今から約20年前、なんの罪もない女児が身勝手な理由から殺され、被害者であるはずの女児の母親が世間から糾弾されるという理不尽な事件が起きた。逮捕された“ママ友”が抱えていた心の闇とはなんだったのか──。女が起こした事件の核心に迫るシリーズ第1弾。(取材・文/水谷竹秀)

当時の事件報道

■「文京区2歳女児殺害事件」('99年11月)事件概要
 '99年11月22日、文京区の幼稚園に来ていた秋本桃香ちゃん(仮名・当時2歳)が行方不明となった。3日後、桃香ちゃんの母親と顔見知りの山川美恵子(仮名・当時35歳)が夫に伴われて警察に出頭し、殺人・死体遺棄の容疑で逮捕された。'02年11月に東京高裁で懲役15年の実刑が下され、刑期を終えた美恵子は出所している。

鮮明に残る20年以上前の記憶

 その女性は、20年以上前のあの日のことを、胸に棘(とげ)が刺さったような思いで、今も鮮明に覚えている。

 それは、同じ幼稚園に長男を通わせる山川美恵子(仮名、当時35歳)が、幼稚園の出口付近で自転車にまたがっているときだった。長男と長女を前と後ろに乗せ、黒いバッグを前のかごに置いた。

「すると自転車のハンドルが揺れてバランスを崩したんです。山川さんに『大丈夫?』と声をかけると、急いで立ち去っていきました。みんなが(桃香ちゃんを)探している最中に。今思えば、あのバッグの中に……」

 黒いバッグの中には、2歳8か月になる秋本桃香ちゃん(仮名)の絞殺体が入っていた。

 事件は1999年11月、文京区内の公衆便所で起きた。美恵子は、桃香ちゃんの首をマフラーで絞めて殺害し、遺体を黒い手提げバッグに入れた。いったん、自宅マンションへ戻った後、電車で静岡県内の実家まで持ち運び、遺体を敷地内に埋めた。

 美恵子は夫の説得で自首し、殺人・死体遺棄の容疑で逮捕された。自分の子どもと同じ年の子を殺めたその残虐性は、世間を震撼させた。

加害者に同情、被害者叩く

《平凡な主婦が迷い込んだ「過熱お受験地域」》

《容疑者に母たち同情の声続々》

《○○○○子(犯人の名前)を追い詰めたお受験グループ「生々しい会話」》

 これは当時の週刊誌から抜粋したタイトルの一部だ。それぞれの記事には、加害者に同情の声が寄せられ、被害者側がバッシングされていた様子がわかる。被害者側が加害者を使いパシリにし、いじめていたとする記述までみられ、まるで被害者側に事件の責任があるかのようだ。

 なぜ加害者が同情され、被害者の母親が叩かれたのか──。当時を取材した週刊誌記者が、記憶を頼りに明かす。

「加害者の夫は近くの寺の副住職だったんですが、ここの住職に美恵子の夫がいじめられていたと証言する近隣住民が結構な数いました。そのいじめが、なぜか被害者から加害者へのものだと間違って伝わってしまった」

 別の週刊誌記者も語る。

「幼稚園のママ友の間で犯人が浮いていたなどと積極的に語っていた自称保護者がいたのですが、その人は裁判にも出てこなかったし、今となっては本当に関係者なのか怪しいですね」

 一方で、裁判で明らかになったのは、被害者の母親、秋本さんに対して一方的に被害妄想と憎悪を募らせている美恵子の姿だった。

《(息子が)年中組の三学期になると、秋本さんに対して憎しみのような気持ちが湧いた。いつも特定の人が彼女の近くにいて、2人はべったりしていたから、私だけ差別・疎外されていると思った》

 これは秋本さんともう1人の母親との関係についての美恵子の供述だが、自分以外の人間の言動に対する曲解だ。そうして秋本さんへのネガティブな感情が募り、ついにはストーカー的行為に走る。

《秋本さんのマンションへ行き、1階の自転車置き場を確認するようになった。そこに自転車があれば安心し、なければ心配になり、あちこち探し回った》

 秋本さんを過度に意識しすぎたゆえの異常ともいえる行動である。これに対し、秋本さんは「私は彼女と特に親しくはありません」と証言している。

当時の事件報道

摂食障害に自殺未遂

 そんな美恵子とは一体、どんな人物なのか。

 美恵子は静岡県に生まれ、地元の高校を卒業した後、看護師を志して埼玉県の短期大学に進学。卒業後は静岡県内の病院で働いたが、1か月で退職し、2年後に別の病院へ転職する。

《(最初の病院を)退職したのは、過食症が続いて、精神的に不安定だったからである。その頃、風邪薬を大量に飲み、自殺を図り、失敗に終わっている》(供述書より)

