紺野ぶるま 撮影/伊藤和幸

「もうお母さんと一緒に死のう」高校中退を宣告された後、母親にそう言われた。「普通がいちばん」が口癖だった母親を裏切り、“底辺”に転落した日──。ひきこもり生活の末、ようやく人生の軌道修正を志した矢先、今度は多額のお金を騙し取られ、卵巣嚢腫で手術入院……。沈んだ気持ちを救ってくれたのがテレビで活躍する芸人の姿だった。「母親の理想」ではなく、「自分の理想」にこだわった少女の人生挽回劇。

「芸人とかけまして ちんこと解きます。その心は、どちらも噛むと怒られるでしょう」

「上司とかけまして ちんこと解きます。その心は、どちらもうまくたててあげたいでしょう」

 東京・渋谷の若者が集まるライブハウス。セーラー服を着た女性が、客席からお題をもらうと「芽吹きました」と言って、即興で謎かけを行う。その頭の回転の速さ、下ネタなのに妙に爽やかな語り口に、観客席からはどよめきと拍手が起きる。コロナ禍で声を出せないが、その分、抑えきれない笑いが場内に広がっていた。

病弱だが勉強もスポーツもできる子だった

 彼女は「ちんこ謎かけ」で有名になった女性芸人・紺野ぶるまさん(34)。気負うでもなく媚びるでもなく、淡々と謎かけ芸を披露する。すべてを「ちんこ」で解くという謎かけをする、唯一無二の芸人だ。

 この日は彼女の2冊目の著書『中退女子の生き方』(廣済堂出版)の出版記念トークショーだった。彼女はステージ上で、「ブスとかバカとか言われるのは気にならないけど、頭が悪いと言われるとへこむんですよね、今でも」と笑いにまぶしながらつぶやいた。それは彼女の本音なのかもしれない。 

『中退女子の生き方』の出版イベントで先輩芸人「セバスチャン」の原田さん(右)と

 高校中退時、「腐ったみかん」と校長に言われた彼女は、今、芸人としてまっしぐらに自分の道を切り開いているところだ。

「もうお母さんと一緒に死のう」

 高校を中退することになった日の夜、紺野は母にそう言われたという。共働きの両親、4歳年上の兄がいるごく普通の家庭で育った。小学生のときはバレエ、水泳、英会話、ピアノ、書道、学習塾とたくさんの習い事をしていた。

「うちはやりたいと言えば何でもやらせてくれたんです。お金持ちの家で、私はお嬢様で、しかもこの世でいちばんかわいい。そう思ってました。だけど今思えば、うち、団地だったし、実は普通に貧乏だった(笑)」

4歳、自宅にて。「小さいころはお嬢様だと思っていたけど、写真を見るとボロい団地ですよね(笑)」と紺野

 彼女は先天的な病気が2つあった。ひとつは卵巣に腫瘍ができる病気で、今までに2回手術をして卵巣を削っている。もうひとつは心臓に穴があいている心房中隔欠損症という生まれながらの病気で、5歳のときに大手術をしたという。

 紺野の兄(38)は、そのころの妹について、こう話す。

「心臓の手術をしたのが夏休みだったので、母に連れられて毎日のように見舞いに行きました。当時、妹と同じ病気でヒロインが死んでしまうドラマがあったんですよ。だから、妹もいつか死んじゃうのかなと漠然と不安を覚えましたね」

 手術を経て少しずつ丈夫になっていき、小学生時代は勉強もスポーツもできる子に成長した。

レレレのおじさんの洋服でポーズ

「病弱だったから、親は妹には甘かったですね。うちはたいして金持ちじゃないのに習い事ばかりして、空気読めないヤツだなと思っていました。僕と妹はいつも正反対の人生を歩んでいた。僕は当時、太っていて勉強もスポーツもできない。妹はどっちもできる。4歳差だから小学生のときは在籍期間がかぶっていた。あるとき妹がマラソン大会で1位になったんですが、僕は全然ダメで。『名字は同じだけど、あれは兄じゃない』と妹が言っていると噂で聞きました(笑)。冷たいヤツです」

