左から内村航平、錦織圭、池江璃花子、八村塁

 7月23日に開幕を控える東京五輪。日本オリンピック委員会はアスリートへの新型コロナウイルスワクチンの接種に向けてスケジュール調整を進めている。6月1日より順次、ファイザー製ワクチンの接種が始まるようだ。

「ワクチンは国際オリンピック委員会(IOC)からおよそ2万人分が無償提供されるもので、まずは選手と監督やコーチ、大会関係者を含めた約1600人が接種します。日本政府が供給を進めるワクチンとは異なるものとしていますが、開催ありきのコロナ関連施策を進める菅義偉首相や小池百合子都知事に批判の声が上がるのは必至。

 全国各地で高齢者を対象とした一般接種がスタートしているとはいえ、優先されるアスリートたちにまたもいわれなき“矛先”が向かう恐れもあります」(全国紙スポーツ部記者)

 共同通信が5月に行った東京五輪・パラリンピック開催の可否を問う世論調査では、約6割が大会そのものを「中止すべき」と回答している。それでも「安心、安全な大会は可能」と繰り返す菅首相に代わり、“中止”を訴える声がアスリートに相次いだのだ。

「特に急性リンパ性白血病から劇的な復帰を果たして、競泳メドレーリレー代表内定を勝ち取った池江璃花子選手に“辞退”を促す意見は酷でした。SNS上でのこうした意見に対し、“私は何も変えることはできない”と、苦しい胸の内を明かした彼女を皮切りに、アスリートたちが次々と五輪に対する意思を表明し始めたのです。

 なかでも、トッププロテニスプレーヤーの錦織圭選手は開催されれば“出ない選択肢はない”としつつも、“死者が出てまでも開催すべきことではない”と中止もやむなしの心情を明かしたのです」(前出・全国紙スポーツ部記者)

錦織発言”に呆れたアマ選手

 すると、錦織選手の持論に噛み付いたのが、2008年の北京五輪・柔道で金メダルを獲得したのちに総合格闘技に転向した石井慧だ。自身のツイッターで錦織発言の記事を引用して、

競技により五輪の立ち位置は違う。テニスやゴルフなどはプロも確立されているし五輪と並ぶ名誉も何かあるだろう。五輪の為に命を削り名誉と金のために命をかけてる選手は世界に沢山いる。だからこんな綺麗事を言うな》

 と明言。こうしたツイートを受けてプロゴルファーの松山英樹は5月18日、『マスターズ・トーナメント』参加のために赴いたアメリカから、《やるべきではないのかな》と日本の医療関係者を気遣いつつ、

自分自身は五輪も大事だが、それ以上にメジャーというのが大事というのもある。その中で、五輪に懸けている他のスポーツ選手のことを考えると、やってほしいという複雑な気持ち》

 と、他競技のアスリートの立場にたって発言。彼が言う“五輪に懸けている選手”とは、かつて石井選手がそうだった“アマチュア”選手のことを指すのだろう。

「たしかにオリンピックに対する意識は、プロとアマでは違うでしょう。それでも、錦織選手の発言を聞いて、石井選手のように違和感を覚えたアスリートは多いのではないでしょうか」とは、マイナースポーツも取材するスポーツ専門雑誌の編集者。

 錦織選手が《死人が出てまでも》と述べた5月10日、彼はローマで開催された『BNLイタリア国際』というテニスの国際大会に出場していたのだが、同日のイタリアでの新規感染者は5077人で死者は198人を記録。日本では前者が4938人で後者は75人(イタリア、日本ともにロイター通信調べ)と、彼が滞在したイタリアの方が“リスク”が高かったとも言える。

「錦織選手自身が滞在したイタリアでも、日本以上に死者が出ていたわけです。じゃあ、テニスも“死人が出てまで開催すべきではない”となる。彼はオリンピックの延期が決まった昨年も、早々と“よかったです”“ほっとしました”とツイッターを更新していました。

 彼にとっては五輪よりもグランドスラムの方が大事なのでしょう。考え方は選手それぞれなので、そこに文句はない。ただ、五輪を目指して4年間闘ってきた選手からすれば“あなたが言うことではない”と思ってしまうのもわかる。錦織選手の言葉は、五輪アスリートを代表するものではないのかと」(前出・スポーツ専門雑誌編集者)

