須合美智子さん 撮影/矢島泰輔

 初心者からマニアまでトリコにする、いま注目の都市型ワイナリーが東京・御徒町にある。微笑みを絶やすことなく店を切り盛りする須合美智子さんは、ワインの世界では珍しい女性醸造家。しかもワイン造りに身を投じるようになったのはわずか6年前、45歳のときだったという。コネなし、知識なし、経験なしのパート主婦は、いかにして道を切り開いたのかーーその軌跡を追う。

気軽に立ち寄れるワイナリー

愛知鴨のソテーなど、ワインのお供になるつまみも美味しいと評判

 日中の冷たい雨が上がったかと思いきや、再び雨脚が強まった12月18日の夕方17時。東京・御徒町の都市型ワイナリー『BookRoad(ブックロード)~葡蔵人~』にポツポツと人が集まり始めた。

 この日は毎月恒例、角打ちスタイルの「月いちバル」の開催日。

 20時までの3時間限定で、「オレンジデラウエア」や「富士の夢」など多種多様なオリジナルワインを、1皿300円のおつまみとともに1杯300円という手ごろな値段で楽しめるとあって、ワイン好きの老若男女が目をキラキラさせて集うのだ。

 床面積がわずか10坪ほどしかない店先に設置されたカウンターの前に立つのは、ワイン醸造家の須合(すごう)美智子さん(51)。'17年11月のオープン時からすべてを切り盛りしている。個性豊かなワインはもちろんのこと、ホンワカした雰囲気と柔らかい笑顔の彼女に惹きつけられ、来店する人も少なくない。

 千葉県市川市在住の今井さんは、開店当初からの常連客の1人である。

「須合さんに最初に会ったのは、'17年の上野公園のお酒のイベント。ワインコーナーに彼女がいて、店をオープンさせたばかりだと聞いた。そこで『月いちバル』に足を運んだら、楽しくてハマった感じですね。毎回、ほぼ全種類飲みますけど、同じブドウの品種でも仕込むたびに味が違って興味深いです」と話し、バルでしか飲めない「アジロン2019」をじっくりと味わっていた。

 さいたま市在住の菅ひとみさんは今回が初参加。2日前に来店し、購入したというが、バル開催を聞きつけて再びやってきた。

30人超の客のうち、大半がおひとりさまの女性客。ここで知り合い親しくなる人もいる 撮影/矢島泰輔

「10~11月ごろに近所の酒屋で『オレンジデラウエア』を見つけて飲んだところ、香りとスッキリした味わいが気に入り、醸造先を探してここまで来たんです。

 以前はドイツなどのワインをよく飲んでいましたが、“日本を応援したい”と国産に目を向け始めたときに出会ったのが、こちらのワイン。ブドウの個性を生かした香りと味わいが自分にはすごく刺さりました

 彼女のような「おひとりさま女性客」はかなり多く、同日も女性比率が圧倒的に高かった。それだけ気軽に立ち寄れる空気が漂っている。ワインに詳しくないビギナーが困らないように、商品に合う食べ物の絵をラベルデザインに採用しているのも須合さんならではの工夫と気配り。細かい配慮とやさしさが心の奥底に染みてくるからこそ、一見さんが2回、3回と繰り返し訪れるのだ。

 通ってくれる人々に対し、須合さんは常にフレンドリーに接している。

「おかえり!元気だった?」
「ただいま~!」

 こんな微笑ましいやりとりも見受けられ、自分の家に帰ってきたかのような安心感を与えてくれる。都心にある隠れ家的ワイナリーが人気を博す理由がよくわかるだろう。

1杯300円とお値打ちな角打ちバルは、月1回の開催。遠方から訪れる人も少なくない 撮影/矢島泰輔

「店名のブックロードは、葡萄と蔵と人がつながって、繁栄していけたらいいという思いで名づけました。ワインを飲みながらお客様がつながり、楽しみ、笑顔になっていただきたい。それが私のいちばんの喜びです」

