冨永照子さん 撮影/伊藤和幸

 日本を代表する観光名所である東京・浅草。一時はゴーストタウンと呼ばれたこの街のため、半世紀以上にわたって尽くし、盛り上げ、復活へと導いてきた伝説の女将がいる。女だけの協同組合を立ち上げ、おかしいと思ったら相手が大臣でも直談判。夫の愛人の世話さえ惜しまない。名だたる財界人の信頼をつかみ、数々の事業を成し遂げてきた“粋”ざまに迫る!

浅草・伝説の女将

「大役を引き受けることになりました」

 岸田新政権の発足直後、そんな1本のメールが女将の元に届いた。そして次のように返信し、エールを送った。

「大役、けっこうです。次はあなたが総理になるんですよ!」

 送信先は、新政権の主要ポストに抜擢された、ある大物政治家だった。

「本当にいろいろな大物にかわいがってもらいました。すべては『浅草おかみさん会』で取り組んできた町おこしが原点にあります。古い言葉で言うと郷土愛。それでここまでやってきました」

 そう誇らしげに語るのは、東京・浅草にある手打ち蕎麦店『十和田』の女将、冨永照子さん(84)。協同組合・浅草おかみさん会の理事長でもある。

 新型コロナ対応の緊急事態宣言が全面解除されたあとの10月4日夕。まだ多くの店舗がシャッターを下ろす浅草すしや通り沿いに、「コロナに負けるな!」という横断幕を掲げたその店は、煌々と明かりを灯していた。

 紫色の暖簾をくぐって店内に入ると、平時のにぎわいを取り戻したかのように、常連客たちで席が埋まっていた。全員男性だ。その中に、ピンクの衣装を身にまとった冨永さんが、酒のグラスを片手に、テーブルを渡り歩いていた。小柄ながら、男性客を相手に堂々と振る舞うその姿は、女将の風格をさりげなく漂わせていた。

女将のもとへ相談に訪れる客が絶えない

 そんな彼女は、先の政治家以外にも財界、芸能界など各分野において一線で活躍する大物たちに幅広い人脈を持ち、東京・浅草の町おこしに力を注いできた。

 つくばエクスプレス(TX)の誘致、浅草寺のライトアップ、2階建てロンドンバスの導入、「浅草サンバカーニバル」や「ニューオリンズ・ジャズフェスティバル」の開催……。

 冨永さんが町おこしのために取り組んできた事業の数々だ。講演依頼も全国から次々と寄せられ、これまでにこなした数は1000回近い。

 コロナ禍においてもその人脈はいかんなく発揮され、懇意にしている社長や旅館からお歳暮や菓子の大量注文を受け、なんとか凌いできた。

 今年9月なかばには、20年ぶりとなる新刊『おかみの凄知恵 生きづらい世の中を駆けるヒント』(TAC出版)も上梓した。

出版記念イベントで『東京おかみさん会』の面々と

《「義理人情と心意気」を忘れたら、もうおしまい》

《小さいお金は使う。大きなお金はもらう》

《悪口は聞こえるように言う。陰口は言わない》

《酒も呑みます、生きるため。嘘もつきます、生きるため》

 豪快な女将語録が詰まった1冊は、冨永さんがこれまでの経験で培った知恵に裏打ちされていた。

 そんな「凄知恵」ならぬ、「凄女将」の人生とは一体、どのようなものだったのか。

疎開先で「かわいそうな顔をしろ」

 浅草のシンボルといえば、巨大な赤提灯をぶら下げた雷門だ。そこをくぐり抜けると、仲見世通りが真っすぐ浅草寺に向かって延び、着物や浴衣姿の若者たちでごった返している。その中ほどにある「飯田屋」という屋号の店が、冨永さんの実家だった。

母と弟との家族写真。左が冨永さん。母も生粋の商売人だったという

 現在は踊り用品や扇子などを販売しているが、冨永さんが産声を上げた昭和12年当時は、かりんとうを作る菓子屋だった。その裏手にある家で3人きょうだいの長女として育った。間もなく戦争が始まり、小学2年生のときに埼玉県春日部に疎開する。

