キュートなTシャツを着こなして熱唱する近藤真彦(1982年)

「あのころは、本当に忙しかった。朝の5時に眠りについて昼前まで寝ていて、14時から打ち合わせ、という日々の繰り返しで。遊びに行く時間なんてなかったよ」

 1980年代に中森明菜、チェッカーズ、河合奈保子、荻野目洋子、矢沢永吉など数々のヒット曲の作詞を手がけてきた売野雅勇は、そう振り返る。チェッカーズがブレイクした'84年ごろ、どのように過ごしていたのか尋ねてみたのだが、確かに、この年の売野は男性ボーカルだけでもチェッカーズ、近藤真彦、シブがき隊、吉川晃司のヒット・シングルをほぼ同時期に手がけているのだ。

マッチの“問題作”も担当

 中でもマッチこと近藤真彦は、シングルでは通算13作目となる『一番野郎』('84年3月発売)からの起用だった。初期のがむしゃらな少年のイメージよりも、さらにコミカルな『ケジメなさい』や、大人の哀愁を見せ始めた『夢絆(読み:きずな)』『大将』といったものまで、近藤が'87年の『愚か者』で硬派な男像を定着させるまでの過渡期を中心に、アルバムを含め全17曲を提供している。

 当時のマッチと言えば、'80年末のデビュー曲『スニーカーぶる~す』以降、寺尾聰の『ルビーの指環』で阻まれた2ndシングル『ヨコハマ・チーク』以外は常にオリコン1位を獲得してきた大ヒット・アイドルだった。その最中(さなか)に、どうして彼の楽曲を手がけることになったのか。

「『一番野郎』は、筒美京平先生からのご指名だった。(当時ディレクターの)小杉理宇造さんから、“タイトルはこれでお願いします”って指定されて作ってみたんだけど、これが問題でね……(苦笑)。というのは、歌詞を作ってる段階で京平先生から“『一番野郎』ってさ……、一発野郎=一発やろう、ってこと? 下品すぎない??”って言われたんだ。

 それで先生が“こんな詞、書けないって小杉くんに言ってよ”とか、“もうこの曲、引き上げようかな”ってかなり怒ってたんだけれど、なぜかウヤムヤになって発売されたんだよね。ちなみに、この曲のB面のタイトルは『ムシャクシャするぜ』。今から考えてもちょっとハジけているよね、このシングルは」

 そんな小競り合い(?)をよそに、本作でも無事にオリコン1位を獲得し、続くシングル『ケジメなさい』でも売野は続投することに。

「今度も小杉さんのアイデアで、『ケジメなさい』というタイトルで書いてほしいと言われて。 《ミジメジメジメと》《致命傷だネ 優しさは ワッショイ! ワッショイ!》とか、この歌は言葉遊びが多いけれど、こういうのは、ぜんぜん嫌いじゃないね。どちらかといえば得意かもしれないな。そういえば、小杉さんからはシブがき隊に書いた『サムライ・ニッポン』について、“あれは、マッチに歌わせてほしかった。マッチだったら1位にできたはず”って後から言われたよ(笑)」

 コミカルな内容が、アイドルファン以外にも幅広く浸透した結果、レコード売り上げのほか有線放送、ラジオ、はがきの各部門のリクエストも総合した『ザ・ベストテン』(TBS系)では2年前の『ハイティーン・ブギ』以来となる4週連続1位を獲得。新たなマッチ像を印象づけた。

マッチとトシちゃんに書きたい曲は

 そして翌年、近藤はレコード会社をRVC(当時)からCBSソニー(当時)へ移籍。年齢も20歳となり、徐々に大人路線を模索しようとしていた。そのころ、再び売野が起用される。

「『絆』というタイトルで(男の哀愁や切なさについて)書いたんだけど、ジャニーズ事務所の中でとても評判がよくて。作曲を担当された鈴木キサブローさんのメロディーを聴いたら、こういう歌詞が自然にできたんだよね。後からメリー喜多川さん(藤島メリー泰子、'21年8月逝去)​に、“「夢」という字を足して『夢絆』というタイトルにしてほしい”って言われて変えたんだ」

 この『夢絆』は、オリコン連続1位記録は途切れたものの、『ザ・ベストテン』では『ケジメなさい』以来3作ぶりに1位を獲得。アイドルから大人の男への布石となったであろう。ちなみに、この作品の評判から、売野は『夢絆』を収録したアルバム『SUMMER IN TEARS』でも、6曲の作詞を担当している。また、続くシングル『大将』については、