 静かにこう語り、はじけんばかりの笑顔を見せてくれた須合さん。そんな彼女がワイン造りの世界に飛び込んだのは6年前、45歳のときだ。パート主婦から一念発起して醸造家の道を歩み始めた、驚きの人生をひも解いていこう。

おもしろそう!と思ったらすぐ動く性分

 三陸海岸を代表する都市のひとつであり、本州最東端の町としても知られる岩手県宮古市。2011年3月11日の東日本大震災では津波で大きな被害を受けた。今も復興中のこの地で、須合さんは1970年12月に生を享けた。

 家族はサラリーマンの父とパート勤務の母、3つ年下の弟。幼いころから活発で、野球好きの父が仕事から帰ってくると、毎日キャッチボールをするのが日課だった。三陸海岸でとれたカニやウニなどの魚介類、タラの芽など山の幸といったおいしいものの多い土地柄で育ち、味覚もおおいに鍛えられたという。

 小学校入学時に盛岡に引っ越してからも元気はつらつ。病気ひとつしなかった。両親からは「悪いことをしちゃダメ」と言われるくらいで、「やりたいことは伸び伸びやらせてもらえる環境で、ごく普通に過ごしてきた気がします」と、彼女は柔らかな笑みをのぞかせる。

 そんな中にも、今に至る行動力と積極性をうかがわせるエピソードがあった。小学6年生のとき、須合さんは児童会役員に自ら立候補し、選挙戦に打って出たのだ。

子どもたちと保育園にて。辻さんとはそれ以来の付き合い

「推薦責任者を立てて、画用紙に“(旧姓の)佐藤美智子”とデカデカと書いたポスターも作って貼り、体育館で演説会をしました。

 当時は1学年3クラスで120人くらいいましたから、6学年で700人超の生徒を前に壇上でスピーチしたことになりますね。動機は単にやってみたかったから。

 “学校をよくしたい”といった大層な考えがあったわけじゃない。おもしろそうと感じたから、すぐに動いた。それが自分なんです」
と、彼女は言う。

 やがて中学、高校へと進むにつれ、看護師になる夢を抱くようになった。

「真剣に考えていましたが、受験科目に苦手な理数系があり、断念せざるをえなくなりました。大学進学も考えていなかったので、就職しようと思い立ったんです」

 両親は岩手県内、遠くても同じ東北地方の仙台での就職を希望した。しかし、目ぼしいところがなく、少し視野を広げた。そこで浮上したのが、東京・台東区に本店を構える朝日信用金庫。銀行業務にはさほど興味はなかったが、「堅い就職先のほうが親も安心するだろう」という理由から選択し、無事に内定を得た。

「東京は遠いな」と嘆く両親に申し訳なさを覚えつつ、須合さんはバブル絶頂期の'89年春に上京。女子寮で生活しながら、銀行に通う新たな日々をスタートさせた。

「担当したのは預金係。窓口業務もやりました。当時はそろばんを使っていた時代で、1円合わないと最初からやり直しになったりして本当に大変でした。銀行の裏側を知れたことは楽しかったですね。

 平日は22時が寮の門限。仕事が長引いて遅れそうになると上司が電話で事情を説明してくれたんですが、寮監さんに嫌な顔をされるのが日常茶飯事でした」と苦笑する。

 模範的な若手行員生活を4年ほど続けたころ、窓口近くのATM両替機のところにやってきた1人の青年と目が合った。挨拶を交わし、何度か会話するようになったある日、こんな誘いを受けた。

「今度、バーベキューがあるんだけど、一緒に行かない?」

 男性は近所の中華料理店の2代目である後継者。3つ上の未来の夫との出会いである。これを機に交際が始まり、1年ほどたったころ、プロポーズを受ける。

「田舎の友達も何人か結婚しているし、今くらいのタイミングでお嫁に行くのは普通かな」と、すんなり寿退社を決意。いつか岩手に戻ってきてくれると信じていた両親は落胆したようだが、反対することなく、快く娘を送り出してくれた。

