常連客の田中さんと本の話題で盛り上がる二村さん 撮影/渡邉智裕

 シンクロ日本代表として活躍後、娘を連れてシングルマザーとなり、パニック障害を発症。25年苦しんだ。生きる自信をなくし絶望していた彼女を救ったのは、書店で出会った客だった。以来、客と対話を重ねておすすめの本を手渡す時間が生きがいとなる。町の小さな書店が次々と消えゆくなか、大型店やネット書店に負けない努力と、気骨のある姿勢で闘う書店――そこは、本を介して人がつながり、心を通わす場所だった。

1500人のお客の好みを覚えている

「いらっしゃいませ。どんな本をお探しですか?」

 わずか13坪。店内はぐるりと15歩で回れるくらいの狭さ。そこが、二村知子さん(61)の“闘いの場”だ。

 大阪市中央区の地下鉄谷町六丁目駅のすぐそば。オフィスビルが林立する大通り沿いに隆祥館書店はある。二村さんの父・善明さんが72年前に母と創業し、今は2代目の二村さんが切り盛りしている。

 手書きのポップが本棚のあちこちに張られ、壁には過去のイベントの写真やチラシが何枚も張られている。どこか懐かしい感じがする店内にお客が入ってくると、二村さんは明るく声をかける。雑談をしながら仕事や好みを把握し、これぞと思った本をすすめる。

 大阪市内で小さなスポーツ用品店を営む田中敬人さん(67)は書店の近くに問屋があり、常連になった。

「二村さんはね、テレパシーで心を読まれてんのん違うかなーと思うくらい(笑)。すすめてくれるのは私にぴったりな本ばかりです。初めて来たときも、親父が亡くなって落ち込んでいたんです。西国のお寺回りが好きだけど、コロナでどこにも遊びに行かれへんし。そんな話をしたら、大阪を舞台にした『幻坂』(有栖川有栖著)を紹介してくれて。読んでみたら、遠くに行けなくても、近くにこんないいところがあったのかと」

 店内の本棚には足元から天井近くまで本がぎっしり。そこを見て回るのも楽しいと田中さんは顔をほころばせる。

「ジャングルで宝物を探し出すみたいで面白い。しかも二村さんのフィルターを通した本ばかりやから、何を買ってもハズレがないんです」

 二村さんは相手が子どもでも、満足できる本を見極める。中学1年生の男の子が子ども向けの歴史の本を買いに来たときは、話を聞いてかなりの歴史好きだと感じた。

「あなたはこの本では満足しないんちゃう?」

 すすめたのは『ミライの授業』(瀧本哲史著)だ。

 その本を読んだら面白かったと、男の子から経緯を聞いて、祖母の黒田美砂子さん(69)も書店を訪れた。中学校の国語教諭だった黒田さんは本好き。だが、大型書店では欲しい本がなかなか見つからず辟易していたと話す。

「それがこの店に入った瞬間にね、“読みたいと思ってた本がいっぱいあるわ”と。あー、これも、これもと10冊以上買ってしまって(笑)。家にはまだ読んでない本がいっぱいあんねんけど、ここに来たら、また買ってしまう。二村さんは、おすすめ上手やから(笑)。『典獄と934人のメロス』(坂本敏夫著)なんか自分では絶対に選ばない本だけど、すすめられて読んだら、うわ、こういう事実があったのか。全然、歴史を知らなかったなと」

二村さんがおすすめした本を手に、常連客の黒田さんと 撮影/渡邉智裕

 同書は関東大震災で火の手が迫った獄舎から、囚人を信じて一時的に解放したという史実を基に元刑務官が書いたノンフィクションノベルだ。タイトルからは何の本かわかりづらいので、丁寧に内容を説明して、1年間で500冊売ったという。

 二村さんがすごいのは、話をしたことがあるお客なら顔を見れば、どんな本が好みか大体覚えているところだ。その数は1500人を超えるというから驚く!

