第22回輝け!日本歌謡大賞、記者会見にて。1991年にはとんねるずが大賞、SMAPと中島美智代が新人賞に

 暮れも押し迫ってきた。TBS『輝く!日本レコード大賞』(12月30日、午後5時半)の放送を楽しみしている人もいるはず。

 1993年までは大きな音楽賞がもう1つ存在した。『日本歌謡大賞』である。1970年代から1980年代はレコ大並みの知名度と人気を誇った。

 どうして跡形もなく消えたのか? その理由を辿ると、現在の各音楽番組が盛り上がらないワケも浮かび上がってくる。

47・4%の高視聴率を記録

 歌謡大賞が生まれたのは1970年。理由は驚くほど単純だった。

「日本作曲家協会が主催するレコ大を後援していたTBSが、1969年の第11回から大晦日のゴールデンタイムで生放送したところ、最初の年からいきなり高視聴率を記録したからです」(当時を知る元スポーツ紙文化部記者)

 この年のレコ大の視聴率は30・9%(ビデオリサーチ調べ、関東地区)。それを見て「音楽賞は視聴率が取れる」と踏んだTBS以外の日本テレビ、フジテレビ、NET(現テレビ朝日)東京12チャンネル(現テレビ東京)がラジオ3局も誘い、自分たちも賞をつくった。それが歌謡大賞だった。

 この狙いは見事に当たる。沢田研二(73)が『危険な二人』で大賞に輝いた1973年には47・4%の視聴率を記録した。五木ひろし(73)が大賞を獲った同じ年のレコ大は44・1%だったから、歌謡大賞は視聴率で勝った。歌謡大賞はレコ大とほぼ同格の扱いを受けるようになる。

 ただし、歌謡大賞とレコ大は似て非なるものだった。まず放送は各局が持ちまわりで11月中に行なった。主催は各局の音楽プロデューサーから選ばれた「放送音楽プロデューサー連盟」だった。

「これが後に歌謡大賞のアキレス腱となりました」(元レコード会社幹部)

 半面、両賞とも1年で一番の歌を決めるので、大賞が同じになることも多かった。たとえば1974年から1977年の大賞は両賞とも同じ。

 森進一(74)『襟裳岬』、布施明(73)『シクラメンのかほり』、都はるみ(73)『北の宿から』、沢田研二『勝手にしやがれ』である。誰もが納得の大ヒット曲だった。

『勝手にしやがれ』は両腕を上げて歌うスタイルが欠かせない('77年撮影) 写真/週刊女性写真班

物議を醸した“受賞”

 厄介なのは断トツの歌がなかったときだった。やはり大ヒット曲が乏しかった1980年代前半のある年、歌謡大賞で前代未聞の“事件”が起きた。

 当時をよく知る複数の関係者によると、A局の音楽番組プロデューサーが、放送終了後、実力派男性歌手の事務所スタッフから殴られた。大賞に輝いたのはアイドル歌手だったが、これに納得がいかなかったからだ。確かにアイドル歌手はお世辞にも歌がうまいとは言えなかった。

 当時の歌謡大賞の審査は各局の音楽プロデューサーたちを中心に行なわれ、そこに新聞・スポーツ新聞の音楽記者の票が加えられていた。音楽プロデューサーの中でも権限が大きかったのは、放送を担当する局の人間だった。

 暴力を振るわれた音楽プロデューサーは大賞を獲ったアイドル歌手がメインを務める番組を担当していた。このため、ベテラン歌手のスタッフに「情実で賞を獲らせた」と思われてしまったのだ。事実、この音楽プロデューサーはアイドル歌手に肩入れしていることを隠さなかった。

 歌謡大賞の一番の泣きどころは各局の音楽番組のプロデューサーたちが中心になって審査をしているところだったのだ。

「テレビ局は力のある芸能プロダクションから『なんとか賞を』と頼まれると断りにくい。その芸能プロからソッポを向かれると普段の番組が作れなくなってしまいますから。

 だから歌謡大賞は徐々に力のある芸能プロが有利になっていった。その分、音楽界全体としては歌謡大賞への情熱が徐々に冷めていきました」(同・元レコード会社幹部)

第31回日本レコード大賞('89年撮影)写真/週刊女性写真班

 だが、審査が物議を醸したのは過去のレコ大も同じ。極めつけは1989年。その年の6月に逝去した美空ひばりさんの『川の流れのように』の受賞を、評論家や新聞・スポーツ新聞から選出された審査員は信じて疑わず、世間の多くの人もそう思っていた。

 ところが、選ばれたのはWinkの『淋しい熱帯魚』だった。

「美空さんは故人というだけで受賞できなかったわけでなく、最優秀新人賞のマルシア、最優秀歌唱賞の石川さゆり、この年から設けられた美空ひばり賞の松原のぶえが、当時はそろってコロムビアレコードの所属だったことが大きかった。

 『全部、コロムビアなのはマズイのでは』という空気が生まれていた。レコード会社がどこかなんて音楽ファンには関係ないのに。結局、TBS系列局員の票が大量にWinkに流れた」(前出・元スポーツ紙文化部記者)

 これを機にレコ大は審査方法の抜本的な改革を行なった。一方、歌謡大賞の改革は遅れに遅れた。各局の混成軍によって運営され、意志の疎通がスムーズではなかった弊害だ。

第21回日本歌謡大賞にノミネートされた八代亜紀('80年撮影)写真/週刊女性写真班

まるで選挙な賞レース

 音楽賞が一番盛り上がったのは1980年。五木ひろしの『ふたりの夜明け』と八代亜紀(71)の『雨の慕情』が両賞を激しく争った。2人とも本心を隠さず、「(賞を)獲りたい」と宣言し火花を散らせたことから、「五・八戦争」と呼ばれた。

「2人とも審査員の票読みまでしていたようです。『あの人は自分を推してくれる』とか。まるで選挙です(笑)」(同・元スポーツ紙文化部記者)

 その後も1980年代は賞レースが過熱し続ける。

「私たちレコード会社の人間は審査員を銀座やゴルフに連れて行きました。もちろん、費用はこちら持ち。でも、それによって音楽賞がファンたちから離れてしまった気がします。ファンとは無縁の話でしたから」(同・元レコード会社幹部)

 1990年代に入ると、両賞とも視聴率が10%台前半にまで落ちてしまう。レコ大は改革に次ぐ改革で復権を図るが、そもそも視聴率目的で生まれた歌謡大賞は継続の意欲を失い、姿を消す。

「そもそも音楽賞が難しい時代に入っていたんです。孫からおじいちゃんまで一緒に聴ける曲がなくなっていた」(同・元レコード会社幹部)

 音楽賞は世代を超えて楽しむもの。だから沢田研二やピンク・レディーのような存在がいないと、高視聴率達成は難しい。

 現在の音楽番組が軒並み低視聴率にあえぐのも、理由は同じだろう。

高堀冬彦(放送コラムニスト、ジャーナリスト)
1964年、茨城県生まれ。スポーツニッポン新聞社文化部記者(放送担当)、「サンデー毎日」(毎日新聞出版社)編集次長などを経て2019年に独立