映されてからは、世間的に「ゴッホ=情熱の画家」というようなイメージがついた。まったくその通りだ。彼が作品にかけるパッションはハンパじゃなかった。まぎれもなく天才だ。

 しかし、ゴッホは絵画にのめり込むあまり、「絵を描く前にやることがあるだろ」とツッコみたくなるほど、私生活がボロボロだった。常に情緒不安定かつ、自分で生活費を稼ぐ気がまったくない。ひと言で言うと「メンヘラでヒモの芸術家」なのだ。

 そんなゴッホのメンヘラっぷりがいかんなく発揮されたのが、先輩の画家、ポール・ゴーギャンと繰り広げた「耳切り事件」である。今回は、ちょっと常人では理解が追いつかない、ゴッホのドタバタな人生について見ていこう。

会社も伝道師も解雇され、キレて家出

 ゴッホは1853年にオランダで生まれた。少年時代からいわゆる“キレやすい子ども”で癇癪(かんしゃく)もち。親族を含めて周りとまったくなじめず、高校(国立高等市民学校)も中退してしまう。

 早々にニートとなった16歳の彼は、伯父のコネで画商の会社に就職し、約6年間のサラリーマン生活を送った。その後の奔放な人生をふまえると、6年間勤めただけでスタンディング・オベーションしたくなるくらいの快挙だ。

 ただ、ゴッホはサラリーマン時代、ずーっと人間関係がうまくいっていなかった。そのうえキリスト教にハマり、クリスマスの休暇申請を却下されたにも関わらず無視。実家に帰省した結果、解雇される。

 退職後はキリスト教の伝道師を目指して神学部の受験勉強をはじめるも、難しすぎてサボるように。父から、現代風に言うと「おまえはもはや、ただのニートだぞ。学資も自分で稼げよ」などと言い渡されて、さらにやる気をなくしてしまう。

 結局、受験はしなかったが、25歳で伝道師になる。ただ、教えが自己流すぎて先輩の牧師から「ゴッホ、あんたキリスト教をわかってないよ。解雇です」と告げられ、伝道師の道も断たれた。

 そのあげく「もう夢も希望もないよ……」とうつ状態で放浪生活をした果てに、ズタボロの状態で実家に帰ってくる。見かねた父親は「息子よ、もう精神科病院に行こう」と誘うも、病人扱いされたことにゴッホは激怒。ぶちギレて家出してしまう。当時、彼はとがりきったヤンキー高校生みたいなメンタルだった。

 仕事も親の援助もない。ゴッホは26歳にして、すでに絶望的だったんです。そんな状況のなか、彼を金銭的・精神的に支えたのが弟・テオドルス(通称・テオ)だ。ゴッホはテオのヒモになって、人物画や風景画を描く生活に入るのである。意外と遅い画家生活のスタートだった。

あらゆる人間関係が全滅するゴッホ

 ゴッホは画家になってからも、もちろんアルバイトなんてしない。28歳のとき、歳上のシングルマザーに恋をして求婚するも「あんた、ヒモでニートじゃん。無理よ、無理」といった具合にコテンパンに拒まれて、またも病む。しかし、諦めきれずにテオの金で交通費を捻出し、相手の実家に押しかけるも「ゴッホ、親の私が言うのもなんだが……脈ないぞ」などと相手の家族からドン引きされ、意気消沈して帰る。

 '82年、ゴッホはオランダのハーグにて、画家コミュニティにもまれる。そこで先輩の画家、アントン・モーヴに気に入られ、資金の援助を受けはじめた。

 しかし、ゴッホのヒモっぷりを甘く見てはいけない。彼は絵のモデルを務めていた女性と付き合い、彼女の家賃を援助していたのだ。「先輩からの援助金で彼女の家賃を払う」という、もうなんか、悲惨なマトリョーシカみたいな状況だった。この事実を知ったからか、モーヴはゆるやかにゴッホとの縁を切る。

 また、ゴッホは当時知り合ったほかの画家ともうまくなじめなかった。

 例えば「ゴッホさん、ちょっとだけ、ここを変えてみたら?  もっとよくなりそうだよ」と指摘されると「てんめー!  誰にもの言ってんだ!」という具合にガチギレするので「……あいつ怖えよ」と、みんな関わらなくなるのだ。

 そのうえ、テオからの仕送りが遅れると「絵のモデルを雇えねえだろうが!」などと、金の無心をしている。ゴッホ、このとき29歳。とにかく周りが見えていなかった。

 ゴッホは三十路に突入してからも、周りの画家たちとケンカし、求婚しては振られ、パリで同居を始めたテオからの金で生活をしていた。

 しかも、絵がまったく売れないもんだから、もうゴッホのイライラは常にMAXだ。それを弟にぶつける毎日。テオは心労のあまり、妹に「もう限界。早く出ていかねえかな、あの残念な兄」というような手紙を出している。