「疎開先では、母が持っていた着物と物々交換するため、手を引っ張られて“かわいそうな顔をしろ!”なんて言われた記憶があります。イナゴやしじみをとって食べ、砂糖が手に入れば舐めさせてくれたものです。B29が飛んできたときは、田んぼに伏せました。防空壕には蚊がいっぱいいるし、頭にはシラミがわく。シラミは水銀を頭にぬって落としました。そんな生活だったんです」

 戦争が終わり、小学校5年生のときに浅草へ戻ってくると、あたり一面は焼け野原と化していた。仲見世も焼けてしまったが、母親たちはそこに露店を開き、菓子屋を再開したという。冨永さんは台東区立浅草小学校に通いながら、早朝から店の手伝いをした。

「ようかんを作って売っていました。セロファンで包むんですけど、私、子どもだからよくわからず、くっつけばいいと思ってセロファンを舐めていました。柏餅の葉っぱが食べ残されると、それをまた洗って使っていましたね」

 そんな幼少期を送る傍らで、祖母からは「貧乏人は三味線に限る。畳半畳もあればできるから」と教えられ、長唄を覚えるために三味線の稽古に通った。

弟と、七五三でのスナップ。すでに近所でも有名なガキ大将だった

「子どもがいたら面倒見ないといけないので、両親は働けない。だからお稽古に預けられたんです。長唄以外には、お花やお茶も。でもそれをサボって映画館に行っていましたね。ガキ大将だったから。学校でのあだ名は“女ターザン”でした」

 中学に入ると、店は商売替えをし、傘とショールを売り始めた。これが当たった。昭和25年に勃発した朝鮮戦争の特需景気も手伝い、飛ぶように売れたという。

 仲見世を手伝いながら学生生活を送った冨永さん。高校を卒業した5年後、同じ浅草にある老舗の和菓子屋『菊水堂』の若旦那と結婚する。出会いのきっかけは、戦争で焼けた浅草寺本堂の再建を記念した「金龍の舞」と呼ばれる行事だった。冨永さんは、芸者衆が乗る山車で三味線を弾き、若旦那は男衆の1人として舞を踊っていた。

「周りはみんな芸者でしょ。その中に、私のような堅気の若い娘が1人で三味線を弾いていたんです。そしたら観光連盟のおじさんたちの間で、“浅草を盛り立てるのに役立つだろうから、外へ出しちゃもったいない”“誰かとくっつけよう”と、私の知らないうちに話がどんどん進んでいたんです」

 そうして冨永さんは昭和35年2月、菊水堂へ嫁いだ。

「あんこの問屋さんから、菊水堂は金がない家だっていうのは聞いていました。それでも母が背中を押してくれたんです」

 結婚から9か月後には長女、そして東京オリンピックが開催された昭和39年には長男をそれぞれ出産した。

23歳で結婚、子宝にも恵まれたが数年で暗雲が立ち込めるように

 若旦那も最初の数年はまじめに働いていたというが、次第に結婚生活に陰りが見え始める。そのエピソードについて、

「浅草はそういうところなのよ」

 と、冨永さんはあっけらかんと語るが、にわかには信じ難い話が飛び出した。

蒸発した夫の愛人を世話する理由

 それは冨永さんが結婚してから数年後のことだ。若旦那が家に帰宅しなくなった。

「まあ浅草ではよくあることよ。夜遊びに行って、“泊まってくる”なんて言うもんだから、おかしいなと思っていました。でも段々と愛人の存在に気づきました」

 相手は、若旦那が花柳界で知り合った芸者だった。当時の心境を、冨永さんは皮肉交じりに語った。

「最初は腹が立ちました。金も持っていないくせにこのやろうと。でも、もともとお金がない家に嫁ぎ、必死で働いていたから、いないほうがかえって仕事の邪魔にならなかった。それに私は花柳界の遊びは心得ていたから、旦那の浮気にはそれほどびっくりはしなかったわ。抵抗がないっていうか」

