松山地方裁判所

 家族間に加害者と被害者がいる事件はこれまで何度か傍聴してきたが、その形はさまざまである。妻が夫を、夫が妻を。親が子を、子が親を。

 時に、被害者遺族がいない事件も存在する。全員死亡の場合と、遺族が加害者を擁護する場合だ。今回の裁判は、まさに遺族である家族が被害者の死を「悲しくない」とまで言った事件である。

 令和3年1月25日、愛媛県松山市内の住宅から110番通報が入った。

「夫がけがをしているようだ、息子がけがをさせたと言っている」という内容で、救急隊が駆け付けたときはすでに心肺停止で、のちに死亡が確認された。

 死亡していたのは、この家に暮らす金子秀敏さん(当時65歳)。警察は当時自宅にいた秀敏さんの二男(当時36歳)に事情を聴いたところ、口論になって暴力をふるったことを認めたため、緊急逮捕となった。

父親の一言に息子が激高

 事件から9か月が過ぎた10月19日、すでに保釈されていた二男の裁判が松山地裁で始まった。

「緊張してる?」

 弁護士にそう聞かれ、大きく息を吐きだす彼は、金子真也被告。短く髪を刈り、スーツを着ていた。裁判長にお辞儀をし、証言台の椅子を引く所作などを見ても、非常にきちんとしているという印象だった。傍聴席には、同居している母親と別で暮らしている兄の姿。

 罪状認否では、起訴内容をすべて認めた。この裁判では、事実関係に争いはなく、被告の量刑を決めることが目的である旨が述べられた。

 事件は些細な父親の言葉が発端だった。

 仕事が休みだったその日、昼頃から自室で飲酒していた真也被告を見咎め、「昼間から酒ばっかり飲みやがって!」と秀敏さんが叱ったという。それに激高した被告が秀敏さんを殴りつけ死亡させてしまったのだ。

 これだけ聞けば、なんと短絡的でキレやすい息子なのだと誰もが思うだろう。しかも、死なせるまで殴るとは……と。ただ、真也被告がここまで激高したのには、当時の秀敏さんの生活スタイルと、金子家に長きにわたって重くのしかかっていた問題が関係していたのだ。

* * *

 秀敏さんと妻が結婚したのは40年ほど前。秀敏さんは農協に勤務し、55歳で早期退職するまでトラブルもなく勤めあげた。仕事柄、秀敏さんは対人関係もうまくこなしていたという。

 一方で、家庭はというと寒々しい限りだった。

 事件当時はフルタイムで介護職に就いていた妻だったが、若いころはパートでしか働くことを許されなかった。しかも、フルタイムで仕事をし始めたのは夫の都合だったという。

「55歳で早期退職して、家計が苦しくなることが分かっていたからか、『お前、働いてもええぞ』と。」

 秀敏さんはパチンコ好きで、結婚当時から毎日パチンコに通い、帰宅は21時〜22時ころ。子どもたちが生まれてからも変わらなかった。運動会もパチンコ屋で過ごし、昼の弁当だけ一緒に食べて競技を見ることはない。

 家族での外食は40年間で10回。うち、夜の外食は「たまたま機嫌がよかった」2回だけだった。パチンコに加え酒もたばこも好きで、家計を圧迫した。食事も、秀敏さんだけ別メニューで、家族で夕食を囲むこともなかった。家族への身体的なDVや暴言などはなかったが、家事も育児も一切手伝わなかったという。

父親と関わりを持とうとした息子

 真也被告と兄は、父親との会話もほとんどないまま成長していく。褒めてほしくて話しかけても「うるさい」と遮られた。そのうち、兄は父親と関わるのをやめたが、被告はどんなにうっとうしがられても、父親に話しかけていた。

 被告は愛媛県内の大学を卒業、その後は今治市や山口県などで仕事をしていたが、長続きはしなかった。理由は、上司との意思の疎通がうまくできなかったこと。夜も眠れなくなり、当時ひとり暮らしをしていた部屋から泣いて母に電話をかけている。