 ゴッホは多少「売れるための絵」を描いた時期もあったが、マイワールドをほぼ変えないまま、35歳にして南フランスのアルルに移住。先輩画家、ポール・ゴーギャンに同居を打診し、有名な共同生活が始まるわけだ。

 前提として、ゴッホはゴーギャンを尊敬していた。だからゴーギャンが2人で住む家に到着する前に、テオにお金を催促して死ぬほど作品を描きまくった。合流の前にどうしても自信作を仕上げたかったのだろう。あの『ひまわり』シリーズの一部も、この時期に描いた作品だ。

 そして、ゴーギャンは予定より遅れて到着する。同居生活が始まると、ゴッホとゴーギャンはともに散歩して絵を描いたり、ぶどう畑を見に行ったりと楽しく過ごしていたが、だんだんとケンカが増えていく。

 というのも、2人は芸術観がまったく合わなかったのだ。ゴッホは色彩感覚こそ鋭いが、基本的に見たものを写実的に描く画家だった。一方、ゴーギャンは感覚を重要視する画家だ。目に映った光景を、自分の内面のフィルターを通してキャンバスに落とし込む作風である。

 ゴッホはもちろん、尊敬するゴーギャンの技法を素直に学ぼうとしていた。でも、言うときは言う。プロの画家、しかも先輩に向かって「いや、なんだその色彩は。のっぺりしすぎだろ」 ばりのツッコミを入れだした。

 こ……これは、ゴーギャンとしては恥ずかしい。そもそもゴーギャンは、好きな表現のためにあえて写実性を崩していて、それが彼のよさでもある。そこを指摘するのは、さすがにご法度だろう。米津玄師に「ミステリアスなムードをやめろ。まず髪を切れ」などと言ってしまうようなものだ。

 しかし、絵に関しては作風の違いでさえも看過できないほどに、ゴッホは自分の作品に熱いプライドを持っていた。「画家としての信念をどうしても曲げたくない」という思いの強さがよく分かるエピソードだ。

退院後に自画像を描く自己愛の強さ

 案の定、ゴーギャンとゴッホは大ゲンカ。ゴーギャンは去り際に「おまえの自画像の耳、変な形だな!」 と小学生みたいな悪口を残して、さっさとアルルの家を出てしまう。

 これが「耳切事件」に発展するわけだ。細かい状況は諸説あるが、剃刀(かみそり)で自分の耳を切り、共通の知り合いである女性に「大事にとっておいてね、これ」と言って渡し、警察に保護されて入院した。当時の新聞に「ヤバいやつ現る!」という内容の記事が出るほどの騒ぎだった。

 ゴッホの「情熱」を感じるのはここからだ。彼は入院後、わずか2週間ほどで一時帰宅してアルルの家に戻り、鏡を見ながら『耳のない自画像』を2枚描く。画家として「今の感情を残しておかねば」と思ったのかもしれない。

 当時、自分が一定間隔で”てんかん”の発作に襲われることをわかっていた彼は、安定した状態のうちに猛スピードで絵を描いていたという。 精神的、肉体的にボロボロで疲れきった状態にもかかわらず、一心不乱にキャンバスに向かい、少しでも作品を描こうとする狂気。一般人だったら、いったん絵筆を置いて寝るのではなかろうか。ここに、彼の画家としての並々ならぬ才能を感じる。

 また、題材として「自画像」を選ぶことにも驚く。「耳を失った自分」を描くことに意欲を燃やす姿には「強烈なナルシシズム」を感じる。彼は人生のほとんどで、他人となじまずに自分の内面とだけ向き合ってきた。

 自分勝手で怒りっぽいとともに、ものすごく繊細でもあったゴッホ。彼が「耳を切った自画像」を描いた背景には、「絵に対する情熱」だけでなく、生きづらさを抱えた「自分」に対しての情熱も感じられるのだ。

 さて、弟が画商だったのにも関わらず、生前に売れたゴッホの絵は数枚しかない(1枚という説もあり)。マイワールドに没入していた彼は、いわゆる”売れる絵”を描かなかった、というのもその理由のひとつだ。

 絵に対する情熱が強すぎて、プライベートはボロボロだったゴッホ。彼の”ヤバい人生”を知ると、より作品のエネルギーを感じられるかもしれない。

(文/ジュウ・ショ)


【PROFILE】
ジュウ・ショ ◎アート・カルチャーライター。大学を卒業後、編集プロダクションに就職。フリーランスとしてサブカル系、アート系Webメディアなどの立ち上げ・運営を経験。コンセプトは「カルチャーを知ると、昨日より作品がおもしろくなる」。美術・文学・アニメ・マンガ・音楽など、堅苦しく書かれがちな話を、深くたのしく伝えていく。note→https://note.com/jusho