松本人志が壊した「お笑い界の伝統」とは?

 デビュー当時は横山やすしから批判を受けたダウンタウンの漫才。しかし、その後は破竹の勢いで、お笑い界の頂点に登りつめたのは誰もが知るところ。2人の漫才はなぜベテラン勢からの批判を集めたにもかかわらず、大衆の心をつかんだのか? お笑い評論家のラリー遠田氏による新書『お笑い世代論 ドリフから霜降り明星まで』から一部抜粋・再構成してお届けする。

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横山やすしに批判された
ダウンタウンの漫才

 ダウンタウンは、100年を超える歴史を誇る「笑いの総合商社」である吉本興業に所属する芸人である。だが、彼らの笑いの本質は、それまでの伝統とは無縁のオリジナルなものだった。それを象徴しているのが、若手時代の彼らが横山やすしに批判されたときのエピソードだ。

 やすしは天才漫才師として知られ、漫才に対するこだわりと愛情は人一倍強い芸人だった。そんな彼は『ザ・テレビ演芸』(テレビ朝日)という番組の企画でダウンタウンの漫才を見た後、彼らを激しい口調で批判した。

「お前らはなめとんか! そんなもん漫才やない! チンピラの立ち話じゃ!」

 漫才一筋で生きてきたやすしの頭の中には、漫才の理想的な「型」というものが存在する。日常会話のようなゆったりしたテンポでボソボソと話すダウンタウンの漫才は、彼にとっては漫才と認められる代物ではなかったのだ。松本は著書でこのエピソードを引き合いに出して、師匠と呼ばれる上の世代の芸人たちが、漫才の伝統的な形式にこだわることを鋭く批判した。

ダウンタウンの漫才を批判した横山やすし師匠

もともと漫才とは、そんなこ難しいものではないのだ。舞台の上で、二人がおもしろい会話をする、それだけのことなのだ。 

チンピラの立ち話でおおいに結構だ。チンピラが立ち話をしているので、聞いてみたらおもしろかった。最高やないか! それこそオレの目指す漫才なのである。 

間が悪い、テンポがどうした……関係ない。笑えるか笑えないかがいちばん大事なことであり、テクニックは後からついてくるものである。

(松本人志著『遺書』朝日新聞社)

 ここでは松本の「漫才観」、そして「お笑い観」が端的に表現されている。松本は、漫才よりも笑いそのものを信じている。上手い下手は関係ない、面白ければそれでいい。つまり、彼にとっては芸よりも笑いそのものの方が重要なのだ。ここには歴史的な価値転換がある。

 寄せ集めのバンドマンだったザ・ドリフターズや、19回連続NGを出した落ちこぼれ芸人だった萩本欽一は、テレビという新しいメディアに適応した「テレビ芸」を生み出し、それによって一時代を築いた。

 ビートたけしは師匠である深見千三郎が否定した「漫才」という芸でブームの波に乗り、落語の下手な落語家だった明石家さんまは、落語をやらずにテレビのスターになった。

 彼らのような上の世代に共通するのは、「芸」というものに対する絶対的な敬意や憧れがあることだ。「自分たちはきちんとした芸をやらないまま、テレビの世界で成功してしまった」という負い目のようなものを、それぞれが多かれ少なかれ抱えているように見える。

 素人であることを売りにして成り上がったとんねるずですら、本物のプロに対して一目置くような態度を見せていた。そもそもとんねるずの芸風は、プロと素人の間の絶対的な格差を前提にして成り立つものだ。

 本来、素人はプロに勝てない。だからこそ、素人がプロを向こうに回して暴れ回るのが痛快だったのだ。

面白ければそれでいい

 だが、松本にはそのような負い目が一切感じられない。そこには「上下関係が希薄」という新人類世代の特徴もはっきり表れている。もちろん、上の立場の人に敬意を持っていないわけではないと思うのだが、伝統的にきちんとした芸とされているものを守りたいという意識はほとんど感じられない。

