現場となった自宅は今は取り壊され跡形もない

「スッキリした」。夫を殺害したあと、そう話したという妻。17年にわたって引きこもる夫、自身に迫る体調不良、コロナ鬱──。妻を追い詰めるには十分すぎる理由があった。妻の全裁判を傍聴した作家・北原みのりが見た事件の真実とは──。

 今年3月、夫(83)をノコギリでひき殺した女性(76)が逮捕された。女性は自首した警察で、夫への長年の恨みを語ったという。

 なぜ、ノコギリだったのか。なぜ包丁でなかったのかが、強くひっかかった。事件の背景を知りたい。その思いで横浜地裁での裁判を傍聴した。

夫のDVに耐え、2人の子を1人で育てあげた

 女性は1945年に神奈川県茅ヶ崎市で生まれた。男女平等教育を受けた世代だが、就職した会社で女性がずっと働ける時代ではなく、25歳で見合い結婚をした。

 7歳年上の夫との生活は、「一日も心安らかに過ごしたことがない」ものだと、女性は日記に書き残している。給料は夫がパチンコと酒に費し、「お金をください」と女性が頭を下げればわずかをよこすが、飲んでは物を投げ、殴る素振りで脅し、時には実際に殴られた。飲まずとも、「クソババア」「バカか」の罵りを毎日浴びてきた。

 女性は簿記一級の資格をもち、経理を勉強し再就職を望んだが、現実は厳しく、スーパーのパートなどで2人の子を1人で育てあげた。積年の願いだった離婚ができたのは、娘が独立し、夫が定年を迎えた年、53歳だった。

 警察に「退職金をもらえなかったので離婚した」と書かれた調書に、女性は「退職金をもらえなかったけど」と書きなおすよう要求したという。それは重大な違いだったはずだ。罵られない日常を生きるための離婚、53歳で得た自由だ。その人生が地獄に転じたのは、わずか6年後だった。夫が栄養失調で倒れ、介護が必要になったのだ。

 アルコール依存症患者が入所できる介護施設はなかった。入院をすすめられたが、そんな余裕はなく、結局、夫を引き受け再婚した。それは以前とは別の次元の暴力の始まりだった。

 夫は下の世話をしてもらいながらも暴言を吐いたという。あまりの臭さに吐きながらオムツを替えたこともあった。やがて夫は自力で排泄できるまで回復はしたが、今度は、自室に引きこもった。トイレには行くが、歯は磨かず、風呂に入らず、下着を替えず、雨戸の閉じた部屋で1日中テレビをつけゲラゲラと笑い、時に奇声を上げた。そんな生活が17年間続いた。

 女性が日記をつけはじめたのはいつだったのか。証拠として出されたノートの表紙は花柄で、女性の名が書かれていた。そこには女性の叫びが、短い言葉で綴られていた。

《T(夫)のこと、何もかも嫌い。特に声が嫌い》《結婚したこと自分を責める日々》《Tは100才まで生きる。それは困る。50年の憎い》

 救いだったのは娘と3人の孫の存在だった。子育てに関わらず、母に暴言を吐く父は、娘にはいないに等しい存在だっただろう。「(夫が)早く死んでほしいな」と冗談っぽく母が言うのを聞き、少しでも気分転換できるよう買い物によく連れ添った。それも去年以降、コロナ禍で絶えた。

家にあった包丁を捨てた理由

 法廷での女性は、はっきりと「壊れて」いた。自分の額を叩き、足を床に叩きつけ、うなり声を上げた。検察が事件を語りはじめると「できないよお」と身をよじった。そしてそういう女性を、法廷中がもてあましていた。検察は苛立ち、弁護士に「なんとかしろ」というように迫った。女性の手首は真っ赤に腫れていた。手錠のまま暴れたのだろう。

 弱った身体で必死に抵抗する姿は、女性が裁かれる状況にはなく、今すぐにでも精神的なケアが必要であることがわかる。裁判中、目の前で虐待が行われているような思いに何度もかられた。

送検される女性

 '20年10月、通院した病院で、女性は「肺に影がある」と言われた。“子どもに夫の世話をさせることになる”。夫よりも先に死ぬかもしれない悔しさは、どれほどだったか。そのころ、女性は日記にこう書いている。