父親に大反対された積極的な接客

 かつて二村さんはシンクロナイズドスイミング(現・アーティスティックスイミング)の日本代表選手だった。引退して結婚、出産を経て、実家の隆祥館書店に戻ったのは1995年。その翌年をピークに出版不況が始まり、ずっと右肩下がりが続いている。

店内には「読書」の効果を特集した新聞記事が多数張られ、床にも本が積み上げられていた 撮影/渡邉智裕

 二村さんが両親の営む書店を手伝い始めて間もなく、中年の男性客に「おすすめの本は?」と聞かれ、自分の好きな『鉄道員(ぽっぽや)』(浅田次郎著)を挙げた。

 それをきっかけに、積極的にお客に声をかけるようになったが、当初、父には「一介の本屋が大それたことを」と反対された。それまでは黙っていても本や雑誌が飛ぶように売れた時代だったのだ。

「父には、正直、そんなん言ってる場合ちゃうでと。売り上げはどんどん減る一方で、小さな本屋にとっては、もう毎日が生き残るための闘いみたいなものでしたから」

 本をすすめたお客が次に来店したとき、「ものすごいよかったわー」と言ってくれ、二村さんは心の底から喜びが湧き上がってきた。

「実はここに帰ってきたときは、自分に対する自信もなくなって、生きていても価値がないわと思っていたんです。本屋には立てるんやけど、パニック障害で地下鉄にも乗られへん状態で……。それが、私のおすすめした本を喜んでもらえて、ちょっとずつ、ちょっとずつ、自信を取り戻せていけたんですよね」

店内には「読書」の効果を特集した新聞記事が多数張られ、床にも本が積み上げられていた 撮影/渡邉智裕

 二村さんは出版社から送られてくるプルーフという見本や新刊本を読み込んで、いい本を探した。閉店後は寝る間を惜しんで本を読むのが日課で、もう25年続けている。

新刊を読むとおすすめしたいお客の顔が浮かぶという。よい本に出会えば、読み終えた途端に電話してしまうことも 撮影/渡邉智裕

 だが、時間も読める量にも限りがある。興味の幅も簡単には広がらない。助けてくれたのも、お客だった。

 百貨店勤務の岡住容子さんは大の日本映画好き。5年前、「タイトルを度忘れしてしまった」という本を二村さんが探し出したのを機に、ほぼ毎週来てくれるようになった。

 ある日、岡住さんから『活動写真弁史』という分厚い本の注文が入った。二村さんがツイッターで「活弁の本が売れました」とつぶやいたら、著者で活動弁士の片岡一郎さんがフォローしてくれた。しかも、関西に行く用事があるから、隆祥館書店に来てくれるという。

「岡住さんに教えていただいたおかげです。うちのスタッフも活弁が好きになって、活弁関係の本を置きだしたら、片岡さんともご縁ができた。めちゃくちゃ感謝してます」

 店で片岡さんのサイン会をやると知らせを受けた岡住さん。当日は信じられない思いで駆けつけたそうだ。

「いつもステージで見ていた、私にとっては雲の上の人がここに来るの? とすごくビックリしました。ここで買った本はどれも、“こんなおしゃべりをしながら買ったなー”とか、思い出が残っています。大きな本屋さんや、ネット注文ではありえないですよね」

 二村さんが作り上げたのは、本というモノを売買するだけの店ではない。本を通して、教えたり、教えられたりする、かけがえのない場所だ。

父親の代からの歴史が書籍『13坪の本屋の奇跡 「闘い、そしてつながる」隆祥館書店の70年』になった

井村コーチの言葉が人生の指針に

 誰にでもにこやかに話しかける二村さんからは、想像もできないが、幼いころは人見知りで気が弱かったそうだ。

「2歳下の妹は寅年で負けん気が強くて、長女の私はいてるか、いてへんか、わからへんくらいやったって(笑)」

 水泳を始めたのは小学2年生のときだ。勉強はできるのに体育はダメ。しかもプールが怖くて、お腹が痛くなるほど。無理やり、浜寺水連学校に連れていかれた。

「母は“水に放り込んでやってください”と言うたらしいけど、私はもう、イヤでイヤで。母が怖かったから、しぶしぶ泳いでいたけど、本当は好きじゃなかった(笑)」

 同校は日本のシンクロの発祥地であり、日本代表選手を輩出している。中学生になるとき、友達に「一緒にやろう」と誘われて始めた。

 最初は楽しかったが、徐々に厳しさを増す。チームはA~Eまであり、二村さんはCチームで3年ほど足踏みした。

「そのころ白髪がブワーッと出てきたんです。プールのカルキの影響もあるかもしれないけど、精神的にすごく追い詰められていたんやろうね。約4分間あるチームの演技は全員で絶対に合わさないといけない。水中でグッと息を我慢せなあかんときに、苦しくて自分だけ“ハアーッ”と水面で息を吸ってしまう。そんな夢を見て夜中に目が覚めるんです。選手をやめてからも、その夢は何度も見ましたね」