 紺野の兄は小さいころからお笑いが大好きというだけあって、語り口が軽妙だ。紺野はこの兄の影響を受けてお笑いに目覚めた。

 中学時代、彼女はバドミントン部で活躍した。校内でいちばん厳しいといわれていた部活のひとつだったが、根性で3年間、やり抜いた。都大会に出場し、ベスト8になったこともある。

「部活が終わって帰ると、気絶して寝るような日々でしたね。そのころはもう勉強は苦手になっていて、塾にも通いましたが、ちっとも成績が上がらない。だけど英語で挽回して、なんとか推薦をもぎとり、私立の女子校に入学したんです」

 そこから彼女の人生が一変する。

校長におでんの汁で黒魔術

「私、そのころ“ギャル”に憧れていたんです。ギャル全盛期で、雑誌を見ては私もこうなると決めていた。ガングロ、金髪、濃いメイク、友達と渋谷に行ってファッションを語ったりしたい、と」

 ところが入学した高校は、思いのほか地味だった。こんなはずじゃないというショックが彼女を襲う。

「今思えば笑い話なんですが、当時は本当にすべてが嫌だった。もちろん私は目標どおりギャル道を突っ走っていたんですが、学校の雰囲気はそれとはかけ離れていて。夏休みになる前に遅刻、居眠りは当たり前。いつも5分、遅れるんですよねえ。年間100回くらい(笑)。制服はぎりぎりまでスカートを短くしていました。真っ黒に焼いてガングロにして、かつらかぶって学校行ったり、テストは解答を書かずに提出したり……。この学校にいることを否定したい、目立ちたい、自分のポテンシャルはもっと高いと見せつけたい。いろんな感情があったような気がしますね」

 同じような思いを抱えていた地元の友人たちと毎日のように渋谷に繰り出した。

「マルキュー(渋谷109)が閉店するまでいて、深夜は地元のコンビニ前で仲間とたむろして……。ただ、何をしても満たされてはいなかった。逆に何をすればいいのかもわからなかった。健全だったら勉強やスポーツで頑張るべきなのに、ここで頑張っても意味がない、と無気力になっていました」

ギャルに憧れ始めた高校1年生のころ

 両親は怒っていたような気もするし、あきらめていたような気もすると彼女は言う。学校への反発と同時に、思春期ならではの親の生き方への反抗心もあったようだ。

「母は『普通がいちばん』という人なんですよ。学校の成績も“3”でいい、と。私は特別になりたかったので、退屈なこと言ってるなと思っていました。当時の私から見ると、両親は普通の人だけどしんどそうにしか見えなかった。父は当時測量の仕事をしていて作業着を着て日々働いている。母も駅まで自転車で爆走して仕事に行く。ふたりが楽しそうには見えなかったし、それは私のせいかなとも思っていました。父は明るいけど、母は常に怒っている。だから、母の『普通がいちばん』って意味がないと思ってた」

 学校からは、校則違反で2回ほどイエローカードを出され、「これ以上、何かやらかせば学校には置いておけない」と最後通告を受けていた。

 ところがある日、またも遅刻。どうせ遅刻するならと学校近くのコンビニでおでんを買い、食べながら登校した。

「その日、門のところに校長がいて……。『おまえまた遅刻か、このあんぽんたん』と言われたので、それは言いすぎだろう、と。校長先生の立っている周りをおでんの汁で囲って、『おまえ、そこから出るなよ、黒魔術で呪いかけたからな』と(笑)。翌日、親が学校に呼ばれました」