「サラリーマン家庭で育ち、東京で5年働いて、23歳で結婚と、ここまでの私は平凡な人生を送ってきました。それに対して何の疑問も抱きませんでした」と、須合さんは若かりし時代の偽らざる本音を打ち明ける。

「自分らしい生き方」への思い

 義父母の営む中華料理店は常連客が多く、多忙を極めた。ドラマ『渡る世間は鬼ばかり』に登場する『幸楽』のような家族経営。とはいえ姑に悩まされることもなく、義父母はやさしく接してくれた。

 店の手伝いも「嫁いだ以上、やるのは当たり前」と思っていたので、須合さんは毎日せっせと店に通い、注文を取り、ラーメンを運び、どんぶりを洗った。夫婦で一緒に働ける喜びを感じながら、順調な新婚生活のスタートを切った。

 '96年には長女・里緒さん、'99年には長男・圭吾さんが誕生。2人の子宝に恵まれた後も、保育園に預けながら中華料理店で働き続けた。

結婚後、26歳のときに長女が、29歳で長男が誕生。育児と仕事に追われた

 あわただしい生活を送りながらも、おもしろそうと感じたらすぐに動く性分は変わらない。保育園のママ友・辻喜恵子さん(61)に誘われて始めたママさんバレーにも熱心に取り組んだ。

「『竹町アタック』というチームで、みっちゃんは未経験者なのに、ものすごく頑張ってくれました。ポジションもレシーバーからアタッカー、セッターと全部こなしていましたね。運動神経がよく負けず嫌いで、上達も早い。最終的にキャプテンをやるまでになりました。

 練習や試合で納得いかないことがあれば、コーチや先輩にも平気でぶつかっていく。“これは違うんじゃないですか” “もっとこうすべきです”と正面切って意見を言うし、忖度も一切しない。その勇敢さは本当に頼もしいと感じていました

 ここ一番でギアがグッと上がる須合さんの奮闘もあり、「竹町アタック」は下町家庭婦人杯という大会に台東区代表で出場するまでになったという。そのうえで、家族の面倒を見て、中華料理店の仕事もフルでこなしたのだから、体力と気力は想像を絶するレベルだったと言っていい。

 ハードな生活を10年あまり続けたころ、義両親の意向で家業の中華料理店が閉店。生活は大きく変化する。夫は外で働き、須合さんも近隣の病院で夕方から夜までの看護助手のパートに出た。もちろんママさんバレーも可能な限り、参加した。

 そんな2012年のある日、練習会場の近くにあった飲食店『地鶏城 梵厨(ボンズ)』に立ち寄った須合さんは、ふと耳寄りな話を聞きつけた。

「別店舗でランチ営業を手伝ってくれる人を探しているんですけど、誰かいないかな」と。同席していた辻さんに「あなた、昼は暇なんだからやっちゃいなさいよ」とすすめられると、須合さんはその気になり「やらせてください」と、すぐさま手を挙げていた。

「梵厨の接客が好きだったんですよね。お客さんひとりひとりの性格や嗜好を瞬時に察知し、その人に合った対応をしていることがひしひしと伝わってきて、感銘を受けたんです。

 よく考えてみると、中華料理店での義母の接客もそうだった。“来る人みんなを家族だと思って接すればいいんだよ”と嫁いだころから言ってくれて、どれだけ救われたかわかりません。だからこそ、こういう店で働きたいなと感じた。運命のめぐり合わせでした

 個人個人と向き合った丁寧な接客というのは、経営者である大下弘毅社長(43)のモットーでもあった。もともとホテルオークラで働いていた彼は'05年に有限会社K'sプロジェクトを起業。飲食店事業に乗り出した当初から「ホテルで学んだきめ細かい対応を居酒屋でも続けたい」と熱望。オークラのスタッフ数人を引き抜いたほどだった。須合さんは、その心意気に魅了されたのである。

 ちょうど子どもたちも中高生になり、子育ての手が離れた時期でもあった。結婚から長い年月がたち、「ひとり暮らしがしたい」という願望が浮かんでは消えていた。そんな彼女にとって、この出会いは大きな転機となった。