 それほどつらい環境下でもなぜやめなかったのか。答えはシンプルだった。

「上に上がりたいという気持ちもあったんですよ」

 Bチームに上がると、井村雅代コーチの指導を受けることができた。後にシンクロがオリンピック種目になると、日本代表を率いて何度もメダルを獲得し「シンクロ界の母」とも称された人だ。

「私は身長158センチと選手の中では低いから、先生には“人の倍、努力せなあかん”と。母も100点取ろうと思ったら120点の勉強せなあかんという人だったけど、母より怖かったですね、井村先生は(笑)。

 でも、頑張ったら報われるというか、公平なんですよ。みんなを平等に見てくれるので、うれしかったですね」

 それでも、高校1年生のとき、年下の選手に激しく追い上げられ、一度だけ引退を申し出たことがある。

「先生、もう私は限界やと思います。もうやめます」

 返ってきた言葉は想像を超えていた。

「あんたの限界は、私が決める」

 自分で諦めて逃げてはいけないと諭された。恩師のこの言葉は、その後、二村さんの生きる指針になる──。

井村コーチ(中央)とシンクロ日本代表メンバーと。16歳の二村さん(左から3番目)

 間もなく二村さんはAチームに上がり、日本代表選手に選出される。チーム競技のメンバーとしてパンパシフィック大会に出場。2大会連続で3位になった。

学生結婚からパニック障害へ

 高校卒業後にシンクロを引退。大学在学中に学生結婚した。相手は初めて付き合った8歳年上の男性だった。

「うちの両親、特に父は、もっと社会を見てから結婚したほうがいいと反対しました。反対されるとね、余計に家を出て自由になりたいと思ってしまって。だけど結婚後は、もっと自由がなかった……」

 引退後もシンクロはコーチとして続けていたが、23歳で長女を出産してやめた。子育てが一段落して再開したいと思ったが、夫や姑にいい顔をされなかった。やがて夫婦仲はギクシャクするようになる。

 夫の裏切りが間もなく発覚。ほかに恋愛経験がないまま結婚した二村さんは夫とうまくいかないのは自分のせいだと、自分を責めた。まじめで努力家だから自らを追い込みすぎたのだろうか。

 ある日、地下鉄に乗っていると、突然、冷や汗がバーッと出てきた。ドオーッと動悸が始まり、「私、このまま死ぬんかな」と恐怖にかられる。そのまま意識を失って倒れた。

「それがトラウマになって、1人では地下鉄に乗れなくなったんです。これは経験した人にしかわかれへんと思うけど、ほんまに怖いんですよ。地下に下りようとしただけで、“アー、ダメダメ、ムリムリ”と。美容院にも銀行にも怖くて行けなくなって」

 そのころはパニック障害という病名は知られておらず、本を何冊も読んで、ようやく自分の病気はパニック障害だとわかった。

 娘の宝上真弓さん(38)は当時、小学2年生だったが、母親の苦しむ姿をよく覚えているという。

「グッと強く踏ん張っているときもあるけど、それ以外はメソメソしていて(笑)。食事をしても、すぐお腹を壊してガリッガリでした。車の運転はできたけど1人でいるのを不安がったので、どこに行くにも一緒についていくのが当たり前になっていましたね。

 母は私をしっかり育てることが使命になっていたところもあるので、何とか気持ちを保っていたと思うし、私もそんな母を励まして支えることが、生きる目的みたいなところもあったので、長い間、支え合って生きてきたなーと。私が大学生になって、デートとかで家を留守にするのも、気を遣いましたから」

