『L⇔R』黒沢秀樹

 1995年に『KNOCKIN'ON YOUR DOOR』が大ヒットを記録した『L⇔R』。デビューは1992年だが、それ以前から音楽活動をしていたという。メンバーの1人、ギターの黒沢秀樹が当時を振り返る。

兄の健一が高校生のとき、小室哲哉さんが審査員を務める作曲コンテストで賞をもらったんです。のちのち小室さんの番組に兄貴が出させていただいたとき、その話をしていましたね

 当時から音楽業界では健一さんの才能が知られていて、L⇔Rのプロデューサーとなる岡井大二からコンタクトがあった。

「僕が中学2年生くらいのころ、大二さんが僕らの実家に来ました。それで高校生の兄貴について、“ちょっと預からせてほしい”みたいな話を両親としていましたね」

 茨城県から上京後は、2人でバンドを組んでいた黒沢兄弟。もう1人のメンバー、木下裕晴から誘いを受けたことでL⇔Rが結成された。

「もともとは友達というか、兄貴と僕が前にやっていたバンドをよく見に来ていたのが木下で。彼は彼で、当時もっと人気のあるバンドで活動していたんですよ。結成のきっかけは、彼が僕らと“どうしても一緒にスタジオに入りたい”という話をずっとしていたんですが、僕らがグズグズしていて。シビれを切らした木下がスタジオを取って、“取ったから来い”と(笑)。そんなところからスタートした感じですね」

 岡井とともにプロデューサーを務めた牧村憲一はフリッパーズ・ギターも手掛けていて、L⇔Rも渋谷系のオシャレなバンドだと思われていた。

「僕たちは明確に違うなぁと思っていたんですが、“まあ別にいっか”みたいな感じで (笑)。もともと洋楽マニアで、デビュー前も“マニアックすぎる”とか“ちょっとわかりにくい”とか言われてたんで。それを逆に斬新だと考えてくれたのが、牧村さんだったんですよね」

 プロのミュージシャンの間ではデビュー当時から高く評価されていたが、一般に知られるようになったのは、江崎グリコ『ポッキー』のCMソングになった1994年の『HELLO,IT'S ME』からだろう。

「まったく知らないところでタイアップの話が進んでいて。僕たちは“大人の世界”に興味がなかったんですよ (笑)。“商業的なことをスタジオの中に持ち込まないでくれ”と約束していたんですけど、取材が1日に何本もあったり、だんだん音楽制作をやる時間がなくなっていきましたね……

兄・健一さんは「天才だった」

 1995年には『KNOCKIN'ON YOUR DOOR』がフジテレビ系の月9ドラマ『僕らに愛を!』の主題歌に起用され、大ヒット。

「あれは兄貴の一筆書きみたいな感じで、一瞬で仕上がった曲なんですよ。かなりのスピード感で仕上がったような気がします。ほんとに、3日とかですね」

 弟から見ても、ボーカルの健一さんには特別な才能があったという。

「紛れもなく天才だと思いましたね。兄貴は高校卒業後すぐ東京に出て作曲家の仕事をやっていたんですけど、そのあと世に出た僕らの作品の中で名曲といわれているうちの何曲かは、実はまだ実家に一緒にいたころ、当時高校生だった兄貴が作ってるのを僕は隣で見てたんですよ」

 ただひたすら音楽が好きで、いわゆる芸能活動のようなことは考えていなかった。しかし、テレビ出演も増えてくる。

「ちょっと……変な感じでしたね。だって、『ミュージックステーション』とかに出るとテレビで見たことある人が隣にいるわけじゃないですか。“本物だ……本当にいるんだ”みたいな(笑)。SMAPが隣にいたりすると、“なんか現実感ないな……”って思ったり。ただ、スピッツが一緒に出演したときは、裏で彼らが“なんか俺たち、全然場違いな感じするよな……”と僕らに話してくれて、安心したのを覚えています(笑)

 多忙を極め、1997年のアルバム『Doubt』を制作中、健一さんの精神が限界に。

インタビューに答える『L⇔R』黒沢秀樹。ドラマのタイアップを受け、大ブレイクしたL⇔R。人気絶頂期は「記憶がなくなるくらい働いた」という

「忙しすぎてプレッシャーもあったと思いますし、自由にものを考えられる時間が少なかった。そういう中でうまくやれる人もいるけど、僕の兄みたいな“音楽だけ”って人にとっては、けっこう厳しいものだったと思います。兄が“もう無理だから休む”と言って、一回離脱することに」

再始動に「それもいいかな」

 このアルバムを最後にL⇔Rは活動を休止し、それぞれソロ活動を始めることとなった。2016年に再始動の計画が持ち上がるが、健一さんの身体は病魔に侵されていた。

再始動について兄貴は“今じゃない”って言い続けていたんですが、少し身体を壊したときに“もう一回一緒にやらない?”と改めて聞いてみたら、“それもいいかもな”ってなって。じゃあその足がかりを作るところから始めようか、なんて言い始めた時期に、今度は脳腫瘍が発覚して……。兄としても、願わくばもう一度L⇔Rとしてやりたいっていう気持ちはあったんじゃないかな。僕らも心残りではあります」

 その年の12月、健一さんはこの世を去った。

「今でも心に大きな穴がぽっかり空いた状態。それはもう一生変わらないですね。兄の死を悲しんでくださったファンの方々の中には、僕に兄の姿を投影する人もいると思うんですけど、僕は兄にはなれない。でもなれないからこそ、できることもあると思うんですよね。この歳になると、みんな何かを失ったり、抱えきれないことが増えてくる。だから、そのことを“共有する”のがすごく大事なんじゃないかと」

 コロナ禍でライブに足を運びづらい現在は、配信も駆使してファンに音楽を届けている。

「誰でもタダで見られるコンテンツを作りたいと思ったんです。YouTubeで無料のライブ配信をするためにクラウドファンディングを始めたら、目標の359%、180万円近いご支援をいただけました。コロナでどうなるかわかりませんが、5月2日には東京、8日には神戸、9日には大阪でライブも予定しています。よっぽどのことが無い限り、無観客でもやろうかと。

 あと、オンラインでファンクラブのようなものを立ち上げようとも思っています。L⇔Rのファンだった方たち同士が、ギュッと近くなるようなコミュニティをつくりたい。“ひとりぼっちじゃない状況”を音楽を通じてつくれたらなと思います」

 健一さんが遺した音楽の絆は、これからも人々の心のドアをノックし続ける。