ギャルに憧れていた17歳のころ

 校長は「お子さんは腐ったみかんです。こういう生徒がいると周りにも悪影響を及ぼします」と告げた。退学を宣告されたのだ。母は号泣した。

「人前で泣かない母が、『絶対に更生させます、お願いします、お願いします』と頭を下げて。それがつらかった。私は隣で、お母さん、やめてよやめてよと思いながら、一方で、あー、やっちまったとも感じていた。子どものおふざけだから許してくれると予想していたんです。高校生の甘えですね。逆に、そうか、切ることができるのは向こう(学校側)なんだ、権力を見せつけられたなとも思ったり」

 高校2年の冬の日だった。校長室に入る前はガムを噛んでいた彼女が、部屋を出るときは泣いていた。

高校中退で堕落した生活

 翌日から、晴れて「好きなだけ寝ていられる」生活になった。両親は仕事、兄は大学へ行くため昼間は誰もいない。

「私の部屋はオレンジ色のカーテンだったので、光が入ると部屋のなかがきれいな色に染まるんです。それがまた切なかった。

 制服を捨てて、最初のうちはめちゃくちゃ濃いメイクをして渋谷を歩いたりしたけど、ちっとも楽しくない。何の制約もなく自由に生きている生活は1か月で飽きました。だんだん寝る時間と起きる時間がずれていって、夕方5時に起きて、ファミレスとかコンビニとか墓地とかで仲間と会って遊んで、朝5時に帰るみたいな生活をしていたこともありましたね。漠然と、『堕ちるところまで堕ちるんだろうな』とも思っていました」

 アルバイトをしても長続きせず、無為な日々を送るうち、「勉強したい」という思いにかられていった。

「親孝行しなきゃ、ここから抜け出さなきゃ、と焦っているのに、どうすればいいかわからない。

 家事を手伝ってみても、褒められないから逆ギレしたり……。

 教科書を開いてみたけど何が書いてあるかわからなくて、『寿限無』の暗記をしたり、寿司店の湯呑みに書いてある魚へんの漢字を覚えたりしていましたね(苦笑)」

 退学から半年後、通信制高校に編入した。“高校卒業”という肩書が社会では必要になることが多いと気づいたからだ。

高校中退後、ほぼひきこもり生活を送っていた時期を乗り越え、通信制高校に通い始めたころ

 晴れて高卒の資格を取得後、イベントコンパニオンのアルバイトをしながら、「モデルか女優になりたい」という夢を抱くようになる。高校時代から求めていた、自分を表現する世界を見つけたのだ。

 モデル事務所に片っ端から履歴書を送った。だが、呼ばれて行ってみると、「売り込むためにはお金が必要だ」と言われる。そうやって数か所で100万円近くを騙し取られた。

モデル事務所に送っていた履歴書の写真

 その当時、大学生だった兄は、「自分の生活に忙しくてあまり妹のことを顧みていなかった」と言いながらも、実は深く心配していたようだ。

「コイツは何をどう間違えてこうなってしまったのかと腹立たしかったり、どうなるんだろうと心配したり。フリーターと言うと怒るんですよ。『フリーティと呼んで』とわけわかんないことを言ってましたね(笑)。ただ、しょうもない自己啓発本だけはたくさん読んでいたみたい。当時、両親は『いつになったらちゃんと働くんだ』程度のことは言っていましたが、キツくは言えなかったみたいですね。昔から病弱というのがあるので、そのあたりは親も甘かった。彼女がモデルをしているところを見に行ったこともありますが、結局、ノーギャラだったみたいだし。そのころはイケてる妹とダメな兄が逆転していましたね。僕は大学を出て、地道に就活もして就職しましたから(笑)」

「ブルマをはいた芸人」に魅せられて

 紺野はモデル事務所に騙され、高額な授業料を払った後、再度、卵巣嚢腫となって入院、手術をした。

 退院後、沈んだ気持ちでテレビを眺めているときに見たのが、お笑い芸人のくまだまさしさんと鈴木Q太郎さんだった。ふたりは『ブルマパーティ』と名づけたネタを披露していた。1枚のブルマをふたりで片足ずつ、無理やりはくのだが、ふたりともピロピロ鳴る吹き戻しの笛を咥えている。息づかいが荒くなるほど、笛は鳴りっぱなしになり、リボンのような吹き戻しが出たり入ったりするのだ。紺野は「息をすることも忘れて笑い続けた」という。