 かつてはアマチュアの大会だった五輪に“プロフェッショナル”が参加したのは、ファン・アントニオ・サマランチ(元IOC会長)体制だった1992年のバルセロナ五輪でのこと。バスケットボールにおいて、マイケル・ジョーダンやマジック・ジョンソンらNBAのプロ選手たちが結成した“ドリームチーム”は強烈なインパクトを残した。

プロとアマの歴然たる収入格差

 以降、プロの出場が拡大された五輪。そもそも、プロフェッショナルと“アマチュア”の違いとは何なのだろうか。1980年代から夏・冬季五輪や多くのアスリートを取材してきたスポーツライターの増島みどり氏が解説する。

日本では多くの選手が、社員として給料と活動費の支援を受け、引退しても会社に残れる、実業団という日本独自の形で競技を続けてきました。今は、企業と契約を結ぶプロアスリートが増えており、彼らは確定申告の際、職業欄に、例えば、プロ陸上選手、などと記入します。海外から見ると、実業団選手もある意味でプロにうつるかもしれません」

2012年、ロンドン五輪後のパレードに参加したやり投げの村上幸史と、レスリングの吉田沙保里

 プロとアマで違うのは収入面で見るとわかりやすい。例えば国内のプロスポーツで最も高給取りとされるプロ野球選手の平均年俸は4206万円で、Jリーガーは3218万円となっている。そして錦織圭選手はというと、アメリカメディアのスポーツ選手長者番付(2021年版)によると約29億円(年収)だ。

「一方で実業団に所属するアマ選手は競技にもよりますが約400万円と、一般サラリーマンと同額程度の収入であることも多く、レスリング金メダリストの吉田沙保里や伊調馨らトップアスリートであれば特別契約が交わされていたそう。それでも当時の総収入は1000万円から2000万円ほどではないでしょうか。

 五輪出場にも意欲を見せる楽天(ゴールデンイーグルス)の田中将大選手は、今年の年俸は推定9億円。ゴルフの松山選手も昨年は10億円以上稼いでいるでしょうし、4月に制した『マスターズ』の優勝賞金は2億円以上ですから、今年はさらに増えるでしょう。アマ選手も、五輪の結果次第では所属先からボーナスや報奨金が支払われるとはいえ、同じアスリートでも“格差”はあると思います」(スポーツマネジメント会社営業担当)

 アスリートとしての立場もかなりシビアだ。5月14日に《僕たち選手には変える力がない》と五輪開催について口を開いた体操の内村航平選手。続けて《目の前のできることを、僕は体操選手なので体操をやること、練習すること、試合があればその試合に出ること、これを仕事としてやっている》と、スポーツを“仕事”と言い表した彼も、現在は微妙な立場に置かれている。

メイン会場となる国立競技場。東京五輪は本当に開催されるのか

 3度の五輪出場で個人総合2連覇を含めた計7つのメダルを獲得し、世界選手権でも6連覇を果たした内村選手。そんな世界的“レジェンド”は4度目の五輪出場を目指す今年、コロナ禍による赤字から所属先だった『リンガーハット』との契約が打ち切られることに。現在は自動車販売業者の『ジョイカルジャパン』とプロ契約をして、種目別の鉄棒に絞って出場を目指している。

あの内村選手でさえ契約先がままならない現実。もしかしたら彼らのスポーツは“趣味や遊び、また余暇でやっている”と思われている方もいるかもしれません。

 ですが、ものすごくシビアな世界でしている仕事で、一つの“契約”で人生の全てが変わる選手もいます。それこそ、“五輪に出場する”“メダルを獲得する”を条件に契約を交わしている選手もいるではないでしょうか」(前出・スポーツマネジメント会社営業担当)

アスリートが五輪にこだわるわけ

 一方で、お金の問題もさることながら、アスリートにとってやはり五輪は特別な大会であり「名誉」でもある。

 各競技にはそれぞれの世界一を競う「世界大会」があるのだが、例えば世界柔道(選手権大会)は毎年、世界体操(競技選手権)は2年に1回開催される。以前は4年に1回だった世界陸上(競技選手権大会)も、1991年の東京大会以降は2年に1回開かれている。一方で4年に1回開催される五輪は、注目度から言えば世界大会とは大きな差がある。