「“自分らしい生き方をしたほうがいいんじゃないか”という思いは結婚生活を送る中で年々、高まっていきました。子どもたちにも“早く独立して家を出なさい” “自分の足で立って歩けるようになりなさい”と口を酸っぱくして言い続けていました。

 私自身は1度もひとり暮らしをしたことがないまま結婚し、妻として母として暮らしてきたので、自分の足で歩ける独立した人生への憧れが強かった。そのことを子どもたちにもしっかりと伝えたかったんです」

 それからは「梵厨」でランチタイムに働き始め、夕方には看護助手の仕事をこなした。数年後、「子どもたちが20歳になったら家を出よう」と決意を固めていた須合さんは、予定より早くひとり暮らしを実行に移した。

大下社長(左)は須合さんに信頼を寄せ、ワイン醸造の道を二人三脚で歩んできた 撮影/矢島泰輔

 大下社長がワイン事業に参入しようとしている話を聞いたのは、まさにそんなころ。国産ワインは輸入モノに遅れをとる時代が長く続いたが、'10年代に入ってブドウの品種や栽培法にこだわる造り手が増え、品質が一気に上がった。

 '15年には国内で栽培されたブドウだけを使って国内で造ったワインを「日本ワイン」と定める法律ができ、国際コンクールで受賞する製品も相次ぐなど、ステイタスは急上昇していた。こういった社会的背景も踏まえ、敏腕社長は「多くの人が楽しめるワインを世に送り出したい」と考えたのである。

 須合さんも、その考えに賛同。役員選挙に立候補した小学生のときのように「やってみたいです」と迷わず手を挙げた。当時45歳。ワインはたまにたしなむ程度で、ブドウの種類はもちろん、産地や銘柄もロクに知らない。

 そんな状態で醸造家になりたいと志願するなど「無鉄砲」と言われても仕方なかった。それでも、大下社長は「この人なら任せてもいいかな」と直感したというから、驚きだ。

「実を言うと、最初は私自身がワインを造りたいと考えて、''15年の1年間、長野県のワイナリーで修業していたんです。でも、別の飲食店経営や建設業など複数の仕事があり、社長の自分には難しかった。そこで一緒にやってくれる人を探そうとしたときに須合さんが“私にできることはありませんか?”と声をかけてくれました。

 彼女は店でも常にお客様第一で気配りしていたし、楽しんでもらおうとしていました。信頼できる人だとわかっていたので、ワイン造りを任せても大丈夫だと確信を持てましたね」(大下社長)

 この日を境に、須合さんはワイン醸造家として新たな人生の扉を開けることになったのである。

アポなし訪問したワイン研修

 迎えた'16年。パートから正社員になった彼女は臨戦態勢に入った。が、ワインを造ろうにも、勉強をする術もなければ、教えてくれるアテもない。都内の試飲会に出かけてみたが、丸々1本出されても飲みきれないし、テイスティングの目的すら果たせない。

 そこで、国産ワイン最大の名産地である山梨県勝沼町に赴くことを決意。約40軒あるワイナリーを自分なりに事前調査し、家族経営をしている『マルサン葡萄酒』をアポなしで訪問。試飲しながら世間話に花を咲かせた。そして2度目の訪問でこう切り出した。

「東京でワインを造るんですけど、教えてもらえませんか?」

 予期せぬ打診に社長の若尾亮さんは面食らったが、「いいですよ。8月から来てください」と、いつの間にか快諾していたという。若尾さんが当時を振り返る。

「ウチは家族4人とバイトの5人でやっている小さい会社。研修を受け入れる余裕もなく、過去に1人も取っていません。それに夏場は観光ブドウ園をやっていて、接客時にものすごいパワーを使う。負のオーラを漂わせる人とは一緒には働けないんです。その点、須合さんの話し方や接し方が明るく、プラスのオーラがあった。“この人なら大丈夫かな”と思えました。