 母はそんな息子に驚き、仕事を辞めて実家に戻るよう言う。被告が24歳ころのことだった。

 実家に戻ってからも、2回転職。しかし、被告は一度仕事を辞めると、次の職に就くまで年単位での休養が必要だったという。「人間不信で働く気になれなかった」と言うが、実家での安心感もあったのだろう。母も、働かなくてもいいと言った。

 子どものころから、自分よりも周囲を優先させる性格だった。そのために、つらいことがあっても言えずにきた被告は、早期退職でずっと家にいる父、秀敏さんとの関係もどんどん悪化していくことになる。

「父が不機嫌なのは、体調が悪かったからだと思います」

 真也被告に限らず、兄も、母もそう言っていた。秀敏さんは体調を崩していて、家族がそばにいるとあからさまに不機嫌オーラを出すようになったという。しかし早期退職してしばらくは、真也被告と秀敏さんの関係は改善する。酒を酌み交わし、テレビを見て一緒に笑うこともあった。夢にまで見た、父との親子らしい時間だった。

 それが、事件が起きる5年前からは再び悪化の一途をたどる。会話もできなくなり、家の中ですれ違うと舌打ちをされた。「うっとうしい」と言われ、目が合うと首を傾げられた。いつからか、被告は家の中で秀敏さんと会わないようにし始める。

 事件の日は、被告は休みで昼間から酒を飲んでいた。以前の仕事が昼夜逆転だったため、その癖が抜けず昼から飲むことがあったのだという。

 それを、秀敏さんが咎めた。ただ、秀敏さんも早期退職して以来、毎日朝から飲酒していた。さらに、その日の父の言葉はいつになくキツく、被告を見る目はまるで汚いものを見るかのようだった。

「父も飲酒しているのにという思いがあった。言ってることがおかしいことを痛めつけてでも謝らせたかった」

 そのときの秀敏さんの目を見て、被告が縋っていた父と子の関係がなくなってしまったと感じたのだという。

 被告は、秀敏さんの胸ぐらをつかむと顔面を殴った。とにかく、何もかもを謝ってほしかった。この日のことだけではない、生まれてから今日までのすべてを。

「もう、ええ」

 どれほど殴ったときだろうか、ふと秀敏さんが、そう言った。

「自分が期待した謝罪ではなかったからモヤモヤした」が、被告はその言葉で暴行をやめると、自室へ戻り昼寝をした。父の様子は重篤には思えなかった。自分の服についた大量の返り血も気づかなかった。だから、救急車も呼ばず様子も見に行かなかったのだという。

 しかし秀敏さんはすでにこのとき、くも膜下出血を起こしていた。

 仕事から帰った母に秀敏さんの様子を聞かされた真也被告は「頭が真っ白になった」という。

 被告は逮捕されたが、母が望んで保釈となった。そして、今日まで事件現場となった実家で母と暮らしているのだ。

 検察官が問う。

「あなたが今いる場所はどんな場所ですか」

「自宅でもあり、犯罪現場です」

自活を阻んだ母親

 真也被告は今日まで、日課として父の仏壇に手を合わせ、お膳を供え、お水を取り替えているという。それは一生続けていくとも話した。保釈となれば実家に戻るしかないとはいえ、ふと、違和感を覚えた。

 母も兄も、秀敏さんが死んだことは残念だが、悲しい気持ちはないし涙も出ない、それよりも真也被告が心配だと話した。極端な言い方をすれば、秀敏さんの死を悼む気持ちがどれほどなのだろうかと思うのだ。

 違和感はほかにもあった。真也被告はおとなしく、暴力沙汰など一度も起こさなかったというが、検察がさらりと示した被告の部屋のドアの写真は、恐ろしいほどにボコボコだった。