「お金がなくて食べられなくても、ここにまじってブルマをはいて芸人として生きていくほうが幸せなんじゃないか、私にとって“生きる”とは、そういうことなのではないかと本気で思いました。それまで“芸人”という選択肢に気づかなかったんですが、これだ、こういう大人になりたいんだ、という直感がありました」

モデルや女優を夢見た当時。「騙されて初めて、あ、私は背が高いだけなんだって気づきましたね」

 早速、「お笑い 養成所」で検索をかけ、松竹芸能の養成所に入った。そのときはまだ、「勇気がなくて」芸人コースを選ぶことができず、タレントコースを選択した。

「最初に、人前に出るのはどういうことなのか、人の悪口を言ってはいけない、遅刻しちゃいけない、芸事のために身を粉にして頑張るというようなことを学びました。同年代の女の子もいたし、レッスンは楽しくてたまらなかった。毎週日曜日に演技やタップダンス、日舞などを習うんですが、芸人コースはその時間にネタ見せをしているんですね。それを見に行っているうちに、やっぱり芸人になりたい、と」

 遅刻せずにアルバイトに行けるようになったのは、養成所に入ってからだ。自分が人前で何かを表現できるチャンスがあることで、目の前が開けていった。紺野は21歳になっていた。

 小学生からの幼なじみである城間千尋さん(34)は、紺野の養成所時代に「ブルマニアン」というコンビを組んだことがある。

「彼女から誘われたんです。当時、私は短大を出たものの仕事をしていなくて、『就職先が決まるまでならいいよ』と受けてしまって(笑)。ふたりでブルマをはいてネタ見せしたこともあります。ブルマを脱いだら、またブルマはいてる、みたいな。でもすぐに私の就職が決まって1か月ももたずに解散することに。ごめんねと言ったら、いいよってあっさり。ただ、彼女がネタを考えている様子を見て、本気でお笑いをやりたいんだとよくわかりました。地元でつるんで遊んでいたときとはまったく違う真剣さがあった

成人式にて。芸人という夢を持ったことで更生していく

 養成所入所から1年半後、彼女は松竹芸能所属の芸人となった。だが、芸人になっただけで、なかなか「売れる」ことはかなわなかった。

 10年来の付き合いで、紺野の4年ほど先輩にあたるお笑いコンビ「セバスチャン」の原田公志さん(35)は、ブルマニアンを見ていた。

「ブルマの下にブルマというのがマジで受けていなかったので、大丈夫か、と思ったのが最初の印象ですね(笑)。ぶるまは女性タレントコースにいて、数か月してからお笑いに移ってきたので、僕は心の中で、なんだよ今さらみたいな気持ちがあった。だけど彼女がピン芸人になってから妙にシュールなネタをやっているのを見て、だんだん親しくなっていったんです。

 飲みに行くと、『仲間内で誰か売れてくれないかなあ』と愚痴ったり、芸とはなんぞやみたいなまじめな話をしたり。僕も高校を中退しているので、ふたりの間では『バカと言われるのはOKだけど、頭悪いねはへこむね』というのが共通認識なんです(笑)。“バカ”にはまだ愛があるから」

女芸人として葛藤する中、「謎かけ」でブレイク

 芸人は楽しかったが、売れないのはつらい。下積み時代は葛藤の連続だった。

「4年目くらいまでは、絶対いつか売れると根拠のない自信があったんです。だけど26歳くらいになると親も当たりがキツくなってきて。母は『引き返すなら今だよ。医療事務の資格をとって社会保険のあるところに勤めてお見合いしなさい』って……。それはありえないと拒絶したけど、だんだん自分には本当は何もないんじゃないかと思うようになっていって。初期設定では30歳までに売れて、結婚して子どもも産んでいるはずだったんですが」