 そんな松本のお笑い観は『M-1グランプリ』や『キングオブコント』で審査員をしているときの審査方針にも体現されている。2017年の『M-1』でジャルジャルが「ピンポンパンゲーム」というゲームをやり合うだけの斬新な形の漫才を演じたとき、ほかの多くの審査員が低い点をつけたのに対して、松本だけが高得点をつけていた。

 松本は、ネタを評価するときに「それが伝統的な型に合っているか」ということを考慮に入れない。ただ面白いかどうかだけを見て評価する。松本は、自らが笑いの権威となってからも笑いの伝統や歴史といった既存の権威を信じていない。面白ければそれでいいという態度を貫いている。

 ビートたけしは松本人志との対談の中で、自分たちの世代の漫才とダウンタウンの漫才の違いについて、以下のように語っていた。

(編注:自分たちの漫才は)あの当時としては新しいことをやってたんだけど、かなり荒いんだよね。その時代のあとに出てきたダウンタウンはもっときめ細かい。

おいらの二、四、六、八というネタの切り取り方が、一、二、三、四でとってきたという感じ。乗った時は、〇・一とか〇・二の刻みでとり出したという感じがある。スピード的には二、四、六と飛んでいくから、B&Bとかおいらの漫才のほうが早いんだけど、ダウンタウンは〇・一をじっくりもたせちゃうというところがある。
(北野武編『コマネチ!ビートたけし全記録』新潮文庫)

 ここでたけしは、自分たちよりもダウンタウンの漫才の方が「きめ細かい」と述べている。たけしが数字の例を出して伝えたかったのは、単純なしゃべりの速さの違いと、笑いの質の違いの両方だろう。より重要なのは後者だ。

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 ダウンタウンの漫才は、一般的な漫才に比べてスローテンポであると言われてきた。それでも、その漫才が高く評価されたのは、内容が抜群に面白かったからだ。

 漫才ブームの頃のツービートやB&Bは、すさまじい速さで言葉を繰り出し、勢い任せに笑いをもぎ取るようなところがあった。一方、ダウンタウンはゆったりした間合いで、1つ1つの言葉で確実に笑いを取る。勢いに頼らず、言葉をきちんと聞かせて笑いを生み出していく。そのためにはより繊細な言葉選びが必要になる。

松本人志が
「お笑い界のレベル」を引き上げた

 お笑いの世界に「動きの笑い」と「言葉の笑い」の2つがあるとすれば、松本は間違いなく言葉の笑いのスペシャリストである。松本の登場によって「言葉の笑い」こそが高度な笑いであると考えられるようになり、お笑い界全体のレベルが上がった。

 現代のバラエティ番組の最前線にいるような芸人たちは、ほぼ例外なくアドリブ能力が高く、1つ1つのやり取りの中で即興で話にオチをつけて笑いを生み出すことができる者ばかりである。逆に言うと、その能力がなければ生き残れない時代になったということだ。

 今では、言葉のセンスを競う「大喜利」が、芸人の能力を測る1つの重要な指標だと思われている。短距離走で例えるなら、ダウンタウンの登場によって、お笑いは1秒の差を競い合うものから0.01秒の差を競い合うものになった。言葉の笑いの進化が促進され、お笑い界の全体的なレベルが底上げされたのである。


ラリー遠田(らりーとおだ)Larry Tooda 作家・ライター、お笑い評論家
主にお笑いに関する評論、執筆、インタビュー取材、コメント提供、講演、イベント企画・出演などを手がける。『イロモンガール』(白泉社)の漫画原作、『お笑い世代論 ドリフから霜降り明星まで』(光文社新書)、『教養としての平成お笑い史』(ディスカヴァー携書)、『とんねるずと「めちゃイケ」の終わり〈ポスト平成〉のテレビバラエティ論』(イースト新書)など著書多数。