心の再生に「書店」が必要だった

 夫と離婚して、35歳のときに娘と2人で実家の近くに引っ越した。

「私の人生はもう終わった」

 絶望感に駆られながらも、毎日、店頭に立った。書店にいる間だけは、しんどくならなかったのだ。

 父は何も言わずに見守ってくれたが、母にはパニック障害を理解してもらえず、こう言われた。

「あんた、それ怠け病やで」

 ある日、二村さんは1冊の本にたまたま目が留まる。

 一読して、号泣した。それは、口に筆をくわえて絵を描いている星野富弘さんの『愛、深き淵より。』だった。

「事故で頸髄を損傷し口しか動かない。自分で死ぬこともできない人が本当に絶望の淵から這い上がって、感動できる絵を描いてはる。

 その本を読んだときにね、ほんまに自分の甘えというか、私はこのままではあかんなって、気づかせてもらえたんですよね。偶然、神様が会わせてくれたとしか、考えられへんねんけど……」

 説明しながら、当時の気持ちが蘇ったのか、二村さんはこらえきれず、そっと涙を拭いた──。

 パニック障害の症状は発症から25年以上の長い年月をかけて少しずつよくなっていった。一度だけ精神科医に診てもらったが、薬にはできるだけ頼らず克服したという。

 真弓さんは母親がリラックスできる方法などを調べるうちに心理学に興味を持ち、臨床心理士になった。プロとして「母の心の再生プロセスには書店が必須だったのでは」と推測する。

「ママは頑張りすぎて自分を大事にしないから、身体の健康を第一に食事と睡眠をしっかりとってほしい」と娘の真弓さん 撮影/渡邉智裕

「母の場合、ただ流行っているからではなく、自分の感性とか信念に基づいた本をすすめています。それを相手が受け取ってくれて、“すごくよかったよ”とフィードバックをもらえるということは、自分の存在を肯定されることにつながったのだと思います。祖父と祖母が築いた本屋というあの場所に、ずっと守られていたんだと思いますね」

町の小さな書店はなぜ潰れるのか

 書店の仕事にも慣れたころ、理不尽な制度に直面した。小学館から『人間まるわかりの動物占い』という本が'99年に刊行され、当時大ブームになった。「欲しい」という客が次々来店するが、注文を出してもほぼ入ってこない。大型書店には何十冊も平積みされているのに、おかしい。

 二村さんは納得がいかず、問屋である取次に電話をした。押し問答したあげく、冷たく告げられた。

「ランク配本だから無理です」

 取次では、大型書店から小さな書店まで月商でランク分けし、配本数を決めている。つまり、ランクが下の小さな書店には初めからほとんど入ってこない仕組みなのだ。

 電話を切って悔し涙を流していると、父に一喝された。

「なに泣いてんねん。闘わなあかんやろ!」

 二村さんは出版業界誌の編集長を呼んだ勉強会に参加し、懸命に窮状を訴えた。

 すると数日後、手紙が届く。差出人は編集長の知人で当時、小学館の雑誌販売部長だった黒木重昭さん(78)だ。隆祥館書店は小さいが販売実績のある書店だと判断した黒木さんは、指定配本という別ルートを使って本を届けたそうだ。

「二村さんのことはまったく知らなかったけど、業界内の事情は見当がつくから本当に特例で。二村さんはどこでも何でも扉を叩く人だったので(笑)、たまたま叩いたところに、僕のような人間がいたということです。欲しい本がある都度、同じようにほかの出版社の扉も叩き続けたけど、なかなか開いてくれないところもあったと思いますよ。ほとんどの小さな書店は、最初から諦めているんじゃないですか」

 実は黒木さんはそれ以前から、出版業界の未来を案じていた。「どこの書店が何をどれだけ売っているのか」データをとり、データに基づいて配本するように流通を改善しようと、ほかの出版社の仲間とも勉強会を重ねていた。

「ランク配本は取次の作業が楽になるだけで、弊害のほうが大きい。小さな書店はいくら努力しても報われないんです。こんな業界はもうダメだと思って子どもには書店を継がせないから、どんどん消えていく。特に地方では書店がある意味、町の文化的な広がりを担っている面があるので、悲しいですよ」

