2024年より20年ぶりに新紙幣が発行されます。今回の一万円札は『青天を衝け』で話題の実業家・渋沢栄一。ところで歴史上の人物って、いったいどれくらい稼いでいたの? 人気歴史作家の堀江宏樹さんが、ズバリ解説。

渋沢栄一(左)と福沢諭吉

紙幣の顔にもなった3人

 本年度の大河ドラマ『青天を衝け』で有名になった実業家・渋沢栄一。新一万円札の顔でもある。彼の晩年にあたる昭和2年の所得は35万6000円。所得とは総収入から必要経費を差し引いた数字だが、それでも現在でいう2億2000万円ほどになる。

 しかし、渋沢以上に稼いでいたのが、現一万円札の顔である福沢諭吉明治初頭に刊行された『学問のすゝめ』は現在の価格でいうと1万5000円。爆発的なヒットになり、長年にわたって売れて340万冊以上も発行された。

 単純計算で、現在の価値で17億円以上の年収が約30年にわたって続いたことになる。やはりお札になるような人は、大金に縁がある人ばかりなのかもしれない。

 明治時代、かなりの高収入を誇ったのが文豪たちである。しかし書籍が売れて高収入になる福沢はむしろ例外で、ベストセラーを1冊出した時点で新聞社からスカウトされ、その専属作家になることが豊かに暮らすための近道だった。

『吾輩は猫である』がヒットし、東京朝日新聞にスカウトされて入社した夏目漱石に提示された年俸は、現在の貨幣価値で3600万円(月収200万円、ボーナス年2回・各600万円)。新聞社の社長よりも高額だったし、同時期に朝日新聞社に在籍していた石川啄木(校正係)の10倍だった。同僚には二葉亭四迷という作家もいたが、彼と比べても2倍の高収入だ。

 それまで教師だった漱石にとって、小説執筆は“気晴らし”だった。趣味が、教師時代のサラリーの何倍もの高収入につながる仕事になったことは表面的にはオイシイが、「名作を書かねば」というプレッシャーが漱石を追い詰め、胃炎が悪化。ついにはそれが死病となってしまった。

新選組と西郷隆盛

 渋沢栄一が「友人だった」と発言した、新選組の土方歳三もかなり高収入だったことがわかっている。

 新選組の羽振りがいちばんよかったのは、結成翌年の元治元年(1864年)のこと。このころ、局長の近藤勇が600両=6000万円、副長の土方歳三が480両=約4800万円もの年収を得ていた。これは新選組の元・隊士である永倉新八の証言で、当時は永倉や沖田総司のような組頭(=中間管理職)で360両。役職ナシの平隊士にも120両が支払われていたという。規律を破れば即処刑のハードな職場環境で、命がけの任務の連続だったが、平隊士でも月収100万円だったことには驚いてしまう(幕末の1両=現在の10万円)。

 しかしその数年後には、スポンサー収入の低迷で、組頭が3分の1、平隊士が5分の1の額に減給されてしまっている。近藤や土方のデータはないが、3分の1程度になっていたのではないかと想像できる。

 土方と同じく想像以上に稼いでいたのが、西郷隆盛だ。清貧のイメージがあるが、実は贅沢(ぜいたく)好きの気まぐれ屋で、まるで大藩の御家老のように豪勢な衣服を着ていたという(勝海舟の証言)。

 西郷が明治新政府内で陸軍大将だったころにあたる明治5年(1872年)の年収は、なんと6000円(1億2000万円)! それでも政府内での自分の扱いに腹を立てた西郷は、明治天皇の許しも得ぬまま、プイッと故郷の薩摩(鹿児島県)に戻ってしまっている。

 幕末の有名人たちの羽振りは、バブル紳士的な金回りだったようだ。

三大天下人でトップは?

 12世紀末、一種の独立国ともいえる鎌倉幕府を開き、征夷大将軍として君臨した源頼朝。その後700年にも及ぶ「武士の世」を打ち立てたカリスマ・頼朝の年収はいかほどだったのだろうか?

 確たる資料はないのだが、多くて1億5000万円程度と考えられる。朝廷相手に大きな顔をしてみせた頼朝だが、その年収のうち1億3千万円ほどは彼に与えられた朝廷の官位「正二位(しょうにい)」に由来する。当時は朝廷の官位を持っているだけで、高収入を得ることができた。将軍としての収入は、彼の所有する荘園などの儲(もう)けが中心で、これは1000万~2000万円程度にとどまると見られる。

 戦国時代の3人の天下人たちの収入にも迫ろう。換算が実に複雑なので、今回は大名が支配する直轄領を中心に考えてみる。直轄領の収入=農民からの年貢米だが、当時のルールでは大名個人の懐に入るのは、その6分の1だった。

 まずは織田信長。その直轄領には諸説がある。信長研究者の谷口克広氏によると(近親の分も含めて)150万石ほど。実質100万石程度だったという説もあり、17万~24万石くらいが彼の取り分。1万石=15億円で計算すると、年貢米だけで105億~306億円も信長は稼いでいたことになる。その後、家臣に分配するとはいえ、額が大きい。しかも、信長が自身の直轄領にした土地には金山・銀山が存在した。莫大な金塊、財宝が信長の城・安土城の地下に眠っていたという話にも真実味がある。

