「虐待したことはない」と何度も主張した畠山鈴香受刑者

■「秋田県児童連続殺害事件」('06年4月~5月)事件概要
 '06年4月から5月にかけて、秋田県藤里町で起きた連続児童殺害事件。犯人の畠山鈴香は娘の彩香ちゃん(享年9)を、自宅近くを流れる川の橋の欄干の上から転落させて殺害した(本人は殺意を否定)。警察が事故死と判断するが、鈴香はこれを否定し誰かに殺されたと《悲劇の母親》としてマスコミに取り上げられる。その矢先に自宅から2軒隣に住む米山流星くん(仮名・享年7)の首を絞めて殺害し、死体を河原に遺棄。'09年無期懲役が確定し、現在服役中。

“悲劇の母”としてメディアに登場

「名刺出せっ!」

「勝手に撮ってんじゃねぇ」

 秋田弁でそう怒鳴ったかと思えば、涙を流しながら娘の死の真相究明を訴える。当時、新聞記者としてこの事件を取材していた私は畠山鈴香受刑者(48)にチグハグな印象を受けた。それは彼女が着ている服や、言葉遣いからも感じられた。暑いと言いながら冬物のパーカを羽織る、“殺める”など丁寧な言葉遣いをしたかと思えばその数時間後には激高し、べらんめえ口調でマスコミを怒鳴りつける。畠山鈴香に感じた《チグハグ》というキーワードは取材を始めてからずっと私に付きまとうことになった。

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 秋田県藤里町──。風光明媚な一帯で、わずか1か月の間に2軒隣同士の小学生が水死体と絞殺体で発見されるという悲劇に見舞われたのは'06年のこと。ふたつの事件をつないだのは水死体となって発見された彩香ちゃん(享年9)の母親の畠山鈴香(当時33)だった。

「4月9日、娘の彩香ちゃんが帰ってこないと自ら110番通報した鈴香でしたが、実際は自分が川に連れていって殺害していました(鈴香は彩香ちゃん殺害を認めていない)。警察は彩香ちゃんの死を事故死と判定しましたが、それに納得できない鈴香はまたもや自ら行動を起こしたのです。警察の捜査怠慢を訴え“悲劇の母”としてメディアに登場したり、もう亡くなっている彩香ちゃんの当日の目撃情報を募る自作のチラシを配るなどしていました」(地元紙記者)

 殺害したのであれば、事故死として扱われるのはむしろ喜ばしいではないか。なぜ騒ぎを大きくするのだろうか。そして第2の事件が起きる。

2人目の犠牲者

 彩香ちゃんの死から1か月後の5月17日。2軒隣の家に住む米山流星くん(仮名・享年7)が学校から帰宅せず両親が捜索願を提出。翌日遺体となって発見され、殺人事件として捜査が開始されたのである。私が取材に参加したのもこのころからだった。事件当時の『週刊女性』6月13日号では《彩香ちゃんのママもブチギレた! いま地元でささやかれる「嫌な噂」》と称して逮捕前の鈴香が疑惑の人物としてすでに報じられている。流星くんの事件から1週間もたたないうちに鈴香が容疑者として挙がっていることはわれわれマスコミに知れ渡っていた。多いときには100台ものカメラが鈴香の実家を囲み、普段は静まり返っている山間の一軒家は異常な観光スポットと化していった。

 このとき私は鈴香本人に取材している。畠山家の実家の広い玄関の三和土(たたき)に鈴香が座り、われわれは彼女の話をただ聞いていた。そのときの主張は「私は流星くんを殺めていない。犯人は許せない」といったような話だった。われわれの質問に対しては「決めつけないでください」「(思っていること)全部は話しきれない」と何度も繰り返した。目の前にいる鈴香はワイドショーで繰り返し流されたヒステリックな女性ではなく、どこかおどおどとした娘を亡くしたひとりの母として映った。取材をした記者の中には「鈴香は白!」と社に報告している者までいた。記者だけではなく自分までも欺く鈴香の生い立ちは、聞く者に同情を与えるものだった。

父親から逃げたかった

 1973年2月、鈴香は畠山家の長女として生まれた。秋田県北部の二ツ井町で運送会社を経営する父と元飲食店従業員の容姿端麗な母と4歳下の弟の4人家族。

 幼いころから父親から暴力を受け、いつしか鈴香は父親に怯えて暮らすようになったという。

 学校でも大人に恵まれなかった。小1のとき担任から「水子の霊が憑いている」と言われたことがきっかけで同級生から《心霊写真》というあだ名をつけられた。高学年になっても給食を食べるのが遅い鈴香は残ったおかずを手のひらにのせられ、それを食べさせられた。その姿を見た同級生たちは彼女を《バイキン》と囃し立てた。