愛人をつくり家に帰らなくなった夫に代わって、店を切り盛りした冨永さん

 愛人にうつつを抜かした若旦那は、彼女のために神田にパスタ専門店までつくった。しかし経営は不調に終わり、おまけに若旦那も蒸発。借金だけが残った。そして愛人は冨永さんに泣きついてきた。

「旦那の弟と一緒に彼女のところへ話をしに行きました。わんわん泣いているから有り金を全部置いてきたんです」

 若旦那については警察に捜索願を出したところ、「正月か祭りの季節になると帰ってくるよ」とのんきなことを言われ、本当にそのとおりになったという。

 妻が夫の愛人の世話をする──。

 いくら浅草では「抵抗がない」と言われても、やはり狐につままれたような感覚だ。令和の現代社会では理解されにくい「浮世話」だろう。

 冨永さんの長男で菊水堂の代表取締役専務、冨永龍司さん(57)は、幼少のころ、両親と暮らした記憶がほとんどなかった。

「父親は花柳界で遊んで帰ってこないし、タクシーで熱海まで芸者遊びをしに行っていたと聞きました。店(菊水堂)も借金だらけだったから、母親は働かざるをえなかった。だから幼稚園ぐらいまで私は、住み込みで働いていた女性従業員に、それ以降は祖父母に育てられていました」

 さらにはその祖父にも愛人がいて、働くのはもっぱら祖母。妻が家計を支え、旦那が外で遊びを覚えるという関係は、冨永家では2世代にわたって続いていたのだ。

 龍司さんが語る。

「昔の浅草は、男の人はみんな、彼女がいたそうですね。それで母たちはとやかく言っていないと思います。私の子どもも、店の従業員に面倒見てもらっています。さすがに私には妻以外の人はいませんが」

 子どものころ、龍司さんは父親の愛人に連れられて、遊びに出かけたこともあったという。

「父親から“今日はこの人と遊びなさい”と言われ、豊島園のプールに2人で行ったことを覚えています。僕ら商人の子どもは、土日も夏休みも両親は店の仕事があるので、どこかへ連れて行ってもらえません。だからプールは、子ども心に純粋に楽しかったです」

 特殊な浅草の家庭環境で育った龍司さんの目に、冨永さんは母というよりは、女将に映るそうだ。父親と過ごした時間は少ないものの、一緒にプラモデルを作ってくれたりと、やさしい一面もあった。そんな父は心筋梗塞で、46歳という若さで亡くなった。当時を冨永さんがこう回想する。

「旦那が亡くなってもみんな、涙なんか流しやしないよ。逆に“照ちゃんよかったね”って言う人がいっぱいいたのよ。散々金を使って遊んだんだからって」

 夫の死後も、冨永さんは愛人の援助をしていたというが、それが後々、思わぬ展開につながる。

2階建てバス運行のため大臣に直談判!

 ダイエー創業者の中内功(※「功」は正しくは工に刀)氏、ホテルニューオータニ社長の大谷米一氏、イトーヨーカ堂設立者の伊藤雅俊氏……。

イトーヨーカ堂の伊藤雅俊氏と。名だたる財界人から信頼を集めた

 冨永さんが懇意にしていた財界の重鎮たちだ。いずれも浅草おかみさん会の町おこしを陰で支えてくれた。その出発点となるおかみさん会結成の背景には、東京オリンピック後に押し寄せた浅草の衰退期があった。 

 戦後の復興を経て、浅草寺本堂が再建されたのは昭和33年のこと。その2年後にはパナソニックの創業者、松下幸之助氏の寄付で雷門が再建され、東京オリンピックの開催に向けて浅草の景気はうなぎ上りだった。特に映画館や劇場が軒を連ねる盛り場「浅草公園六区」(通称六区)を訪れる客は、映画がはねた夜に、仲見世をにぎわせていた。「100円の札束を足で踏んで一斗缶に入れる店もあった」(冨永さん)ほどだ。