 一方、豊臣秀吉の直轄領は220万石とされ、年貢米のうち秀吉の取り分は37万石=555億円。信長と同じく金山・銀山を有する土地を直轄領に選んだこともわかる。武士なら領地の広さと年貢米の量を最重要視すると思いきや、信長・秀吉は“コメより黄金”だった。戦の勝敗には資金力が関わるから、戦が強い人は経済にも強い。

 そして続く徳川家康だが、彼は直轄領も400万石とほかの2人よりもかなり広い。どんな重臣にも領地を気前よく分け与えなかったという逸話は真実のようだ。直轄領の年貢米からの家康の取り分は67万石=1005億円。さらに有名金山・銀山もすべて手の内に入れているという強欲ぶり。さすがは日本史最大の資産家といわれるだけある。

 なお、数々の時代劇や、漫画『バガボンド』などの作品でも知られる剣豪にして芸術家でもあった宮本武蔵は晩年、熊本藩のお抱えになり、藩主・細川忠利の剣術指南役を任せられた。その際に与えられた報酬が330石=4950万円。芸は身を助けるとはよく言ったものだ。

リッチといえば皇族

 明治時代から第2次世界大戦前の日本で、もっともリッチだったのは皇室とその関係者だろう。明治初期の1円=5000円、明治中期以降の1円=1万円というレートを採用すると、明治の世で最初に妃殿下になった梨本宮伊都子さまは、旧・鍋島藩主のご息女。日本でも10本の指に入る資産家のご令嬢ゆえに、結婚式で頭部を飾るティアラにも、当時のお金で2万数千円が注ぎ込まれたという(現在の1億数千万円に相当。当時の総理大臣の年俸の2倍程度)

 現代日本の4人家族の平均生活費は月33万円(2019年、総務省統計局)だそうだが、明治末の4人家族の「中流家庭」でも月30~40円(30万~40万円)という時代、例の梨本宮家には毎年4万5000円(4億5000万円)の皇族費が与えられ、それが生活費だった。戦前の皇族たちは、庶民の目には驚きの豊かな暮らしを叶(かな)えていたのだ。

 明治天皇・皇后両陛下に仕える女官も高給取りで、現在の貨幣価値で1200万円以上の年収があった。また、女性皇族たちも通う女子学習院の院長だったころの女性教育者・下田歌子の年収は2400円=現在の数億円以上。皇室周辺の仕事は世間の最高水準の給与体系で、働く女性たちの憧れだった。

 秋篠宮家の眞子さまのご成婚でも話題になった“一時金”も、昔のほうが高水準だった。「皇室経済法」によれば、一時金とは皇族だった方がその身分を離れ、一般人になってからも品位を保ち続けるために与えられるお金である。それゆえ、一時金が支払われたのは皇女の結婚時だけでなく、多くの皇族がその身分を失い、旧皇族と呼ばれるようになった終戦後も、国庫から多額のお金が支給された。

 コロナ給付金と仕組みが似ており、家族が多いほどお得だったようだ。旧皇族の中で最大給付を受けられたのは7人家族だった東久邇(宮)家。おひとり当たり675万円(現在の1億8321万円)が非課税で支給された。つまり、この年の東久邇家の世帯収入は現在の貨幣価値で13億円弱あったことになる。

海外の有名芸術家の年収

 シェイクスピアはかなり稼いでいたことで有名だ。さすがは17世紀初頭のロンドンで大人気の俳優兼劇作家だっただけあり、その年収は「低く見積もっても」200ポンド(2000万円)。当時の学校教師の10倍は稼いでいたことになる。ただ、その数字には投資による不労所得が含まれていた。投資家としても優秀だったシェイクスピアは、47歳ごろには劇団関係の仕事をすべて辞め、故郷で悠々自適のアーリーリタイア・ライフを実践しはじめている。

 意外なのはモーツァルトかもしれない。西洋音楽史でも有数の天才として知られ、18世紀のウィーンで活躍したモーツァルトだが、晩年は人気が凋落してしまう。貧苦にあえぎながら美しい旋律を五線譜に書きつけたというのが伝説になっている。

 しかし、実情はかなり違う。人気が特に落ちていたとされる晩年の10年間でも、平均で3000~4500グルデンフローリン(約1200万~1600万円)もの収入があった、と最近の研究では指摘されている。しかし、モーツァルトが35歳の若さで亡くなったときには現在の日本円で1750万円の借金が残った。この理由はモーツァルトが違法の高額賭博という悪癖にハマっており、ギャンブルでお金を溶かしてしまったから、といわれている。

 生前は名実ともに極貧だったが、没後に評価が急上昇する画家ゴッホのようなケースもある。19世紀末に描いたときには値がつかなかった『ひまわり』が、制作から約100年たった日本で58億円もの価値がついている。生前のゴッホは弟からの仕送りで食いつないでいたし、絵が実際に売れたのは一生で数回だけ。デッサン画は1枚あたり2・5ギルダー(1万2500円)、生涯で1枚だけ売れた油彩画『赤い葡萄畑』は400フラン(4万円)の激安価格だった。筆者の試算によると、専業画家時代のゴッホの年収は2・3万円と売れない芸人レベル並みに低かった。

《PROFILE》
作家・歴史エッセイスト堀江宏樹 ◎1977年生まれ、大阪府出身。早稲田大学第一文学部フランス文学科卒。日本、世界、古代、近代を問わず、歴史の持つ面白さを現代的な視点、軽妙な筆致で取り上げている。著書多数。最新刊は『眠れなくなるほど怖い世界史』(三笠書房)。

初出:週刊女性2021年11月2日号/Web版は「fumufumu news」に掲載