『サスケ』の2人。(左)奥山裕次(右)北清水雄太。出身地の埼玉県毛呂山町観光大使も務める

「いまだに、1店舗でCDが5000枚も売れるなんてことはないみたいで、関係者の人にも“本当にすごいことだよ”と言われますね。電車に乗ると隣の人たちが自分たちの曲の話をしていたり、自分のことなのになんだか不思議な感じでした」(奥山裕次)

 今から18年前の2003年10月、大宮のとあるCDショップで500枚だけ限定販売されていたシングルCDがある。歌っていたのが、男性デュオのサスケだった。

「当時、メジャーデビューに向けて、作った曲を事務所の人に聴いてもらっていたんですが、2年くらいはボツばかりで……。『青いベンチ』も最初はボツ曲だったんです。とはいえ、2年近く頑張ってきたし、最後の思い出づくりに地元で500枚だけ出すか、くらいの感じでしたね。自分たちでできたばかりのCDを持って行って、置いてもらえるように頼みました」(北清水雄太)

 2000年4月にサスケは結成されたが、2人の出会いは高校1年生のとき。

「クラスが一緒だったんですが、学園祭をきっかけに仲よくなりました。それからよくよく話してみると、幼稚園も一緒だったことがわかったんです。家に帰って昔の写真を見てみたら、確かに一緒に写っていて、急激に距離が縮まりました」(奥山)

 しかし、そこでユニット結成、プロを目指すという流れにはならなかった。

高校卒業後、相方は東京に進学したんですが、僕は沖縄のホテルに就職したんです。だから2年間は離れて暮らしていたんですよ。当時は携帯電話がなかったので、文通していましたね」(奥山)

もともと芸人になりたかった

 なんとも時代を感じさせるコミュニケーションにキュンとする。そんな彼らが、再び顔を合わせたのが成人式だった。その場で“2人で何かやろう”という話になったものの、目指したのはミュージシャンではなく……。

2人ともお笑いが好きだったので、芸人になろうという話になったんです。でも、どうやってなったらいいかわからなくて……。そんなとき、世間でストリートライブが盛んだということを耳にして、2人ともギターをやっていたので、遊びの一環として大宮駅で歌ったのが、サスケができたきっかけです。カラオケに行くのもお金がかかるし、だったら自分でギター弾いて歌えばいいじゃん、というノリでしたね」(奥山)

 彼らの対応力の高さには驚いてしまうが、ここから大宮駅前で頻繁にストリートライブを行うことに。『青いベンチ』は数ある楽曲の中でも、ファンから根強い人気を誇っていて、2人とも手ごたえはつかんでいた。

「お客さんの反応がすごくよかったんです。圧倒的にみんなから人気でした」(奥山)

 予想どおり、CDの売れ行きは好調。反響が反響を呼んで、500枚だった販売枚数も気づけば1ケタ違う数を売り上げていた。

「通販もしていなかったので、大宮まで足を運んで買ってくださって。本当にありがたかったですね」(北清水)

 2004年4月に全国発売されるとさらに口コミが広がり、ジワジワと長期間にわたって売れていった。それでも、チャートの上位に入るまでには1年半かかったという。

「毎週200枚~300枚くらいコンスタントに売れていましたが、ランキングでは120位~130位くらいをウロウロしていましたね。まだSNSがない時代でしたが、インターネットの掲示板が少し流行りだしていたので検索してみると、《友達から教えてもらったけど、めっちゃいい曲!》とか《彼氏から聞いて好きになった》とか、たくさんの書き込みがありました。それを見て、すごい広がり方をしているなと」(北清水)

インディーズでの発売だったが、口コミで火が付き驚異的な売り上げを記録した『青いベンチ』

『青いベンチ』という、一見普通そうに思えて特徴的なタイトルだが、モチーフはあったのだろうか。

「青春期の誰もが感じる恋心を歌にしているので、その部分での“リアル”はあるんですけど、彼女を駅のベンチで待っていたりという10代の恋愛は、僕自身の実体験ではないです。