「バイキンを洗い流すために便所に押し込まれて洗剤をまかれたというエピソードもありました。高校の文集の寄せ書きには《いままでいじめられた分、強くなったべ。俺達に感謝しなさい》、《秋田から永久追放》など心ない言葉が続き、多感な少女時代にそんな扱いを受けていた彼女に同情しました

 と、雑誌記者が明かす。

 転機が訪れたのは高校卒業後。栃木県の鬼怒川温泉ホテルや川治温泉で仲居やコンパニオンとして働き始める。しかし父親に連れ戻され、帰りたくない実家に帰ることとなる。そのころ秋田で後に彩香ちゃんの父親となる男性と出会い、やがて2人は結婚する。21歳のときだった。2年後に彩香ちゃんが誕生し、その1年後に離婚。彩香ちゃんは鈴香が引き取ることに。

「もともと鈴香の父親に押し切られたような結婚でした。妊娠がわかったときも鈴香は自信がないと産むのをためらっていた。旦那さんは全然彩香ちゃんに興味を示さないし、鈴香は彩香ちゃんをかわいそうに思ったんじゃないかな。自分で引き取ったのはそういうことだと思えてなりません」

 と友人のK子さんが鈴香の心情を推測する。そして藤里町の団地に移り住んで数年後、鈴香は日本中から注目を浴びることとなった──。

当時の『週刊女性』“母親失格”の文字が躍る

相反する供述

「30歳も過ぎているのにことさら同情を買うようなことをしていますが(不遇な過去が)流星と何の関係があるのか。一審判決はその点を酌量の理由にしましたが、私にはまったく理解できません」

 控訴審裁判で被害者側の米山さんにこう言わしめた第一審では何が明かされたのか。

「弁護側は鈴香が父から虐待されていたこと、学校ではいじめにあっていて逃げ場がない状態から解離性障害があったと主張。彩香ちゃん殺害についても健忘状態にあり責任能力がないと主張した。

 一方で検察は“女でいたいシングルマザーは娘が邪魔になって殺した”と印象づけようとした。証人として出廷した元彼に鈴香の性行為中の喘ぎ声の大きさまで聞いたのです」(司法記者)

 死刑が求刑されるも一審判決は無期懲役。続く控訴審判決でも無期が確定し、'09年4月高検の上告断念によって終結した。事件から丸3年たった時点で見えてきたものはなんだったのか。それはやはりチグハグな鈴香の姿だった。

 第一審判決のとき、鈴香は被害者遺族に土下座し謝罪するというひと幕があった。しかし、そのころ担当医にあてて書かれていたメモには、

《米山さんがなんで怒っているのかわからない。まだ2人も残っているじゃない(被害者は次男で他に長男と三男がいる)恵まれているのに》

 その内容は世間に“嘘つき鈴香”の印象をより強めた。

娘への殺意の否定は貫き通した

 また、鈴香は事件を起こす1年前に睡眠薬を大量に服用し自殺未遂を起こしているのだが、このとき彩香ちゃんと両親、弟に向けて遺書を託している。両親らには《彩香のことをよろしくお願いします》と丁寧に書かれ、彩香ちゃんには《10年後の彩香へ》と娘の将来を慮る母親の愛情があふれていた。一方で交通事故で児童が死んだニュースを見ながら「彩香があの中にいたら」と言ったという証言も出ている。

 考えるのが苦手で相手の言うことに迎合しやすい鈴香がひとつだけ変えなかった主張は彩香ちゃんへの殺意の否定だった。

「実は彼女は何度も拘置所で自殺未遂をしているんです。逮捕されたあと取調官が与えていたタバコ4本をくすねて飲み込んだことから始まり、そのあとも浴場でボディソープひと瓶の3分の1を飲み、取り調べ中にボールペンを腕に突き刺すなどの自傷行為を繰り返しました。裁判が始まる前の'06年8月には独房でタオルで自分の首を絞めています。'07年に手鏡を壊し破片を左腕に刺しています。“死刑にしてください”と言ったのは本心だと思います。控訴したのはただ1点、彩香ちゃんへの殺意が認定されたことへの不服だといいます」

 彩香ちゃんを疎ましく思いながらもかわいそうとも思っている。愛したいけど愛せない、娘に対して相反する母性が鈴香本人の首を絞めていた気がしてならない。彩香ちゃんの死は事故なのか、殺害なのか、自殺なのか──。鈴香本人にもわからないのだろう。

 現場となった団地は'08年に取り壊され、鈴香の実家は'18年末にひっそりと解体された。事件から15年、母子が過ごした痕跡はもう跡形もない。

(取材・文/江藤洋次)