 また僕自身、婿養子で12年前に別のワイナリーで一から修業した経験もあったんで、そこまで本気なら教えてあげてもいいなと感じた。即決でしたね」

マルサン葡萄酒の若尾さんと。研修後も度々師匠に相談している

 第一関門を突破し、須合さんはまずは安堵した。が、繁忙期には週2~3回のペースで勝沼に通わなければならなかった。ブドウ園は公共交通機関では行けない場所にあり、車の運転は必須だ。

 免許こそ持っていたが、都心暮らしでほとんど乗る機会のなかった彼女は奮起し、ペーパードライバー講習を受講。2~3日かけて教官とともに上野界隈を走り、首都高速にも乗り、スーパーの駐車場で車庫入れの練習に励んだ。

 そのうえで、指定された日の朝4時半にレンタカーを借り、おそるおそる中央道を走って、2時間半かけてマルサン葡萄酒の工場へ向かった。「最初は80キロ制限のところを50キロくらいで走っていたんじゃないかな」と本人も苦笑する。なんとか約束の朝8時前に若尾さんと合流。作業を開始した。

 ワイン製造工程を簡単に説明すると、ブドウを収穫し、工場に搬入してバラバラにするところから始まる。これをつぶし、搾って果汁にするのが第一歩。その後、樽に入れて発酵させ、一定期間熟成し、仕上げをしてから瓶に詰めるというのが一連の流れだ。

 マルサン葡萄酒の自社畑は4000平方メートル。1万7000本のブドウの木があり、「シャルドネ」「メルロー」「プチヴェドー」などの複数品種を栽培している。畑が広いと同じ品種でも日照時間や風の強さなど生育環境に差が出て、香りや甘みも微妙に異なってくる。

 畑のあちこちを回り、さまざまなブドウをとっては種までしっかりと食べ、味を確認し、仕込み方を考える若尾さんの一挙手一投足を目の当たりにした須合さんは、必死でメモに取り、動画に撮影し、見よう見まねでひとつひとつの仕事を頭に叩き込んでいった。

 仕込みの期間は8月~11月頭の約3か月。合計25万トンのブドウを連日、果汁にする作業を続ける。その間はワイン造りに10年以上、携わってきた若尾さんもナーバスになりがちだ。細かいことに神経を使ううえ、観光ブドウ園の仕事なども重なるため、研修生にいちいち説明することはできない。

「最初は正直、でっかい仕事が増えたなと。受け入れなければよかったなと後悔したこともありました」と若尾さんは本音を吐露する。そんな空気を須合さんも察して極力、負担をかけないように気配りしつつ、情報をインプットしていった。

 仕込みが終わり、11~1月までは発酵・熟成期間に入る。その間も醸造家は特殊機器を使ってアルコール分や糖度や酸味、濁度など分析を続ける。須合さんはその時期も要所要所で車を走らせ、勝沼に通い、懸命にノウハウを体得した。

 翌年2月からは瓶詰めの作業に入る。これも身長158cmの須合さんのように小柄な女性にとっては、重労働にほかならない。盆地特有の寒さも重なり、かつて中華料理店でどんぶりを運んでいた彼女も堪えたに違いない。

 それでも「自分でワイナリーを切り盛りできるようになるんだ」と闘志を燃やし、決して弱音を吐くことなく作業を続けた。マルサン葡萄酒の1万本を超えるワインを出荷できる状態になるまで、無心で若尾さんを手伝ったという。

 全工程を終え卒業の段階を迎えた3月。須合さんは若尾さんに笑顔で送り出された。

「何事も基本が大事。教科書に沿ったスタンダードなワイン造りを大事にしてください。応援してます。わからないことがあったらいつでも聞いてください。ただし、1日に電話は3回まで。メールは5回までですよ」と。

 須合さんは師匠の言葉を噛みしめた。

「“トラブルが起きたときが大変だし、もう1年、ウチでやったらどうか”とも言われました。でも'17年11月にはブックロードのオープンが決まっていて、修業の傍らで店舗探しや開店準備も進めていたので、そうするわけにもいかなかった。泣く泣くお断りして、車を走らせ、東京に向かいましたね」