 お笑いの世界は、今も「男芸人より女芸人のほうが下」という暗黙の了解がある。男性芸人に胸をもまれ、身体をよじって逃げようとしたら、「まだまだ女やな」と言われた女性芸人もいるそうだ。ネタを書いていると言えば「うちに来なよ」と下心丸出しで誘ってくる男性芸人もいる。

「女芸人は容姿をいじられて笑われる。それを“おいしい”と思わなければいけない雰囲気もある。女を捨てないとおもしろいと言われないのか、女であることを利用して笑いをとったほうがいいのか。男社会の中で常にそんなことを考えていました。本当は私だって裸で泥の中に飛び込んだりしたい。女だからできないこともたくさんある」

 そんな彼女を救ったのが、冒頭の「謎かけ」である。謎かけで有名な芸人・ねづっちさんと同じ舞台に出たときに、ごく普通の謎かけを披露。言葉選びの巧みさを評価され、コージー冨田さん主催の謎かけを“がっつり”2時間やるライブに誘われた。そこで「ハンガー」というお題が出たとき、彼女の頭の中にひらめいたのが「ちんこ」だった。口にしていいものかどうか迷ったが、ほかの言葉がいっさい出てこない。「ごめんなさい」と叫んで、目をつぶって言ってしまった。

「ちんこと解きます。その心はどちらも、かけます」

 その思い切った発言が彼女を有名にするラッキーツールになった。

 アナウンサーの吉田照美さん、伊集院光さんなどが絶賛したことで、彼女の名前は知られるようになった。だが、「下ネタ」をやる女芸人ということで誤解されることも多くなっていく。

「謎かけは昔ながらの言葉遊びでおもしろい。そこに下ネタをかけたら、誰も傷つけない笑いになる。女としてエロを売っているわけではないんですよ」

 その真意がなかなか伝わらなかった。ライブに「歯のないおじさん」がやってきて、コンビニで買って振り回し、ぐじゃぐじゃになったプリンを渡されたこともある。エロを売り物にしている女性への侮辱なのだろう。

「その後、深夜番組などに少し出してもらえるようになったけど、別に“売れっ子芸人”になれたわけではない。むしろ家族に迷惑かけているのかなと思ったし、やっぱり芸人を辞めたほうがいいんじゃないかと自分を追い詰めていました。でも、母が言うように医療事務の資格をとろうか、ハローワークに行こうかと考えたら、なんだかひどくしんどいんです。やりたくないことをしなきゃいけない環境から逃れてきたのに、またあそこに戻るのかと思うと、眠れなくなってしまって……。

 そうだ、コントのネタを書いてみようと思いついたんです。そうしたら急に身体がラクになってきて、書いているだけですごく幸せな気持ちになった。何度も辞めたいと言ってきたけど、何がなんでも私はお笑いにしがみついていないといけないんだと思いました」

 芸を磨くこと、それこそが自分の生きる道だと彼女は思ったという。

「よく下積み時代はお金がなくてつらいとかいうけど、収入ゼロでも全くつらくなかったですね。だって苦手な教科が一切出てこなくて、好きなことが極められる。オリジナリティーをどう出すか試行錯誤するのが楽しくて仕方なかった」と紺野 撮影/伊藤和幸

ぶつかり続けた母との和解

 2016年には単独ライブを開催、その後はR-1グランプリ、女芸人No.1決定戦 THE Wなどで、決勝に進出している。ライブや賞レースでは、口の悪い占い師や5回も離婚した女など、いかにもどこかにいそうな女性に扮してコントを披露している。