 実際に、'99年に約2万2300軒あった書店は、'20年には約1万1000軒にまで減少。インターネットの普及やアマゾンの台頭など原因はほかにもあるが、ランク配本のせいでやる気を失った書店はたくさんあるに違いない。

 IT化が進んでも、本の流通は驚くほど変わっていない。典型的な例を挙げよう。

 '15年に『佐治敬三と開高健 最強のふたり』(北康利著)が出ると、二村さんは発売前から客にすすめまくった。店の顧客は6割が男性、しかも中小企業の経営者が多いため、サントリーを支えた2人の物語は共感を呼ぶのではないかと感じたのだ。

 発売から数日後、出版元の講談社の担当者から電話があった。

「二村さん、隆祥館書店が販売日本一ですよ!」

 たった13坪の書店が、千坪を超える数多の大型書店に勝ったのだ。その後も4週にわたって1位をキープし、計400冊を売った。

 それだけの実績を挙げたので、5年後に同作が文庫化されたときは何冊配本されるか楽しみにしていた。だが、結果は、まさかのゼロだった。

作家と読者をつなぐイベント

「この作家さんに会うて、直接話を聞いてみたいわ」

 あるとき、常連客から言われ、二村さんは「これだ!」とひらめいた。

 アマゾンが本の通販だけでなく、電子書籍端末「キンドル」の販売も開始。書店の経営は苦しくなる一方で、何か手を打たないといけないと悩んでいた。

「ただのサイン会とも違う、作家が書ききれなかった思いを読者が聞ける場をつくろう。それはリアルの本屋でないとできないことだと思ったんですよ」

 父とは意見がぶつかりケンカになることも多かったが、イベントをやることは賛成してくれた。'92年に書店が入る建物を9階建てに建て替えており、上階のワンフロアを会場に使うことにした。

 そうして'11年から始めたのが「作家と読者の集い」だ。この10年間で開催した数は280回に及ぶ。有名作家から無名の新人まで多くの人が来てくれたが、二村さんが忘れがたいのは第2回。藤岡陽子さんのイベントだという。

「藤岡さんはどんな仕事でも、縁の下で頑張っている人に光を当てたいという話をされて。会場にいてる人も、身を乗り出して聞いてましたね。

 イベントの手伝いに藤岡さんの本『トライアウト』の営業担当の方が東京から来てくれたんですが、会が終わった後、“実は会社を辞めようと思ってたけど、今日の話を聞いて、辞めるのをやめました”と言ってくださって。私も、ものすごい勇気をもらったんですよ」

 イベントにどんな作家を招くのか。二村さんが決める基準は明確だ。

「ものすごくいい本に出会ったときは、本当に身体の中からね、グワーッとマグマみたいに湧き起こってくるんですよ。これは伝えなあかんっていう気持ちが」

 例えば、在宅での終末医療の現場を長年にわたって取材した『エンド・オブ・ライフ』(佐々涼子著)。最後まで家族と過ごした末期がんの若い母親など何人もの看取りの様子が書かれており、二村さんは読みながら何度も号泣した。こういう最後なら、死にゆく人にも希望を与えられると感じ、すぐ佐々さんにイベントへの登壇をお願いした。

 もともと病院での死に疑問を持っていたことも、背景にはある。常連客で看護師の飯田公子さん(61)に「必要以上の点滴をせず、枯れるように亡くなるほうが本人もつらくない」と聞き、“死の迎え方”を考えることは誰にとっても大事だと思っていた。

二村さんがおすすめした本を手に、常連客の飯田さんと 撮影/渡邉智裕

 飯田さんは同書をはじめ、二村さんにすすめられた本はどれも感動的で、一気に読んだと話す。イベントにも何度か参加したが、母を介護中の飯田さんには、医師で作家の久坂部羊さんの話が興味深かったそうだ。

「『老乱』を読んで、認知症の人の気持ちが何でこんなに鮮明にわかるんだろうと思っていたんですが、患者さん本人が書いた日記を後から見せてもらったと聞いて、なるほどと。それから1週間もしないうちに、自分の母親に同じようなことが起きて、なんか小説の続きみたいだとびっくりしました」