努力で成し遂げたワイナリー開所式

 師匠から学べることはすべて学んで、須合さんは帰京。勝沼を筆頭に長野や茨城のブドウ農家数軒と契約を進めるなど、前だけを見据えて突き進んだ。

日本を代表する品種のひとつ、甲州を収穫する須合さん

 会社がリスクを冒して巨額を投じていることも、もちろん理解していた。ワイン造りには、ブドウをバラバラにする除梗機、つぶすためのプレス機、醸造用のステンレス製タンク4台など、数々の特殊器具が必要だ。その購入だけで多額の費用がかかる。御徒町の物件、店の内装、瓶やラベル、ブドウ入手も含めれば、トータルの投資額は相当な額に上るだろう。

「ワイン事業はすぐに成果を挙げられるものではありません。10年間は認知度を高める期間で、それからやっと回収期間に入る。非常に長丁場のビジネスなんです」と、大下社長自身も神妙な面持ちで語る。本当に利益を出せるか否かは、彼女の双肩にかかっている。絶対に失敗は許されなかったのだ。

 ブックロードの仕込みは同年8月からスタート。「富士の夢」を造る日であれば、茨城県八千代町の契約農場に朝5時に出向き、2トンのブドウを16キロごとに計量。合計125ケースをトラックに積み込んで御徒町まで自ら輸送する。輸送時間やコストがかかるのは都市型ワイナリーの宿命だ。

ワイン造りは重労働。華奢な身体ながら須合さんは軽々と運ぶ

 到着したブドウをアルバイトスタッフとともに店舗内に運び込み、狭さと格闘しながら茎を取り除く。さらに「醸し」と呼ばれる皮や種から渋みを抽出する作業を経て、果汁を搾り出し、タンクに入れる。その後の分析作業は昼夜関係なし。親友の辻さんは「寝食惜しんでワインにつきっきりで、前よりやせて心配になりました」と気遣った。

 猛烈な努力が報われ、11月には10種類の銘柄が完成。なんとか開店にこぎつけた。

「開所式を開いたんですが、ほとんど記憶がないんです(苦笑)。うれしいというより、とにかくホッとしたという感じでしたね。同時にもっと頑張らないといけないと思いました」と、須合さんは4年前の記念すべき日を振り返った。

 彼女が願い続けてきた「自分の足で歩ける独立した人間」になったことを、大下社長も若尾さんも辻さんも認めたのは間違いない。

前進し続けたい

 女性醸造家として力強い一歩を踏み出した須合さん。だが、1回目が順調な滑り出しだったからといって、その後もコンスタントにうまくいく保証はない。天候不順が続けば、ブドウが思ったほど収穫できなかったり、甘みや香りが十分に出ないケースもある。オープン2年目の'17~'18年には案の定、トラブルに直面した。

 当時の状況を大下社長が説明してくれた。

「『サンジョベーゼ』の仕込みをした後、タンクで発酵させている間に異臭が出て、須合さんが困り果ててしまったんです。朝方まで一緒に様子を見て、いろいろ手を尽くすんだけど、解決策が見つからない。“どうしよう、どうしよう”とオロオロして涙を流す彼女の姿を初めて見ました。仕方ないので私自身も1000本分の商品化をあきらめて、自分たちで消費することにしたんです。

除梗機にブドウを入れ、押しつぶして果汁にし、発酵させる

 その後、しばらく時間を置いたら味が変わり、少し飲める状態になった。この時点で欲しい方にお知らせして、500本は売り、残り半分はわれわれで飲みました。

 “ワインは生き物”ですし、こういうこともある。私も須合さんもあらためて再認識した出来事でした」

 若尾さんによれば、異臭というのはよくあるトラブルのひとつだという。

 勝沼のワイナリー40社では頻繁に勉強会を開いてさまざまな情報交換をしているが、須合さんから問い合わせがあればネットワークに当たって解決策を見いだし、伝えたことも何度かあったようだ。