《今日Tが死ぬ。Tを殺す》

 この日記について、女性は警察でこう話している。

「書いた後にとてもスッキリした。これまで願っていただけだったが、書いて初めて、具体的に(殺そうと)思った」

 殺す日は3月5日と決めた。息子が通院のために留守にする日だった。凶器はノコギリと決めた。83歳の夫とはいえ、間違ったら自分が死ぬ。ノコギリなら確実に殺せると考えたのだ。なにより、家には包丁がなかった。

 娘が家を出てから、女性は料理をしなくなったという。とはいえ、普通、包丁は捨てない。包丁を捨てたのは、それが凶器になるのを恐れたからなのではないか。DVの家で女性が包丁を隠し、捨てるのは珍しくない。現に、証言台に立った娘はこう話した。

「子どもの私がケンカを止めようとしたとき、父に包丁を向けられたことがあります」

 裁判官らは娘に、「何回暴力を見たか」「平手か」など暴力の回数や強弱にこだわる質問をした。酒を飲み暴れる男そのものが凶器であることが想像できないのだろう。

 その日、女性は夫の部屋にマスクをして入った。「昼か?」と夫は聞いたという。「いいえ」と女性は答え、夫に馬乗りになった。抵抗され女性も負傷したが、首に思い切り刃をあてるとおとなしくなったが、息を吹き返さないよう、胸の上に乗り続けた。

 帰宅した息子は、馬乗りの母を見たが、「自分の部屋に行きなさい」と命令され自室にこもった。しばらくしてリビングに行くと、鏡台の前に座る母は「スッキリした」と言ったという。それからいつもの“お母さん”の口調で「あなたは施設に行きなさい」と告げた。女性は娘に連絡し、娘が来るのを待った後、自首した。殺されたとき、夫の体重はわずか37キロで、髪は腰まであった。部屋の障子はボロボロに破け、布団の下には吸い殻がたまっていた。

「介護殺人じゃない」と線を引き裁く冷酷さ

 自首しており、前科がなく、再犯のおそれもない。量刑は軽いと考えていたが、甘かった。検察は12年を求めた。弁護人は、これは介護殺人と同等の執行猶予付きの3年の刑を求めた。ところが、裁判員たちの結論は、8年の実刑というあまりに重いものだった。いわく、これは介護殺人ではない。なぜなら女性は介護しておらず、反省していないとし、女性が50年にわたり受けたモラハラやDVは考慮されなかった。男性の裁判長は「あなたは協力的でなかった」「それでも私たちは一生懸命考えました」など、優しい口調で語っていた。暴力を生き抜いた女性を刑務所に送るのは、善良を装った暴力なのかもしれない。

横浜地裁

 事件後、拘置所に会いに来た娘に女性は「あなたに会うのがつらい」と言い、目を合わせなかった。娘が手紙を送っても返事は来なかった。母親が法廷で自らを傷つける姿を、息をのみ見つめる娘の姿があった。傍聴席に娘がいることを女性は気づいただろうか。

 女性は裁判の終盤、裁判官に「後悔しているか」と聞かれ、首を振った。「後悔していない」。それはほぼ唯一、裁判を通して女性が事件について語った言葉である。

 女性が暮らした町に行った。すでに家は更地になっていたが、かすかに海風を感じる開放的な住宅街だった。子どもの笑い声が聞こえてくる。すべての家から人の暮らしが伝わってくる。女性は誰にも助けを求めず、何も話さなかったという。話せなかったのだと思う。

 女性は控訴せず、刑は確定した。公平に裁かれたとは、やはり思えない。「それは介護殺人じゃない」と線を引き裁く冷酷さが、女性を追い詰めた暴力の正体だったのではないか。

 女性は気持ちをノートに書き綴っては、ページが埋まると捨てていた。だから残っていた日記は1冊だった。この日記はいつか持ち主のところに戻るだろうか。戻るまで、どうか8年間、生き抜いてほしい。そして、男に怯えないでいい人生を送ってほしい。

きたはら・みのり '70年神奈川県生まれ。作家。津田塾大学卒。女性のためのセクシャルグッズショップ『ラブピースクラブ』、シスターフッド出版社『アジュマブックス』の代表。主な著書に、『毒婦。木嶋佳苗100日裁判傍聴記』、『毒婦たち 東電OLと木嶋佳苗のあいだ』など