父母の介護と書店存続の危機

 隆祥館書店が最大の危機に瀕したのは今から7年前、'15年のことだ。

 2月に父の善明さんが肺を患って逝去した。その前に母も脳梗塞で倒れており、父が亡くなる直前は、2人の介護に追われた。

「店の仕事もあるし、本も読まなあかん。でも、夜中は両親をトイレに連れていくでしょう。もう自分の身体が悲鳴を上げるような感じで、ドクドクドクと心臓の鼓動が速くなったりして。それが、父が亡くなって余計に余裕がなくなったんですよ。母に認知症の症状も出てきて、目を離せなくなって」

 介護に加え、二村さんを悩ませたのが書店の存続問題だ。建て替えたときの借金も残っており、心配した妹と弟に「ビルごと売ったらええやん」「1階だけコンビニにしたら」と口々に言われた。

「大型書店に比べたらすごく冷遇されているのに、何でこの本屋をやりたいんやろ」

 二村さんは眠れず、3日くらい考えた末に気づいた。

「自分はやっぱり、本を通じて、人とつながりたかったんや」

 2人にそう話すと、弟にはこんな条件を出された。

「3か月あげるわ。5月までに黒字にならへんかったら、続けるのはなしやで」

 それまで収支には波があり、父の亡くなった2月は赤字だった。

「結果を出さなあかん。イベントを増やすしかない」

 二村さんは毎週土曜日にイベントを開催した。夜を徹して本を読んで、作家に交渉して告知する。ろくに寝る間もない日々が続いた。

 そんな書店の状況を、歯科医の高山由希さん(58)は二村さんから聞いていた。あるとき高山さんが店に顔を出すと、二村さんの弟を見かけたので、こう話しかけたそうだ。

「ありがとうございます。私、近所に住んでいるんですけど、こういう本屋さんが1つあるかないかで全然違うので、すごく助かっています」

二村さんがおすすめした本を手に、常連客の高山さんと 撮影/渡邉智裕

 高山さんは10年来の常連だ。生前の善明さんのこともよく覚えていると言う。

「お父さんは物静かなんですけど包容力があって、そこにいらっしゃるだけで癒される感じの方でした。娘さんはもっと積極的です(笑)。これ、すごく勉強になるからとすすめられて、社会派の本もずいぶん読みました。『軌道 福知山線脱線事故JR西日本を変えた闘い』(松本創著)は、めちゃくちゃ感動しましたね。イベントには遺族会代表の方も来てくれて。JR西日本の安全政策まで変えた素晴らしい方やなと思って、あの方と同じ部屋にいられたことが、光栄でした」

 努力のかいがあって年間の決算も黒字になり、危機を脱した二村さん。開催頻度こそ落としたものの、その後もイベントには力を入れている。

 妹が途中で母の介護を代わってくれ、'16年に母は亡くなった。身体は楽になったはずなのに、ひとりで書店と借金を背負う重圧もあるせいか、たびたび心臓がおかしくなった。頻脈になったり、貧血になったり。3年前に手術を受け、ようやく症状が治まった。

「本は毒にも薬にもなる」

 仕事と介護に追われ、睡眠不足でヘトヘトだったとき、二村さんを支えたのはシンクロだ。28歳のときにマスターズクラスのコーチを再開して以来、ずっと続けている。

「唇ヘルペスに2度もなって病院に行ったら、身体が悲鳴を上げてると言われました。でもね、そんな状態でもプールに向かうと元気になるんですよ。その時間だけは仕事のことも考えない。プールでは無になれるんです」

書店営業後、夜は休む間もなくシンクロの指導へ。大事な息抜きの時間だという 撮影/渡邉智裕

 窮地に立たされるたびに心を奮い立たせてくれたのも、恩師の「自分で限界を決めるな」というメッセージだった。

「欲しい本が入ってこないとか、アマゾンという黒船が来たとか、これでもかー、これでも本屋をやめへんかーって試練が続くでしょう。“あー、もうあかんかなー”と思ったときに、後ろから井村先生の言葉がドーンときて、そのたびに何とか乗り越えられた。ずっと、そんな感じでしたね」

 再び、闘わざるをえない事態に直面したのは、今から3年前だ。

 取次から、差別を扇動するいわゆるヘイト本が何冊も送られてきたのだ。見計らい配本といって、書店が注文していない本が見本として送られてきて、即入金を請求される。本は基本的に委託販売なので、返本すれば後日返金されるが、小さな書店にとっては負担が大きい。