「実際、私なんかも何千本というレベルのワインをダメにしたことがありました。生き物を扱う以上、ミスは起こりうる。お客さんには謝ったり回収したりとその都度、対処法を考えていくしかない。彼女もトライ&エラーを繰り返して年々タフになり、たくましくなっているなと感じます。この仕事はそうやって成長していくしかないんですよ」(若尾さん)

 師匠の力強い言葉を糧にして、苦難を乗り越えた須合さんは、3年目の20年には高品質の国産ワインの証である『日本ワイナリーアワード』で3つ星を獲得。4年目を迎えた今は、ブックロードでは「富士の夢」「アジロンダック」「甲州」など7種類のブドウを駆使して、新たなワインを次々と発売している。

 販路も順調に拡大。今では全国100以上の百貨店や小売店で取り扱いされている。辻さんも「伊勢丹や東京駅の大丸でみっちゃんが造った『アジロン』を見つけたときは​本当に感動しました。自分も喜んで飲んだし、プレゼントもしました」と声をはずませた。

 さらに、'20年には台湾でも取り扱いがスタート。「海外で自分の造ったワインを飲んでもらえるなんて夢のよう」と、須合さんも喜んでいる。

「自分の足で歩ける」生き方を重視する須合さん。醸造家になって以来、その思いは強まっている 撮影/矢島泰輔

 そのすべては質の高いブドウがあってこそ。「ワインは9割9分がブドウ次第」と若尾さんも強調するが、香りのないブドウからいい香りは出ないし、糖度の低いブドウから甘みが出ることもない。

 常に味わい深いワインを作り続けるためにも、ブドウを育ててくれる契約農家との良好な関係は欠かせない。須合さんは頻繁にコンタクトを取り、可能な限り足を運び、感謝の気持ちを示す。真摯な姿勢で得た信頼関係は大きな財産になっている。

 一方で複数の自社農園も確保。'22年1月からは東京・八王子の新農園を稼働させ、3~4年後にはリアル東京産ワインの生産を目指す。

 '20~'21年にかけては「ワイン造り体験」も実施。15万円で1樽造る参加型イベントは参加者に大好評だった。生産者の「顔の見えるワイン」の素晴らしさを伝えるべく、彼女は工夫を凝らし、貪欲に走り続けていく覚悟だ。

「何もないところからブックロードを立ち上げ、ひとつの形になったことで、もっと先へ進みたいという意欲と勇気が湧いてきたんです。今、あらためて感じているのは“1回きりの人生、やりたいことをやったほうがいい”ということ。

 
数年前に念願だったひとり暮らしを始めましたが、ワイン造りを続けている以上、私の周りにはいつもたくさんの人がいる。関わってくれる人のためにも、さらに前進し続けたいと思っています」

 自立した女性として邁進する須合さんを、20年来の友人・辻さんは心から誇りに感じているという。

「私自身も55歳で早期退職し、お好み焼き店を母たちと開業したんですが、人間、何歳でも再出発できると思うんです。みっちゃんや私を見たママさんバレーの若い後輩も“何歳だからダメってことはないですね” “いくつになってもやれると自信になる”と言ってくれています。

 
醸造家としての今のみっちゃんの姿は、彼女の勲章。これからも身体に気をつけて、素敵なワインを造り続けてほしいと願ってます」(辻さん)

ステンレス製タンクを覗き込む須合さん。品質管理が欠かせない 撮影/矢島泰輔

 1人、また1人と応援してくれる人を増やしている須合さんとブックロード。その存在がより多くの人に知られ、味わい深いワインが日本を飛び越え、世界中に広がっていく日が訪れることを強く祈りたい。

〈取材・文/元川悦子〉

もとかわ・えつこ ●ジャーナリスト。長野県松本市生まれ。サッカーを中心に、スポーツ、経営者インタビューなどを執筆、精緻な取材に定評がある。『僕らがサッカーボーイズだった頃』(カンゼン)ほか著書多数