 演歌歌手の島倉千代子が昭和33年にリリースしたヒット曲『東京だョおっ母さん』は、田舎から出てきた娘が母の手を引いて東京見物するさまを歌っているが、その歌詞に次のような一節がある。

《お参りしましょよ観音様です おっ母さん ここがここが浅草よ お祭りみたいに にぎやかね》

 当時の庶民にとって、浅草は憧れの地だったのだ。

 ところが、東京オリンピックを契機に普及したカラーテレビの影響で、浅草の映画館から人々の足が遠のき、封切り映画の代わりに、ポルノが上映されるようになった。

 浅草観光連盟の冨士滋美会長(73)が解説する。

「六区の人通りがパタッと止まり、その様子を写真とともに“斜陽浅草”と報じられました。浅草の人たちは怒りましたね。盛り場としてにぎわってきた六区がさびれていったのは、浅草だけでなく、日本にとっても大事件だったのです」

 生まれ育った街の衰退に危機感を抱いた冨永さんはある時、地元の女性たち数人で井戸端会議を開いた。

「このままでは浅草がダメになってしまう。子どもたちに街を引き継ぐためにも組織を作ろう」

 こうして昭和43年、浅草おかみさん会が結成された。初代会長には、すき焼きで有名な『浅草今半』の女将・高岡恵美子さんが就任。会として最初に取り組んだのは、浅草観光案内図の看板作りだった。

「雷門や観音様、国際劇場などの観光スポットを書き込んだ案内図を作ることになったんです。資金は露店販売をやって捻出しました。そしたらその取り組みがマスコミに取り上げられ、女性が立ち上がれば注目してくれることに初めて気づきました」

 菊水堂が商売替えをしたのもこのころだ。六区の低迷で和菓子を買い求める客も減ったため、昭和47年、蕎麦店『十和田』を開業した。冨永さんの弟が、すでに浅草で蕎麦店を始め、繁盛していたことも大きい。

 続く町おこしでは、多少の無理は持ち前の江戸っ子気質で押し通した。

 2階建てのロンドンバスを導入したときのことだ。バスの高さは4・3メートルで、日本の法律で定められた高さの制限3・8メートルを50センチオーバーしていた。なんとかできないかと冨永さんは、台東区の旦那衆とともに運輸大臣室へ乗り込み、直談判したのだ。

「男性たちがお願いしてもダメだけど、私たち女性が“ねえ、先生、お願い!”ってやると口説けたんです。女の強みですね」

 この結果、2階建てバスの導入が認められ、浅草─上野間で昭和56年、運行が始まった。

昭和53年10月、冨永さんらの熱意が実り、2階建てバスが本格運行をスタート。浅草寺前を走らせた

 さらにおかみさん会は、浅草サンバカーニバルやジャズフェスティバルなども開催し、浅草六区の再開発構想が持ち上がったときには、つくばエクスプレスの誘致に奔走した。

今年で40周年を迎えたサンバカーニバルは、浅草の夏の風物詩に

 なかでも六区再開発の目玉事業、『浅草ROX』の建設には、ニューオータニの大谷米一氏が出資をしている。もともと、父親で創業者の大谷米太郎氏が浅草観光連盟の初代会長をしていた関係もあったが、社長の大谷氏が十和田に来たのがその始まりだ。

 冨永さんが説明する。

「旦那が死んだ後も愛人を援助していたことが花柳界で少し評判になっていました。それを聞いた大谷さんが私に興味を持ってくれたらしく、お店に来たのです」

 これが契機となってニューオータニに十和田の模擬店を出し、その後のROX誕生につながった。 

 ダイエー中内氏との出会いは、ジャズフェスティバルに偶然、客としてやってきたのがきっかけという。

ダイエー創業者・中内功さんとは、ともに好奇心旺盛で気が合った

「そしたら中内さんとすっかり仲よくなっちゃって。そのご縁で、仲見世に一緒に揚げ饅頭屋をつくりました。お互いの名字から1字ずつ取って『中富商店』。浅草六区には『欽ちゃん劇団』もつくってもらいました」

