最後の主演作で『教誨師』を演じた故・大杉漣さん

 2019年9月、茨城県境町の住宅で、この家に住む夫婦が殺害され、2人の子どもが重軽傷を負った事件。茨城県警は5月29日、子どもたち2人への殺人未遂と傷害で、無職、岡庭由征容疑者(26)〈殺人容疑で逮捕、処分保留〉を再逮捕したと発表。

 岡庭容疑者は過去に2人の少女を刃物で切りつけたとして殺人未遂罪などで逮捕、起訴されていた。だが、精神鑑定で刑事罰ではなく医療少年院へ送致の保護処分が決まった。出所後、再び凶行に走ったとみられている。

 それに対し、世間は憤り、SNSを中心に罰則の厳罰化、少年法の改正が叫ばれた。

 だが、岡庭のように再び罪を犯し、塀の中に戻ってくる受刑者は少なくない。

『教誨師』は受刑者を
更生に導く「伴走者」

 現在、刑務所や拘置所などに収監される被収容者の数は4万6148人(矯正統計調査'21年3月現在)。

「刑務所など刑事施設では被収容者への矯正教育やカウンセリングなど更生プログラムも用意されています。ですが、最後に向き合うのは自分の罪をどう償えばいいのか。これは宗教家でなければできないことではないかと思います」

 そう説明するのは龍谷大学の石塚伸一教授(刑事法学)。

 受刑者らに対し、宗教的な観点から矯正や更生を行い、死刑囚の最期も看取るのが『教誨師(きょうかいし)』だ。

 教誨師はキリスト教会の牧師や寺の住職、神社の神主らがボランティアで担い、全国の刑務所などで1800人以上が活動している。宗教家による教誨を『宗教教誨』といい、いくつか種類がある。

「刑務所の体育館などで収容者全体に向けて教えを説く『集合教誨』、命日など法要や各宗教行事を行う『忌日教誨』。そして罪を犯した人と一対一で面談する『個人教誨』です」(石塚教授、以下同)

 '18年10月には『個人教誨』を舞台にした映画『教誨師』が公開された。故・大杉漣さんの最後の主演作品で、エグゼクティブ・プロデューサーも務めていた。

 大杉さんが演じたのはキリスト教の牧師、佐伯保。教誨師として、6人の死刑囚と対話を重ねながら自らの人生とも向き合うという内容だ。

 受刑者たちの言葉に耳を傾け、教えを説く。ときに苦悩し、葛藤を重ねながらも更生へと導く姿が描かれている。

 前出の石塚教授は「伴走者」と表現した。

「加害者は被害者や自分の家族にいくら謝罪の言葉を述べてもどうにもならないことを知っている。過去は変えられないし、亡くなった人は帰ってこない。本当に反省し、きちんと自分の罪と向き合ったときにひとりではどうしたらいいのかわからなくなる。その手助けをしてくれるんです」

罪と重荷と救いを。
更生への第一歩

 犯罪加害者が唯一心を許せる存在となる教誨師。

 日本基督教団教誨師会会長の加藤幹夫牧師が説明する。

「宗教教誨を訪れる人の多くは何らかの救いを求めています。自分を見つめなおしたい人、更生して新しい人生を生きたいと願う人もいます」

 だが、強制ではないため、受刑者や死刑囚が自らの意思で足を運んでくるのを待つ。

「刑務所に入ってから宗教を知る人はたくさんいます。刑務所や拘置所は時間があるので、宗教的なものに触れる機会も多い。キリスト教なら聖書を読んだり、仏教なら写経をしたり。宗教の話を聞いてみたい、と訪れる人もいるのです」(加藤牧師)

