松山航空隊にいたころのりりしい制服姿

 終戦から76年──。戦争の怖さや苦しさ、悲しみなどを語り継ぐため、過去の週刊女性PRIMEや週刊女性の誌面から戦争体験者の記事を再掲載する。語り手の年齢やインタビュー写真などは取材当時のもの。取材年は文末に記した。(【特集:戦争体験】第4回)

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 寒い日だった。

 千葉県流山市の曹洞宗「廣壽(こうじゅ)寺」の酒井文英(ぶんえい)住職(92)は学徒出陣した元海軍パイロット。終戦2年前の1943年10月21日、雨の降りしきる東京・明治神宮外苑競技場で銃を担いで行進した。学徒出陣壮行会だ。

「緊張しました。観覧席の女学生が“バンザーイ、バンザーイ”ときれいな声で送り出してくれましてね。清らかな気持ちになりました。ただ、担いだ銃が軽くってね」

 当時20歳。駒澤大学の歴史学科で学んでいた。子どものころからガキ大将。6人きょうだいの長男で、両親から寺の跡取り息子として期待をかけられていた。壮行会の前の晩、僧侶の父親は「行ってこい。辛抱しろよ」とだけ告げた。母親はこわばった表情をして無口だった。

「戦局が悪化して、兵力を補うため文科系大学生も徴兵されたんです。担いだ銃は本物だったのか、木の銃だったのか、かなりインチキなものだったことは間違いない。なにしろ国防婦人会に竹ヤリを持たせて、米兵の火炎放射器と戦えというほどでしたから。これは生きて帰れないかもしれないな、と思いました

 すでに兵器は不足しており、出陣学徒全員が本物の銃で行進したわけではなかった。

 成績は優秀だった。海軍飛行科に配属された酒井さんは、偵察機や戦闘機のパイロットとして呉航空隊(広島)、土浦航空隊(茨城)、松山航空隊(愛媛)、大津航空隊(滋賀)と渡り歩いた。任務は本土防衛。7つボタンの白い制服は、女学生の憧れの的だった。

「本土上空で出くわすのはたいがいB29でした。モールス信号で敵機襲来を“ツツーカカー”と知らせるんですが、地上からの高射砲が命中したところは1度も見たことがない。偵察機は3機編隊なので、単独飛行は心細くってね。機体の後ろに敵機に回られないよう気をつけました。撃たれちゃたいへんですから。向こうの戦闘機は速いんです」

 訓練は厳しかった。午前5時起床。毎日10キロ走り、ひじで地べたを這(は)う匍匐(ほふく)前進の練習を続ける。闘争心をあおる騎馬戦も。理不尽なことで罰を受けた。

「気合を入れてやる」

 上官の鉄拳制裁は日常茶飯事だった。仲間のひとりは60発ぶん殴られたこともあるという。互いに励まし合いながら、何度も夜行列車に乗って逃げようかと考えた。

彼の母親は無言で遺骨を抱いて

 松山航空隊にいたころ、忘れられない事件が起きた。

「仲間のひとりが船のフックにひもをかけて首つり自殺したんです。訓練に耐えきれなくなったんだと思う。京大卒の優秀な男でしたが、人付き合いが苦手でちょっと孤立しているところがあった。“つらい”とグチをこぼすこともありませんでしたから」

 彼の自殺を報告したときの上官の言い方は、いま思い出しても腹が立つという。

「上官は“おまえたちの死亡通知は3銭(切手代)ですむんだ”と言う。バカにしていると思いました。当時そばが1杯7銭です。そんな言い方がありますか」

 数日後、彼の母親が遺骨を引き取りにやって来た。

「軍は冷たい。軍隊葬もしなかったし、上官からお悔やみの言葉もない。お骨の入った箱を“はい”と母親に渡しただけ。息子の遺骨を抱いた母親は、何も言わず黙って帰っていきました。付き添う人もいませんでした。どんなにか泣き崩れたかったろうに。その後ろ姿がじつに寂しくて、今でも思い出すと胸が締めつけられます」

 ほどなく終戦を迎え、酒井さんは無事に寺に帰ることができた。出迎えた母親はただただ喜んだという。

酒井さんが住職を務める曹洞宗「廣壽寺」の本堂で

 最後に、気になっていたことを聞いた。仏の道から戦争に行くことにためらいはありませんでしたか─。

「なかったというとウソになりますね。1度も交戦せず終戦を迎えられたことに感謝しています。そもそも、名誉の戦死なんて思えなかったからね。戦争は悲惨なものです」

 そう言って目を閉じた。

※2015年取材(初出:週刊女性2015年9月8日号)

◎取材・文/渡辺高嗣(フリージャーナリスト)

〈PROFILE〉法曹界の専門紙『法律新聞』記者を経て、夕刊紙『内外タイムス』報道部で事件、政治、行政、流行などを取材。2010年2月より『週刊女性』で社会分野担当記者として取材・執筆する