「芸人は浅草の宝」と萩本欽一さん率いる劇団の団員たちにも食券を配布

 浅草には当時、タレント・萩本欽一氏が主宰する「欽ちゃん劇団」のためにつくられた劇場があった。そこへ出演していたのが、地元出身の芸人「東MAX」こと東貴博さん(51)である。

30年来の付き合いになる東貴博さんら、多くの若手芸人を支えてきた

「女将さんとは、もう30年来の付き合いですね。すごく面倒見のいい方で、若い芸人や役者を応援してくれるんです。僕がテレビに出る前の駆け出しの、20歳過ぎのころ、特別食券を配ってくれ、何度か天ぷら蕎麦を食べさせてもらったことがあります」

 楽屋には冨永さんの孫も一緒に訪ねてきて「頑張ってる?」とエールを送ってくれたという。

「でも楽屋って普通はそんなに人が入ってこないじゃないですか? 関係者だから、もちろんいいといえばいいんですが、不思議な感覚でした。舞台が始まると、公演の最中に“頑張れ!”と声をかけてくれるんです。それがありがたくもあり、また邪魔でもありましたね(笑)」

 そう江戸っ子らしい毒舌を交えて話す東さん。2階建てのロンドンバスが浅草を走っていたときには「意味がわからなくてテンションが上がった」と言い、何度も乗った。

「僕が小学生のときでした。学校でバスの名前が募集され、みんなで一緒に考えたんです。でも結局、『さくら』とかオーソドックスな名前に落ち着いて、つまんねえなあと思った記憶があります。サンバカーニバルは雷門通りで裸同然のお姉さんたちが踊っていて、当時、中学生だった僕はめちゃくちゃ興奮しましたよ。

 大人になってから、女将さんが仕掛け人だと知りましたが、まあパワーと馬力がすごい方です。浅草の催し物の陰には女将さんがいて、もめ事の陰にも女将さんがいる。そんなすごい女将さんがいるからこそ、浅草には話題が尽きないんです」

「おかみさん会」が牽引する地域おこし

 浅草おかみさん会は平成5年、協同組合へと組織化され、活動の幅は全国へ広がった。

 その記念すべきイベント「第1回全国おかみさん交流サミット」が同年、新宿の高級ホテルで開かれ、商店街の活性化に取り組みたい参加者が集まった。これを機に、全国各地でおかみさん会が次々と結成された。

全国のおかみさんが集まる交流サミットを開催。政財界からも人が駆けつけた

『高崎おかみさん会』は平成13年に結成されて今年で20周年を迎える。会長の深沢るみさん(70)は、その経緯をこう説明した。

「結成当時はバブルが崩壊した直後でした。ショッピングセンターが郊外にできたため、街の商店街が活気を失ったんです。そんなときに、街づくりの講演会を冨永さんにお願いしたのがきっかけです。冨永さんは裏表がなく、男も女も同じように付き合い、言うときは言う。そして義理人情に厚い。そういう昔気質の気風は忘れられがちな時代だから、大切にしていきたいと思います」

 高崎おかみさん会は、商工会議所などのバックアップもあり、群馬県の食材を使った駅弁やお菓子などを次々と開発した。毎月第4日曜日に開催される「人情市」には、パンの店を出店し、活動を続けている。

「まだまだ目に見える成果は出ていませんが、とにかく私たちでできることをやろうと思っています」

『掛川おかみさん会』も、疲弊していく地方都市の現実に頭を悩ませ、冨永さんの講演を機に平成8年に結成された。会長の山本和子さん(61)は、そのときに経験した冨永さんらしいエピソードを紹介してくれた。

「せっかく講演会をやってもらうならと思い、掛川市の実情を書いた手紙を送ったんです。当日はそれに則したお話が聞きたかったので。講演は無事に終わったのですが、冨永さんは手紙を読むのを忘れていたみたいで……」

 冨永さんから後日、電話がかかってきて「わるかったね! また次回行ってあげるから」と伝えられ、講演から1か月もたたないうちに再び掛川市に駆けつけてきたという。まさしく義理だ。