 とはいえ、決勝に進出しても、翌日からオファーがどんどん入ってくるわけではない。

 アルバイトで歯科助手の仕事をしていた時期もある。

 そんな何もうまくいかなくて「腐っていた」とき、女友達と居酒屋で飲んでいるとナンパされた。

「スーツを着たまじめそうな男性に『一緒に飲みませんか?』と声をかけられたんです。こっちは腐っているから、『けっこうです』とにべもなく断った。でも、『少しだけ』と言ってくるので、『しつこい』と追い払おうとすると、じゃあ、せめて連絡先を教えてほしい、と。それでようやくまじまじと顔を見たんですが、なんだかあどけない顔をした青年で。また会いたいと言うから、じゃあ、保険証見せてくださいって言ったんです。まるで歯科の受付みたいな言い方で(笑)

 彼が差し出した保険証は、誰もが知っている会社の社会保険で、彼女と同い年だった。ひるむことなく真正面からぶつかってきた彼に好感を抱き、付き合うことにはなったが、彼女は素性を明かさなかった。ところがすぐに、彼女が紺野ぶるまだとバレてしまう。彼自身は知らなかったようだが、彼女のLINEのアイコン写真を見た先輩が教えてくれたそうだ。

「まだ付き合い始めたばかりだから『クーリングオフしますか』と尋ねたら、『しません』と。彼と付き合うようになってから、毎日が穏やかになったんです。彼は本当に常識的でブレない人」

 2019年、2年の交際を経て結婚。夫のことを語る紺野は少し照れくさそうだ。

「結婚すると母に言ったら、ようやくホッとしたようです。彼が社会保険に入っているような会社員だったし(笑)」

 紺野と母親とはずっと「微妙な関係」だった。言葉を交わせばケンカになってしまう。紺野が病気がちだったことに母は負い目を感じており、だからこそ「早く結婚して子どもを産め」と心配する。だが、紺野にはその母の負い目が負担になった。

 それでも芸人になって下ネタで謎かけをしたとき、彼女は母を傷つけて生きていく覚悟をした。

「母は外では社交的で穏やかな人なんです。だから本来なら穏やかな人生を送れるはずだった。でも、私の病気や中退が彼女の人生を狂わせてしまったんだと思うと、ショックが大きかった。母は私のことが心配でたまらないから、私の意思をくまずに“安定”を押しつける。それはわかっているんだけど、私も自分を守るために言いたいことをぶつけるしかない」

 紺野は「母親」としてではなく、「友人」のフィルターをかけて、母親と向き合うようになったという。

「母をひとりの人間として見れば、大好きなんですよ。そう気づけたとき、生き方は違うけど、それは悪いことじゃないんだと素直に思えた。だからなるべく友達として見るようにしています。そうすれば、うまくいく」

 結婚を報告しに行った日、母親は「わがままな娘ですがよろしくお願いします」とぽつりと言った。

「あの日、お互いに“許された”という感じがありました。私が結婚したことで、心配性の母は、少しだけホッとしてくれたのではないかと思っています。もちろん子どももほしいですよ。卵巣の病気があるのでどうなるかわかりませんが……」

 紺野は少し躊躇いながら、

「ちょっとだけ、この結婚には“母のため”という気持ちがあったと思う。ちょっとだけですよ?」と言葉を足した。

 兄は「ヤフーニュースで妹の結婚を知った」と言う。

「結婚式はコロナ禍で延期になったんですが、去年の正月だったか妹のダンナさんに初めて会いました。すごくいい人で、優しい人。妹のどこがよかったのかわかりませんが、妹は彼のまともさに惹かれたみたいですね。そのあたりが妹のバランス感覚のよさじゃないかと思う

 これは彼女の芸にも通じる。たとえ下ネタで謎かけをしようと、妙にぶっちゃけた女を演じようと下品にならないのは、芸への矜持と、彼女の精神的なバランスのよさなのだろう。

お笑いは一生、手放したくない

 2018年の4月から彼女を担当しているマネージャーの牛島理恵さんは、「知れば知るほど深みがあり、周囲に気遣いのできるいい子」と褒める。

「よく努力しているなと感心しますよ。テレビの収録などがあるときは、そこで扱うテーマについて事細かに予習してくるんです。自分が話せる内容をメモにたくさん書いてくる。ほかのタレントに対してもそうですが、私はマネージャーとして、タレントのやりたいことを実現させるのが仕事だと思っています。ぶるまは、自分が何をやりたいか明確にしてくれるので、こちらも全力でがんばろうと思えます」