「五輪で3連覇を達成した柔道の野村忠宏さんは、“いくら世界選手権で勝っても、日本の皆さんにそれはわかってもらえない。オリンピックでの3連覇にこだわり続けたのは、幼稚園や保育園に通う幼児や主婦の方など、日頃は全くスポーツに関わらない人たちに応援してもらって、メダルを喜んでもらえたというのが自分の中でもすごい喜びだった”と常々話していました。

 普段ならテレビ放送で見向きもされない競技が、つい見入って応援してしまうのも五輪が持つ特別な魅力。やはり、その場に立つことは名誉なことで、彼らアスリートにとっては目標でもあるんですよ」(前出・スポーツ局ディレクター)

 NBAの『ワシントン・ウィザーズ』に所属し、日本人初のプレーオフ進出を果たした八村塁選手。世界で活躍するトッププロの1人に数えられる彼が、昨年12月のシーズン開幕前に、かねてより「夢の舞台」と位置付けていた五輪をあらためて《前からずっと出たいと思っていた大きな大会》と語った。シーズン終了とともに、男子バスケットボール日本代表に合流する見込みだ。

 とはいえ、選手を含めて多くの国民が気にするところは、本当にこのまま東京五輪が開催されるのか、というところだ。前出の増島氏は「選手たちの5年を思えば、最大限サイズダウンし、通常とは違う様式になっても、オリンピックを中止にしてほしくはありません」と話す。

出場について前向きな姿勢を示せば、SNSなどに辛らつな批判が寄せられ、選手たちは委縮していました。ワクチンを打つか打たないかも、もちろんコンディションを優先するため接種の選択は自由ですが、五輪特権だと批判されるかもしれない。

 彼らは私たち日本の代表ですから私はどんどん打って欲しい。また選手だけではなく、五輪に関わる1人でも多くの関係者がホストとして打てるような環境整備が重要です。自国で2度の接種を終え、練習も自由、マスクなしの生活を送る国外の選手たちは、検査だけで陽性者を入れない前提の『バブル方式』に、むしろ強い不安を抱くでしょう」(増島氏)

牽制し合う?菅義偉首相と小池百合子都知事

 コロナが世界で蔓延する今、多くのスポーツ大会で採用されているのが、開催地をバブル(泡)で包むように選手や関係者を隔離して、ダイブとの接触を遮断する『バブル方式』。しかし、全てにおいて後手後手に見える菅首相や小池都知事らトップに「安心、安全な大会」が遂行できるとは思えないのも事実だ。

ボランティア8万人分のワクチン

 JOCの籾井(もみい)圭子常務理事は5月26日、選手を含む五輪関係者へのワクチン接種を始めるにあたり、「高齢者への優先接種に影響を及ぼさない」とあらためて一般人への接種と無関係であることを強調。7月23日の開幕までに対象者に2回の接種が行われ、競技団体のスケジュールは公表しない方針だ。

 6月1日から接種が始まる、IOCが東京五輪のために用意したというワクチンは2万人分。優先される選手団や大会関係者に加えて、例えば選手との距離が近い料理人やベッドメイクなどの選手村や宿泊施設に携わるスタッフは接種できるのかもしれない。しかし、大会組織委員会が募集した8万人とされる一般ボランティア全員には行き渡らないだろう。彼らの「安心、安全」は本当に守られるのだろうか。

昨年の延期から1年経つのに、ワクチン接種はおろか医療体制の改善など、政府は何をやっていたんだ、という話ですよ。それにコロナで仕事を失いかねないのはアスリートだけでなく、すでに全国で1500件(東京商工リサーチ調べ、5月21日時点)の企業が経営破綻しています。全ての国民が我慢を強いられている現状では、日に日に中止を求める声が高まるのも当然なのかもしれません。

 ただ、アスリートを批判するのはお門違い。池江選手が“オリンピックがあってもなくても、決まったことは受け入れ、やるならもちろん全力で、ないなら次に向けて、頑張るだけ”としたように、アスリートは来る日のために粛々と仕事をしているだけ。そこはプロもアマも関係ありません」(前出・全国紙スポーツ部記者)

「安心、安全な大会」とは、“バブル”の中だけの話なのかもしれない。