 なぜかキリスト教を希望する人は多い。特に一対一で話をする『個人教誨』は人気で1人あたり、5〜10分ほどしか時間が取れない刑務所もあるそうだ。

 では、実際、現場で働く彼らは何を思うのか──。

 僧侶のA住職。40年以上、拘置所などで受刑者や死刑囚と向き合ってきた。中には凶悪事件の加害者もいた。

「被害者に対して懺悔し、悔い改めている人もいますが改心は非常に難しい問題です」

 そんなA住職が長年心がけてきた教誨スタイルは被収容者の言葉に真摯に耳を傾ける、傾聴の姿勢。

「自分たちの教理を教えたり、何か諭すのではないんです。彼らはわかってほしい、聞いてほしい、という思いがあります。聞くことがいちばん大切です。私はどんな罪で収監されているのかは、事前にはほとんど聞きませんし、裁判の記録も一切見ません」

 先入観を持たず接し、仏教の教えを住職自身の実体験を交えて語ることで相手との親近感が増し、徐々に心を開いてくれるという。

「過ちには自らで気づき、悔い改めることが重要。回数を重ねると彼らの様子も変わってきます」住職によると、人間は必ず変わるという。

「変わることを信じていかなければならない。その変わる何かのきっかけになる、それに出会う場が教誨です」

 刑務所で宗教に出会い、立ち直っていくこともある。

 誰しもが罪を犯す可能性はある。お金があって、教育をしっかり受けていてもはずれていく人間もいる。

これも縁です。親鸞(しんらん)聖人は“人はだれでも、しかるべき縁がはたらけば、どのような行いもするものである”とおっしゃっています。私だってそういう縁がくれば人を殺したくないと日ごろは思っていても、殺してしまうものです。ここはとても大切な視点で“人間として生きていく悲しみを共有する”ことが教誨の原点。そこから仏さまの光が差しこみ真の人間性回復が起こると信じます。仏教的な考えではこの世に生を享けてからが私の命が始まりではないのです。この命は、これまでもずっと続いてきて死んで終わりではない。未来にわたって果てしなく続くものなのです」

 そのサイクルの中で犯罪に手を染めてしまうことがあるとの考えだ。悪人も善人もいない。縁の中で繰り返されている。と語るA住職はこれまで多くの声を受け止めてきた。

死ねなかった受刑者
償いは十字架を背負い

 前出の加藤牧師の教誨の場にも罪の大きさや将来のことなどを悩む受刑者が訪れる。

「ですが悔い改め、神を信じたからといって、被害者家族から許されることはないでしょう。殺人を犯した人で自分の罪に耐えられず何度も死のうと思ったけど死にきれない、と明かした人がいました」

 そんな彼に対し、加藤牧師が伝えたことは、

「過去は変えられない。罪を犯した人は自分がやってきたことに立ち返って、自分を変えないといけない、と。自殺したらそれは罪から逃げることになり、償いにはならない。ずっと十字架を背負って生きなければならないんです。生きる、ということは神がその人が罪を背負って生きる歩みを支え、赦(ゆる)し、救いに導いてくださっているのです」

 犯罪者なのに救われるのは納得がいかない、という声もあるというが……。

「宗教で救われたら楽になるわけじゃない。信仰が深まれば深まるほど罪を自覚していくので、受刑者は教誨師と向き合っても救われるわけではない。自分の罪と向き合い、悩み、考え続けることが贖罪なんです」(石塚教授)

 自分が万能でないと知り、弱い存在であることを認め、罪と向き合い悩む中で、神や仏と出会う手助けをする存在なのだ。前出の加藤牧師は、

「再犯を防ぐためには『絶対的な存在』は不可欠です。もし、罪を犯しそうになったとき、神は止めてくれる存在でもあることを伝えています。苦しいときや誘惑に晒されそうになるとき“助けてくださいと祈りなさい”と。絶対者と向き合うことで自分を見つめなおすことができます」

 だが、受刑者の中には罪と向き合うどころか“これだけの期間入れば出られる”と日数を過ごしたり、反省すらしていない人もいるという。

 最近は窃盗と薬物で服役する女性の受刑者も目立つ。性犯罪を繰り返す男性も多く、依存的になる犯罪が増えている傾向もみられる。

「依存的な場合、悔い改めても出所後にまた繰り返してしまうこともある」(加藤牧師)