「本は薬にも毒にもなる。この本が売れるからといって、人を差別する本は売ったらあかん。本を商業主義の餌食にしたらあかんで」

 父は常々そう口にし、差別を扇動する本は置かないことをポリシーにしていた。

 そんな父の教えを守ってきた二村さんは、思い切って声を上げることにした。自分のためだけではない。疑問を抱きつつも、棚に並べている書店は多いのではないか。このまま偏った思想の本が一方的に日本中にばらまかれたら、本の信頼が損なわれると心配したからだ。

「欲しい本はこないのに、注文していない本はくる」

 Facebookに詳細を投稿すると、週刊誌やウェブ媒体から原稿依頼がくるなど大きな反響があった。店に脅迫めいた電話がかかってきて「怖かった」と言うが、弁護士などが相談に乗ってくれた。

 作家を招いたイベントのほかにも、二村さんは新しいことにチャレンジしている。

 そのひとつが『1万円選書』だ。店に来ることができない遠方のお客の役にも立ちたいと昨年6月に始めた。事前にメールでお客にアンケート(カルテ)を送り、その回答に合わせて選書した1万円分の本を配送する。

「私という人間を信じて書いてくださった、お客様の状況や悩みを読むと、情景が浮かび胸にしみます。それぞれの悩みや葛藤に寄り添うため、おひとりの選書に何日もかかることがあります。それでも、配送後に“読んでよかった”というメールをいただくと、涙があふれるほど幸せな気持ちになりますね」

 申し込みが殺到したため、現在は抽選で続けている。

 7年前から、本を通して育児を応援するイベントも始めた。結婚して母になった娘の真弓さんと赤ちゃんを連れて外出するたび、子どもに冷たい社会だと実感。憤りを覚えたのがきっかけだ。

 毎月第3水曜日に行っている「ママと赤ちゃんのための集い場」を見せてもらった。この日集まったのは、生後3か月から2歳5か月までの子どもと母親の7組。光の降り注ぐ明るいフロアを、子どもたちが元気よく歩き回る。

 臨床心理士の真弓さんが中心になって、絵本の読み聞かせをしたり、歌を歌ったり。紙コップにドングリを入れて作った楽器で合奏もした。

 最後は「お悩みシェア」の時間。1人ずつ困っていることを話していく。

「イヤイヤがひどくて」

 1人の参加者がそう話すと、ほかのママたちから「うちもそうやった」と声が上がる。真弓さんはアドバイスをし、親向けに書かれた本『子どもの心の育てかた』(佐々木正美著)と『子どもの「いや」に困ったとき読む本』(大河原美以著)を紹介した。

 1歳7か月の息子と参加した母親(34)は、子どもと2人きりでずっと家にいるのがしんどくて、4か月のときから毎回通っているという。

「常にここで悩みを話させてもらっていて、スッキリして家に帰れるから、また頑張ろうと思えます。紹介してもらったイヤイヤ期の本は2冊とも読みましたよ。知識があるだけで、なんかうん、うんって、自分に言い聞かせられるから、本って、大事やなーと」

ママと赤ちゃんが集うイベント終了後は、絵本を買う親子でにぎわう 撮影/渡邉智裕

 書店には常連客だけでなく、新しいお客も次々やってくる。

「二村さんに、自分に合う本を教えてほしくて、愛知県から来ました」

 そう声をかけてきた男性客は、自分が過去に読んだ本をズラリと書いたリストを手にしていた。

 二村さんは現在61歳。70歳になるまで、あと10年は頑張ると公言している。

 自分を救ってくれた本と書店という場所を守るため、そして、ひとりでも多くの人にこれぞと思う本を届けるため、今日も笑顔で店に立つ。

(取材・文/萩原絹代)

はぎわら・きぬよ 大学卒業後、週刊誌の記者を経て、フリーのライターになる。'90 年に渡米してニューヨークのビジュアルアート大学を卒業。'95 年に帰国後は社会問題、教育、育児などをテーマに、週刊誌や月刊誌に寄稿。著書に『死ぬまで一人』がある。