 でも、曲のタイトルでもある青いベンチというアイテムは、地元の駅に実際にあったり、実家の目の前の空き地にもポツンと1つだけあって、そこに高校生のカップルが座ってしゃべっていたり、そういう恋模様みたいなものを掘り起こして歌にしていきました」(北清水)

高校生の教科書にも載った

 最終的に30万枚以上のヒットとなり、オリコンでは最高8位を獲得。この曲が収録されたミニアルバム『Smile』も45万枚を売り上げた。快挙はこれだけにとどまらず、高校の音楽の教科書に掲載され、合唱コンクールでも定番の“国民的楽曲”となっていった。

「“すごいことが起きているね”という話はしていました。音楽ランキングを掲載していた『オリコンウィークリー』という雑誌は毎週買っていましたね。やっぱり、順位が上がっていくと気分も高揚しますし、家族もそういうのを見せると喜ぶんです。友達から“CD買ったよ!”とサインを頼まれるのもうれしかったです」(奥山)

 埼玉ドリームをつかんだ彼らだが……厳しい現実にほどなくして直面してしまう。

5年間活動しましたが、その後はなかなか思うようにヒットが出ず、契約を終了することに。クビではあるんですけど、自分たちの意思でもあったという感じです。契約終了より解散を決めたことのほうが先でしたね」(北清水)

 こうして2009年4月、2人は別々の道を歩き始める。

「解散を言われたとき、驚きはしましたけど、当時僕も含め、そういう雰囲気があったんだと思います。僕には1人で音楽をやる選択肢はなかったので、マネージャーという裏方の道に進みました。スケジュール管理やタレントさんの送迎などをしていましたね。大変なこともありましたが、それまでの経験でタレント側の気持ちもわかる部分があったので、とても充実した日々でした」(奥山)

 解散後も、アカペラの日本一を決める『全国ハモネプリーグ』(フジテレビ系)で歌唱されたり、2011年には、手越祐也と増田貴久で結成されたジャニーズのユニット・テゴマスがカバーするなど『青いベンチ』は注目を浴び続けた。

元NEWSの手越祐也、増田貴久のユニット『テゴマス』。『青いベンチ』もカバーした

「僕はソロでライブをしたり、ミニアルバムを出したりしていました。もともと、“歌うことは大好きだけど、人前に出るのが得意ではない”という相反した部分があるんですが、相方の奥山の存在があったからこそ一歩踏み出せたり、ステージに立てたりしていたんだなと実感しましたね」(北清水)

もう1度やってみるか

 相棒を思う気持ちは変わらぬまま、デビュー10周年にあたる2014年に山は動く。

記念に単発のライブをしようか、という話をしていたんです。あれよあれよという間に再結成になりました。解散期間中も『青いベンチ』がいろいろなランキングに入ったり曲が残り続けていて、それが僕らの財産としてすごいことだなという思いがあって」(北清水)

 ソロ活動を続けていた北清水に憂いは無かったようだが、一方の奥山は違った。

「5年間表舞台から離れていたので、やりたいけどできるかなという不安がありました。僕のなかではゼロに戻って、昔ストリートを始めたときと同じ気持ちで、“もう1度やってみるか!”という感じでしたね」(奥山)

 現在は、コロナ禍でイベントや集客をしてのライブが困難な状況。それでも2人は、前を向いて精力的に活動している。

「昨年から配信ライブで音楽を届けています。僕らにとって歌をステージで歌って直接届けることは活動の核でありすべてなので、早くたくさんの人に届けられる状態になってほしいですね」(北清水)

「配信ならではの楽しさもあったりするんですが、先日ひさびさにお客さんの前で歌う機会があったときに、ライブの楽しさに改めて気が付いて、熱量が違うなと思いました。なかなか元どおりの世の中にはならないと思いますが、配信と生のライブがバランスよくできるようになればいいなと思います」(奥山)

 お客さんのすぐ近くで、“この声が枯れるくらい”全力で歌うサスケを見たい。