 当然、改心して社会復帰した人もいる。だが、教誨をしていて「更生は難しそう」と察する人も……。

ある死刑囚の邂逅
受刑者の孤独と孤立

 前述の石塚教授は数年前に死刑が執行されたある男性死刑囚との邂逅(かいこう)を明かした。

 かつて面会していた死刑囚がいた。19歳のときの強盗殺人で無期懲役。18年近く服役して仮釈放。数年後に今度は殺人で死刑の判決を受けて死刑囚になった。

 その死刑囚が教誨師と出会ったのは最期のときだった。

「最期に浄土真宗の僧侶との会話を希望したそうです。自らの話をし、僧侶から仏の話を聞き、沈黙になった」

 誰も何も言わない。すると死刑囚は“さあ行きましょう”と言った。刑務官が彼を連行し、刑が執行された。

 安らかな顔をしていたが、首には執行を示唆する、真っ赤なアザ。亡骸は葬儀後、拘置所の外に運ばれていった。

「彼は罪に苛まれ、死を望んでいました。つらかったと思うんです。もし、もっと若いころ、少年院に入ったとき教誨師と出会い、宗教的な種をまかれていたら違っていたかもしれない、と思ったんです」

 石塚教授はじめ、加藤牧師、A住職が共通して訴えることは受刑者たちの『孤独』と『孤立』だ。A住職は、

「罪を犯した途端、すごい孤独に襲われるそうです」

 誰しも『孤独』は心に持っているが、罪を犯せば、家族や友人たちからも見捨てられ、仕事も居場所も失い、孤立に変わる。さらに刑務所独自のルールも拍車をかける。

「自由に話せない、動けない、言われたことをやっていればいい。そういう習慣を身につけた人は出所すると誰かとコミュニケーションをとるのが下手になるんですよね。自分で考え、人と合わせなきゃいけないのが苦痛だそうです」(石塚教授、以下同)

再犯防止に重要なのは
社会的な孤立を防ぐこと

 さらに“前科者”と言われることでさらに孤立が深まる。

「社会的な孤立をどう防ぐかも犯罪を繰り返させないための非常に重要なポイントです」

 だが、猟奇的な事件が起きるたび、厳罰化が訴えられる。

「考えられないような犯罪が起こることは社会にも問題があるかもしれないんです。特に凶悪犯罪では犯人にこれまでの人生でなんらかの人間関係の壊れがあったことは確かです。

 そして追い込まれていったときに身近に苦しみをわかってくれる人がいなかったり、孤立化したことが犯罪に手を染める一因となってしまいます。刑務所から出て、再び孤立化してしまえば負のスパイラルに陥ってしまいます」(加藤牧師)

 だが、いくら神や仏に仕えているとはいえ、同じ人間。映画『教誨師』の作中の佐伯牧師同様、葛藤も抱えている。

「罪を犯した人を支えることは裏切られることも多い。人間の罪深さはなかなか変えられない。ですが、それもわかったうえじゃないと受刑者とは関われない」(加藤牧師)

「彼らが特別ではない、私たちも同じです」(A住職)

 並大抵の精神力では務まらない。だが加害者たちはその真摯な姿を目の当たりにして己の過ちに気づかされていく。

 そして、ひとりでは生きられないことも。石塚教授は、

「私たちだって誰かの伴走者なんです。同僚、友人、家族、背負いきれない荷物を一緒に担いで走ってくれる人が周囲にいます。そして誰かの重荷を一緒に担ぐこともできます。そうやって支え合っているんです。実は誰もが誰かの『教誨師』なんです」

お話を聞いたのは
A住職◎40年以上にわたり、教誨活動を行う寺院の住職。匿名を条件に取材に応じてくれた
加藤幹夫牧師◎日本基督教団教誨師会会長。牧会の傍ら、刑務所において懲役受刑者らへの教誨活動を行う
石塚伸一教授◎龍谷大学法学部教授、犯罪学研究センター長。専門は刑事法学。刑事政策や犯罪学を研究