「『大将』とは、矢沢永吉さんのことだよ。当時、マッチが矢沢さんのファンで、“大将”って呼んでいたことをモチーフに書くことになった」

 近藤はこの1曲で大人路線を確立したことが業界内で評価を受け、第16回『日本歌謡大賞』も受賞している(大将と大賞を掛けたかどうかは定かではない)。

 余談だが、同年の秋、コミカルな路線が多かったシブがき隊が突然、『KILL』(売野雅勇作詞、林哲司作曲)でシリアスな失恋ソングに挑んだのは、先輩であるマッチが『夢絆』でイメージチェンジを成功させたことに影響を受けたようにも思える。

 近藤の印象について売野に尋ねてみると、こんな答えが返ってきた。

「マッチとは、'84年ごろにレコーディングスタジオで初めて会ったんだけど、いやぁ、面白いヤツだと思ったよ。男っぽくてガキ大将、やんちゃでフザけてばかり。大人たちにイタズラばかりして、常に話の中心になる人気者タイプだね。レコーディング中も一生懸命、自分が見た夢の話をずっとしていて、銀玉で打たれたシーンをこと細かにしゃべっていてね。トークが上手だなって思ったよ。彼のように、可愛くて愛嬌(あいきょう)もある男はいそうでいないね。

 それからずいぶんたって、5年くらい前に、彼のラジオ番組のゲストに呼んでくれたんだけれど、久しぶりに会ったらさらにイイ男になっていたね。マッチには、ヒロイズムの強い『愚か者』路線もいいんだけど、それとは別にスタンダード感のある男の歌も合うんじゃないかな。フランク・シナトラや石原裕次郎のような、おしゃれで正統派の男の歌を書いてみたい。彼がそれまで見てきた、スターにしかわからない栄光と恍惚、孤独と悲哀があるはずだから、破天荒なだけじゃなくて、自分で自分に課したものに向き合ってきた、裸の魂の姿を歌にしたいかな

 また、売野は近藤だけでなく、近年の田原俊彦にも創作意欲がわいているそう。

「2年前、トシちゃんのマネージャーにコンサートに誘ってもらって行ったんだ。これまで観たことがなかったけれど、トシちゃんがMCで“売野さん、来てますよね?”って会場に呼びかけるから驚いたよ(笑)。そのとき、彼は還暦の前年だったんだけど、あれだけ歌って踊って、やっぱりトシちゃんは大したもんだよ。

 彼にはスウィング系の楽曲を書いてみたいね。グレン・ミラーみたいなシャレたアレンジのね。60代のヴォーカリストが歌う最高のポップスは、ビッグバンドなんだよ。シブくなくていいのよ、ゴージャスならね。それができるのは、田原俊彦しかいないんだよ。方向さえ間違えなければ、この時代にミリオン級のヒットを飛ばすよ。予言しておきます」

 実は、田原俊彦にはシングル『シャワーな気分』('83年5月発売)のときに、筒美京平から作詞を頼まれていたのだという。

その前に書いた野口五郎さんの『過ぎ去れば夢は優しい』を京平先生がとても気に入ってくれて、次はトシちゃんでって、『シャワーな気分』のメロディーを渡されて。

 でも、レコード会社からはOKが出なくて、その後に書いたのは、アルバム『波に消えたラブ・ストーリー』に入っている京平さんが作曲した2曲(『裸足のミステリー』『水の中のヴィーナス』)と、タイトルがもう決まっているところに歌詞を依頼されたシングル『エル・オー・ヴィ・愛・N・G』だけかな」

 そういう経緯もあって、田原にも挑戦したいという思いが募っているようだ。

KinKi Kidsは「生々しさNG」?

 さらに、売野は'90年代にデビューしたKinKi Kidsについても2曲手がけていて、特にそのうちの1曲であるアルバム曲『イノセント・ウォーズ』(作曲:坂本龍一)は当時、シングル発売が予定されていたことが、これまでいくつかのメディアでも報じられてきた。

「ああ、『イノセント ウォーズ』は、シングル候補だったんだよ。というか、ほぼセカンド・シングルになるはずだった。彼らが主演するドラマ『ぼくらの勇気 未満都市』(読み:みまんしてぃ/日本テレビ系)の主題歌用にと依頼されて書いたんだ」