 これ以外にも自殺未遂を2回ほどしている。

 転職先の病院で働いていたときに、長野県の寺院で開かれた講習会に参加し、文京区の寺院で副住職をしていた夫と出会う。交際を続け、7年勤めた病院を退職して1993年春に結婚。文京区のマンションへ移り住んだ。ここでも美恵子は人間関係に悩む。

「そもそも2人はママ友なんかじゃなかった」

 それはマスコミが曲解する原因ともなった、夫への寺院の住職からのいじめだ。毎朝寺院の門を開ける夫の姿を見ていたと、近隣住民の70代女性は今も記憶に留めている。

「継ぎ手がいないからと寺に迎え入れられたんです。雪の日には掃除をしてくれ、まじめな方でした。妻(加害者)も掃除のお手伝いに行っていました。でも夫は住職に気に入られず、いじめられていましたね。『叩かれたこともある』と聞きました。かわいそうでした」

 そんな中で出会ったのが、秋本さんだった。互いの長男を自宅近くの公園で遊ばせていたのがきっかけだ。2日しか誕生日が違わないことがわかって言葉を交わすようになり、それぞれ第2子を妊娠、出産。長男は同じ幼稚園に入園した。

 そして事件が起きた。

 直前、美恵子の長女と秋本さんの長女・桃香ちゃんは、国立大付属幼稚園の受験準備を進めていたが、美恵子の長女が抽選で落ち、桃香ちゃんが当たった。この明暗が、お受験と事件の因果関係を指摘する報道につながった。

 だが、実際はどうだったのだろうか。

 冒頭に登場した女性は現在、その幼稚園の園長を務め、美恵子、秋本さんとは当時、同じクラスに息子を通わせた保護者同士だ。事件発生以来、沈黙を貫いてきたが、今回、初めてメディアの取材に口を開いた。

「お受験に夢中になった親同士がぎくしゃくして、恨みつらみが事件に発展したという報道が多かったですが、お受験と事件は関係ありません。昔も今も、国立幼稚園のお受験では、抽選という努力ではどうにもならない運次第。そもそも2人はママ友なんかじゃありませんでした」

現場となった幼稚園

 美恵子と秋本さんの関係については、幼稚園での互いの長男の様子を思い出しながら、こう説明した。

「加害者の長男は静かな子で、絵を描いたりとそれほど外で活発に動く子ではありませんでした。逆に秋本さんの長男は活発で、外で走り回る元気な子でした。子どもたちの遊び場が異なっていましたから、親同士に接点があったようには見えませんでした」

 幼稚園に入園する前はたまに付き合っていたが、入園後はそれほどでもなかったようだ。秋本さんが、美恵子をいじめていたという報道については、ばっさり否定した。

「加害者を弱者に仕立て上げ、被害者の母を悪者にした。秋本さんは娘を失った悲しみだけでなく、取材に怯え、外へ出られませんでした。大切な娘の思いを静かに馳せる時間を奪い去った報道機関の罪は大きいと思います」

懺悔の気持ちで園長に

 園長は今も、どうしてあんな凄惨な事件が起きたのか、首を傾げ続けている。

「裁判も傍聴しましたがいまだにその理由がわからない。

 寺院や家庭でのご苦労や悩みもあったのでしょうが、いかなる理由があろうとも、人を殺めた人間に同情の余地はありません」

 園長は当時、大学で教鞭を執っていたが、事件発生を機に幼稚園の仕事に携わり、発生から1年後には副園長に、さらにその2年後には園長になり、現在に至っている。

「自分が保護者の代で起きたことへの、懺悔(ざんげ)の気持ちからでした。事件の翌春、募集をかけなかったにもかかわらず入園してくれた子たちを守らなければという責任感も芽生え、幼稚園が元気になるまで見届けようとここまで来ました」

 美恵子は'01年、一審東京地裁で懲役14年を言い渡され、二審東京高裁で懲役15年が確定した。遺族が起こした民事訴訟では、東京地裁が約6000万円の支払いを美恵子に命じた。

 法廷では終始、自己弁護を繰り返した美恵子。最終陳述ではこう語っていた。

「私ができることは、生きることを許された場所で、心から反省をしながら、償う意味を考えることだと思います」

 美恵子は刑期を満了し、すでに出所している。関係者によると、遺族への謝罪が行われていないどころか、賠償金も支払われていない。彼女にとって「償う」とは何を意味していたのだろうか。

水谷竹秀(みずたに・たけひで)◎ノンフィクションライター。1975年三重県生まれ。上智大学外国語学部卒業。カメラマンや新聞記者を経てフリーに。2011年『日本を捨てた男たち フィリピンに生きる「困窮邦人」』で第9回開高健ノンフィクション賞受賞。近著に『だから、居場所が欲しかった。バンコク、コールセンターで働く日本人』(集英社文庫)など。