 以前の職場でのトラブルの後、被告が殴って開けた穴だ。ドアは修理不可能なほどの穴だらけとなったが、なぜか取り換えられることもなくそのままだった。

「お金がもったいなかったから」

 4~5万円かかると言われ、取り換えないことを選んだのは母だった。実は真也被告には800万円の貯蓄があったにもかかわらず、母は息子に負担させなかったのだ。それどころか、食費以外は携帯電話代すら被告が自分で支払うことはなかった。

 秀敏さんはいつまでたっても自活しない被告に苛立っていたという。しかし真也被告はそれを面と向かって言われたことはなかった。母が衝突を恐れて話をさせなかったのだ。さらに言えば、被告の自活を阻んだのも、この母だった。

 秀敏さんが自活するよう言おうとすると、「また寝られんなったら困るから」と、30を過ぎた息子を家に置きたがった。その一方で、「(眠れないというのは)うつ状態にあったとは思わなかったか、病院には行かなかったのか」と聞かれると、母親は「うつではないし、時間が解決すると思った」と話した。

 検察官は秀敏さんと真也被告の関係がよかった時期と、悪くなった時期に注目。真也被告の職歴と関係していたのだ。被告が仕事をしている期間は関係がよく、無職になったころからその仲は悪化し始めていた。

 秀敏さんが酒を飲んでいることを咎めたのも、その日、被告が休みだとは知らなかった可能性を検察は指摘。運転する仕事にもかかわらず酒を飲んで大丈夫なのか、そういう意味ではなかったのか、という質問に被告は、

「そんな心配をされたことは今まで一度もない」

 と、可能性すら認めなかった。

 農協時代から十二指腸潰瘍、狭心症、そして膀胱がんと体調不良が続いていた秀敏さん。「日常生活は大丈夫だった」と家族の誰もが言ったが、階段の上り下りも大変で、心臓は手術もしていた。

「そんな状態の父親を、殴ったんですか」

 の問いには、「頭に血が上っていて……」を繰り返した。しかし一方で、「傷つける気はなかったので(硬い)額を集中的に狙った」とか、「職場に迷惑がかかるから先に電話した」(被告は事件後、職場に電話し、休むことを連絡している)と話す真也被告。

「……ここだけ冷静なんですね」

 検察官の言葉に返す言葉はなかった。基本的に大きな声ではっきりと答えていた被告だが、都合の悪い質問には答えを逸らす傾向があり、ときには咳ばらいを繰り返して慎重に言葉を選びなおす場面も見られた。

 検察は、母と兄の気持ちを尊重したうえで、また、たとえ秀敏さんの言動に非があったとしても、それで死に至らしめるほどの暴力が正当化されてはならないとして懲役7年を求刑。弁護側は、執行猶予付き判決を求めた。

 過度なノルマやプレッシャーに、押しつぶされそうになりながらも、退職金上乗せというメリットを得るまで、仕事を辞めなかった秀敏さん。自身に多額の生命保険もかけていたという。時代が違うと言えばそれまでだが、そんな父の目に被告はどう見えていたのだろうか。そして、家族が愛想をつかす中、最後まで父を父と思おうとしていた被告。

 涙を流すほどには悲しくないと家族に言われた秀敏さんの死。たった一度、真也被告が声を詰まらせた場面があった。

 リビングにはいつも父がいた。存在を示し続け、我が物顔で金子家を牛耳ってきた傲慢な父。保釈後、家に戻った被告を待っていたのは、その父のいないリビングだった。

「父の好きだった阪神の試合をもう一緒に……」

 あとは言葉にならなかった。判決は25日に言い渡される。

事件備忘録@中の人
昭和から平成にかけて起きた事件を「備忘録」として独自に取材。裁判資料や当時の報道などから、事件が起きた経緯やそこに見える人間関係、その人物が過ごしてきた人生に迫る。現在進行形の事件の裁判傍聴も。
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