「そのときは天ぷら屋の座敷でやったんですけど、その場で“おかみさん会をつくろう”と声が上がり、とりあえず結成することになりました」

 掛川おかみさん会は「おかみさん市」のほか、「チョークアートフェスティバル」や「赤ちゃんオリンピック」などのユニークなイベントを始めた。しかし、女性たちだけの活動に当初は、地元の視線は冷ややかだった。

「古風な人が多かったから、“女が出てきて何だ!”という雰囲気でした。おかみさん市をやるときにテント設営の協力をお願いしたら、あからさまに拒否。イベントで使った道具を会場に置き忘れたときなんかは、確かに私たちのミスではありますが、“忘れ物だよ”とひと言知らせてくれればいいのに、警察に通報されましたね」

 掛川市にまだ、女性だけの団体がなかったころの話だ。それでも市役所が理解を示してくれたことで、徐々に活動がしやすくなったと、山本さんは振り返る。

「結成から25年がたち、そろそろ世代交代を考える時期に差しかかっている。子連れの若い夫婦は、郊外に住んでいることが多いので、そうした若い人たちがもっと街づくりに関わりやすくなる環境を整えていきたいです」

飛び交う怪文書「悪口は有名になった証」

 浅草おかみさん会は、日本初の、女性メンバーだけでつくられた協同組合だ。いまなお「わきまえない女」に対する風当たりは強いが、浅草という男社会の中で、冨永さんは常に逆風にさらされてきた。

《浅草寺ライトアップで金儲け》

《浅草発展の邪魔者はお照さんと聞く》

 冨永さんの活動を誹謗中傷する怪文書が、商店街にばらまかれたこともある。

 新年早々、《今祝死年》という縁起の悪い文字が並んだ年賀状も、「陰陽師」なる送り主から届いた。

「そのときは悔しかったよ。でも今思い返せば、そういうふうに悪口を言われたら、有名になった証だと思う。嫉妬の裏返しですよ。悔しかったらあんたらも怪文書もらってみろってんだ!」

 そう語気を強める冨永さんはポジティブだ。ただ、世の女性たちは、そんなに強く振る舞える人ばかりではないだろう。森喜朗元首相の女性蔑視発言は記憶に新しいが、男社会に息苦しさを覚える女性は少なくない。冨永さんが力説する。

「私だって最初はそんなに強くなかった。布団かぶって泣いたこともある。こん畜生って思っているうちに、憎しみも薄らいでくるのよ。“いい子、いい子は、どうでもいい子”って言ってね、人に合わせすぎてもダメ! 怒鳴られて畜生と思ったら100倍にして返せばいい。敵取ったらいいじゃない」

 強気な発言をする一方、「人にはそれぞれ事情がある」といった配慮もにじませる。

「ただ人間、いろいろな環境で育っているよね。いじめられる子もいるから、その人によって生き方は異なるんです。私みたいにさあ、戦争中と旦那の苦労は少し知ったけどさ、そんなのみんな肥やしにしてきたから」

手打ち蕎麦を客席へ運ぶ冨永さん。女将として、いまなお現役だ

 そんな冨永さんの目に、現代社会における男女関係や夫婦の在り方はどう映っているのだろうか。

「世の中、変わったなと思いますね。そこらの夫婦を見てみなさいよ。男が子ども抱いてるじゃん。悪いとは思わないよ。でも本音では、男がだらしなくなったのかな、と。まあ稼ぎがないからしょうがないよね。昔は女が稼げなかったから」

 その言葉の端々には、夫に浮気され、それでも必死に働いてきた女将としての矜持が表れていた。浅草の街は、女性が守り抜いてきたのだ、と。

「あのババア、やっと死にやがった」

 戦前から浅草の街を見続けて84年──。

 時代の変化とともに、街の様子もまた移り変わっていく。今や浅草を訪れる観光客の多くは若者たちだ。冨永さんが語る。

「今、浅草でいちばんの上客は、修学旅行で訪れる学生ですよ。500円とか1000円で人形焼きなんかを買っていく。すっかり若者の街になりました。そんな彼らから、“雷門は知っているけど、観音様(浅草寺のご本尊)のことは知らない”と言われて驚きましたね。インスタ映えの時代なんです。ショックでしたけど、私たちの世代も、そういう若者感覚をやはり認識しないとダメなんです」