 確かに、デビュー・シングル『硝子の少年』が松本隆×山下達郎という、歌謡界の大御所と一流アーティストのコラボだったので、その第2弾として、売野雅勇×坂本龍一に依頼があっても不思議ではない。坂本龍一は、’97年初めの日本テレビ系ドラマ『ストーカー 逃げきれぬ愛』の音楽を担当し、英語詞の主題歌『The Other Side of Love』も70万枚を超える大ヒットを記録。その日本語詞カバーとなった中谷美紀の『砂の果実』も、売野雅勇が作詞し30万枚近いヒットとなっていることから、これは自然な流れにも思える。

ドラマの内容や、彼らの年齢も考えて《20歳を過ぎた大人は信じないさ》って歌詞にしたんだけど、坂本さんも気に入っていた。最初は、坂本龍一らしいメロディアスなイントロだったんだけど、シングルになるんだからと言われて、ダッダッダ~って派手な(ディープ・パープル『Smoke on the Water』風の)イントロに変えたんだ。急きょ、予定が変更となったのは、内部的な事情なのか、誰かの好みだったのかはわからないけれど……。確かに、最終的に決まった『愛されるより 愛したい』のほうが、大衆的でわかりやすいかもね。でも、普通だな。坂本さんのあんなカッコいい曲をシングルにしないなんて……って、今でもため息をつくことがあるよ。1年に1回くらいだけど(笑)」

 そして、売野はその約20年後にも、KinKi Kidsに『哀愁のブエノスアイレス』('18年1月発売、シングル『Topaz Love』のカップリング)を書いている。

この曲は、ディレクターから突然、依頼の連絡があって驚いたね。林(哲司)さんから素晴らしいメロディが送られてきて作詞したんだけれど、書き直した記憶があるな。おそらく、KinKiには“生々しくならないように”という一貫したマナーがあって、例えば、最初に書いていた《2人で暮らした部屋》といったリアルな情景に対して最初はNGが出た。そういう箇所がほかにも3か所くらいあって、スマートな内容に書き直したんだよね。

 俺はこの“ブエノスアイレス”という言葉の響きが好きだし、なぜか前から行ってみたくて。だから、自分がプロデュースしているMax Luxにも、中西圭三君にバラードの曲をつけてもらって、別の『ブエノスアイレス』という詞を書いたほど。KinKiの2人は、まさに哀愁と表現力があるよね

 ちなみに、売野の歌詞には、“車”ではなく“クーペ”がよく登場するのだが、地名では“六本木”がとても多い。タイトルだけでも『六本木純情派』(荻野目洋子)、『六本木レイン』(研ナオコ)、『六本木ショット』(矢沢永吉)、『六本木慕情』(鈴木雅之)、『六本木界隈・夢花火』(山内惠介)など10作ほどあり、もちろん作詞家別でもダントツの多さだ。

「六本木というワードは、促音が入っていて、言葉にリズムがあってハマりやすいんだよね。街にもドラマがあるしね。当時、よく通った井上大輔先生のご自宅があったり、筒美京平先生がしゃれた隠れ家のようなお店に連れて行ってくれたりしたことも、六本木が多い理由かな。

 京平先生とは仲がよかったよ。親友みたいにね。2人きりでアフリカ旅行に出かけたこともある。ルイ・ヴィトンのいちばん大きなスーツケースを2つ持ってきて、中は全部、服だよ。朝昼夜と1日に3回も着替えるんだ。知り合いの中でいちばんオシャレで、エレガントな方だったね。

 京平先生からは、“詞の勉強よりも、映画を観たり、旅行に行ったり、本を読んだりするほうがいいよ”って最初の食事会で言われたね。それが血となり肉となるからねと。その教えは忠実に守ってきたよ。“作家というのは、作品に品性とか中身がすべて出ちゃうから”って。あのころの10歳違いは、ずいぶんと大人だからね。先輩にも恵まれたよね。いまでも感謝しているし、尊敬している​

(取材・文/人と音楽をつなげたい音楽マーケッター・臼井孝)


【PROFILE】
うりの・まさお ◎上智大学文学部英文科卒業。 コピーライター、ファッション誌編集長を経て、1981年、ラッツ&スター『星屑のダンスホール』などを書き作詞家として活動を始める。 1982年、中森明菜『少女A』のヒットにより作詞活動に専念。以降はチェッカーズや河合奈保子、近藤真彦、シブがき隊、荻野目洋子、菊池桃子に数多くの作品を提供し、80年代アイドルブームの一翼を担う。'90年代は中西圭三、矢沢永吉、坂本龍一、中谷美紀らともヒット曲を輩出。近年は、さかいゆう、山内惠介、藤あや子など幅広い歌手の作詞も手がけている。