 DVDを出したり本を出したりと、紺野の夢が叶うたびに、牛島さんも自分の夢が叶ったようにうれしくなるのだという。

「ぶるまに文才があるとわかったのも、うれしいことでした。仕事の幅が広がったと思います。今回、2冊目の本が出たとき、ぶるまは著者だから出版社から何冊か本をいただけるのですが、私には、わざわざ書店に行って自分で購入し、サインをしてくれたんです。『牛島さんには自分で買った本を贈りたかった』と言ってくれて。これがぶるまの人間性なんだなと感激しました。しかも2冊とも、本の奥付に私の名前を入れてくれたんです。会社の名前が入るのはわかるけど、私は単なるマネージャー。でも『嫌じゃなかったら名前を載せさせてほしい』と。その気遣いが本当にうれしかったです」

 大事な人とはきちんと関係を紡いでいくのが紺野の生き方なのだ。

 単独ライブをやったり賞レースの決勝に残ったり、本を出版したりしても、人としての紺野はまったく変わらないと、先輩芸人である「セバスチャン」の原田さんは言う。

「僕だったらもうちょっと調子に乗っちゃうと思うんですが、彼女はいつも申し訳なさそうにしてる。ギャルやってて中退したのはわかっているけど、彼女も僕もワルにはなりきれないタイプなんですよ。自分を防御するために強がっていただけ。ぶるまの本質は謙虚で、でもザ・芸人だと思いますね。最後は絶対に笑ってもらわないと気がすまない。先輩面していたけど、あっさり追い抜かれましたからね。これからもぶるまには頑張ってもらって、何かあったら僕もイベントに呼んでもらいたい(笑)」

 兄も「お金や名誉に執着がない」と証言する。

「実は、昔からなんです。子どものころ、お祭りに行ったとき、お小遣いを持ってこなかった友達に自分の小遣いを全部あげちゃったことがあるんですよ。それで本人は淡々としている。わが妹ながら変わったヤツだなと思っていました」

「今思うと、中退は失敗じゃなかったのかなって。高校を卒業できていたら、芸人になっていなかった。めちゃくちゃすぎてたどりつけた道」 撮影/伊藤和幸

 今後も「お笑い」を軸にして活動していきたいと紺野は言う。

「自分が芸人として舞台に立つのももちろんですが、ほかの人にコントを書いたり、ユニットを組んでネタを作ったりもしたい。小説や脚本も書いてみたいですね。お笑いは私にとっていちばん大事なこと。いちばん好きでいちばん長続きしてきたことだから、活動の形は変わっても、一生、手放したくない。そう思っています

 そう言った直後に、紺野は満面の笑顔でこう言った。

「いや、やっぱり大女優を目指したほうがいいですかね。最近、スクリーンが見えるんですよ。アカデミー賞とりたい!」

 マネージャーの牛島さんが、

「大丈夫? 誌面に載る前に撤回するのはカッコ悪いよ」と的確にツッコミを入れる。

「え? 言いすぎ? やめとく?」

 あわてふためき、急に照れ笑いでごまかす紺野。大胆に「かまして」おきながら、素の謙虚さがにじみ出る。その振り幅の大きさが彼女の魅力でもある。

 “腐ったみかん”と揶揄された少女は、10数年かかって熱中できることを見つけた。そしてたくましく自分の道を切り開いている。

(取材・文/亀山早苗)

かめやま・さなえ
1960年、東京生まれ。明治大学文学部卒業後、フリーライターとして活動。女の生き方をテーマに、恋愛、結婚、性の問題、貧困や格差社会など、幅広くノンフィクションを執筆。歌舞伎、文楽、落語、オペラなど“ナマ”の舞台を愛する