 仲見世は浅草で「観光地」という位置づけだが、女将にとっての思い入れはやはり、六区の「盛り場」だ。かつての苦い経験も思い出される。

 それは明治時代に開場した「常盤座」と呼ばれる六区初の劇場でのことだ。昭和40年には映画館に転向し、やがて周囲の衰退とともに休館に追い込まれた。

 浅草の行く末を憂えていた冨永さんは、常盤座へジャズを呼ぶという斬新なアイデアを思いついた。その少し前、米ニューオーリンズにジャズの見学に行ったときの体験から着想を得た。再び渡米し、出演契約を結んでジャズフェスティバルを開催。これが当たったため、常盤座を借りる契約を結び、お笑いのイベントも始めた。

 ところが、かつてのにぎわいを取り戻したと思ったのもつかの間、昭和天皇の病気に伴い、イベントを自粛せざるをえなくなった。

「赤字が2000万円ほど出て、1週間ほど寝られなかった。血尿も出た。仲間の女将は円形脱毛症になったの。だからといって天皇陛下を恨むわけにもいかないしね。でもね、そういう苦しい思いをしないと一人前にはなれない。街のために血のにじむような努力ができますかって」

 その後はロック歌手の内田裕也氏が年越しコンサートを開催したり、俳優・石坂浩二氏が主宰する『劇団急旋回』が公演を行ったりしたが、再開発のため平成3年、浅草初の劇場誕生から100年の歴史に幕を閉じた。

盛り場・浅草に大衆芸能の劇場をつくることが、冨永さんの夢だ

 当時の思いを今も引きずる冨永さんには、浅草に大衆芸能の劇場をつくりたいという夢がある。

「夜はやっぱり、盛り場じゃなきゃいけない。浅草が絶対に負けないのは芸能だけ。それを復活させるのが私の最後の夢なの。浅草はねえ、常に好奇心をそそるイベントをやらなきゃダメなんですよ」

 とても80歳を越えているとは思えないほどの迫力とエネルギーだ。そんな女将の背中を、長男の龍司さんはこう見つめてきた。

「母は、ただ浅草を何とかしなきゃいけないという思いでいろんなことをやっている。それが生きがいで、もはや趣味みたいなもんです。おかげで84歳にもかかわらずあれだけ元気だから、私が介護に悩む必要もないし、自分の仕事に専念できます。ありがたいですね」

息子・龍司さんは「十和田」のほか揚げ饅頭店の経営にも携わり、親子でのれんを守っている

 一方の冨永さんは世代交代も視野に入れているが、今でも日々店頭に立つ姿は、まだまだ現役を感じさせる。

「年をとっても人生には新しい御旗(みはた)を立てなきゃならない。そこに向かって進めば、ぶれることはありません。もし旗印がなければ、反省し、考え直してまた一からやればいいんです。この生きにくい時代には、心の訓練が大切よ。やっぱり心の持ち方なんだよ。それでも解決しなかったら私に電話しろって。朝9時ぐらいだったらつかまるよ。あんまり早くはダメよ!

 そう語る女将の扇子が、勢いよくテーブルをパチパチと打ち鳴らした。

「私もそのうちに間違いなく言われるよ。“あのババア、やっと死にやがった”って。そう言われるのを楽しみにしてるよ」

 これぞ粋な浅草の心意気である。

(取材・文/水谷竹秀)

みずたに・たけひで 日本とアジアを拠点に活動するノンフィクションライター。三重県生まれ。カメラマン、新聞記者を経てフリー。開高健ノンフィクション賞を受賞した『日本を捨てた男たち』(集英社)ほか、著書多数。