渡邉格さん麻里子さん 撮影/伊藤和幸

「うちが貧乏なのは社会のせいだ」学生時代に資本主義社会を否定する気持ちを抱き、パンクロックでその怒りを爆発させた。だが後に、パン屋を志して人生は一変。鳥取県智頭町で「カビ」を採取して食べながら研究を重ね、日本で初めて“野生の麹菌”だけでパンを作ることに成功する。パンを作れば作るほど地域も環境もよくなる最先端の「地域循環型」モデルとは―?

14年かけて「ホンモノ」に

「天然酵母のパンが好きで、週末はふたりで食べ歩きをしているんです。ここはネットの評判を見て以前から気になっていて、今日、初めて来ることができました」

 兵庫県から車を走らせて来たというご夫婦は、パンの包みを抱えながらそう話してくれた。店の前に清らかな小川を、背後には山を抱く『タルマーリー』には県を跨いで訪れる客も多く、駐車場には他府県ナンバーが並ぶ。店頭販売のみならず、感度の高い小売店での委託販売や通販も含めると、その顧客は全国に及ぶ。

4種の酵母を使い分けて作られた創造的で楽しいパンを販売している 撮影/伊藤和幸

『タルマーリー』店主の渡邉格さん(50)は、29歳で社会に出て、勤めた会社を早々に退職。突如、パン職人を志す。つらい修業を重ね、14年かけて「ホンモノ」と胸を張れる製法にたどりついた。

 パンを作るには小麦、水、塩、菌といった最低限の原材料が必要になる。市販のパンの多くはそこに卵、バター、砂糖などの副材料を加えるが、一切使わない。グルテンが少ない国産小麦を自家製粉して使用するためサクッと歯切れもいい。よって、合わせられる料理の幅も広くなる。

 最大の特徴は野生の菌のみで作ること。特に主力商品の酒種パンには酵母、乳酸菌、麹菌と3種の菌が必要だ。

 野生の麹菌を採取するのは難しく、クリアな里山環境が必須となる。格さんは、参考文献が一切ない中、独学で天然の麹菌を採取することに挑戦。菌の世界にのめり込んだ。

「いろんなカビを採取して、それが麹菌なのか確かめるために味見を繰り返したんです。“父ちゃんはカビを食べる人”と子どもたちに面白がられました。まさか自分でもカビを食べる人生を送るとは思いもしませんでした(笑)」

 舐めた途端に身体中を寒気が走る“ヤバい味”に遭遇したことも1度や2度ではない。結局、野生の麹菌を採取するまでに数年を要した。

 格さんが菌の研究とパン作りに没頭できたのは、店の経営と子育てを妻・麻里子さん(43)が引き受け、支えたからだ。

「まぁ、好きにさせてあげたといいますか。そこで、妻への感謝の言葉なんかがあるといいんですけどね」

「妻には感謝しています、って書いておいてくださいね」

 格さん、麻里子さんが漫才のような会話を繰り広げる傍らで、製造・販売合わせて8人のスタッフと4人の研修生がいきいきと働いている。驚いたことに、彼らは週休2日で年に一度は1か月の有給休暇がとれる。店では、週の初めに1週間分の生地作りをまとめて行い、時間をかけて発酵させる“タルマーリー式長時間低温発酵法”を採用。野生の菌の力を借りた仕込み法が、スタッフの十分な休暇にもつながった。

天然酵母パン 撮影/伊藤和幸

 現在、パン作りの中核を担う境晋太郎さんは、格さんの本を読んで感銘を受け、1週間もしないうちにクライミングのインストラクターを辞職。講演会に足を運び、「ここで働きたい」と直談判の末、妻子をともない北九州から移住してきた。タルマーリーで働き始めて6年目になる。

「野生の菌って毎日違う動きをするので飽きないんですよね。だからこそうまくいかないことも多いのですが、“失敗しました”と格さんに報告すると、“お、これはチャンスだ!”って感じで楽しんでいるように見えるんです。だから前向きに原因を追究したくなる。毎日が楽しいですね。

 お店を海賊船にたとえるなら、格さんがやんちゃな船長で、麻里子さんはルートを読む航海士って感じでしょうか。無謀に思えることも少しずつ実現していっているのは麻里子さんのおかげだと思います。たまに格さんが調子に乗りすぎて、スタッフの前で麻里子さんにすごく怒られているのが面白いです(笑)」

◆   ◆   ◆

バンドを組んで自分を解放

「格さんの作業はとにかくキレイ。無駄な動きがなく、周りも自分も汚さないんです」

 境さんが感嘆する格さんのパン作りだが、もともとパンに興味があったわけではない。

 生まれは1971年、東京都東大和市。生家の団地があった多摩地区には、まだ里山の自然が残っていた。

「父は僕が高校生のときに大学の教授になるのですが、それまでは塾の講師をしながら食いつないでいて、家は貧乏でした。

 その時代の小学生って4年生ぐらいまでは男女同じ教室で着替えるじゃないですか。そのとき、女の子たちに『それ、女子が着るものよ』と指摘されて、初めて自分が女もののシュミーズを着ていることに気づくわけです。それは姉のおさがり。ちなみにパンツは父のおさがりでした」

 時は高度経済成長の真っただ中。ザリガニが釣れる池は埋め立てられ、造成された土地に家が建ち並ぶ。両親は仕事で帰ってくるのが遅く、子どもたちだけで過ごす時間も多かった。

 そんな原体験から、格少年は「うちが貧乏なのは社会のせいだ」と、資本主義社会への怒りやお金を否定する気持ちを育んでゆく。中学2年になると、学校や社会に対する怒りを熱量高く放出するパンクロックに出会った。

「初めて(バンド)LAUGHIN'NOSEを聴いたとき、自分が抱いていた怒りはこれだ!と感じて、高校に入ってすぐバンドを組んだんです。それが自分を解放する初めての体験だったかもしれません」

 高校3年生のとき、文化祭でゲリラライブを敢行した。参加者は7名。綿密に計画を立て、演奏担当と消火器を噴射する係に分かれた。盛り上がるかと思いきや、ほかの生徒からわき起こったのは歓声ではなく「帰れ!」コール。停学を言い渡された格さんは、謹慎明けにヘアスタイルをモヒカンに変えた。

パンクバンドを組んでいた当時のモヒカンヘア(右)

「当時はなぜそうしたのか言語化できませんでしたが、怒りもありましたし、他者と自分を隔てるものを見つけてアイデンティティーを確立したかったんだと思います。そのまま身を持ち崩し、高校卒業後はパチプロになりました」

 しかし、生来の気の弱さと飽きっぽさから、すぐに自堕落な生活がイヤになった。数か月後に運送会社で働きはじめ、バンドも復活。高円寺や新宿のライブハウスに立つ一方で、クルマのチームに出入りするようになった。仲間たちと夜な夜なクルマを転がし、そのまま仕事に向かう日々。

「こういうのを刺激が刺激を食うというんですかね。そんな暮らしをしていると、社会に取り残された感があって、何をしてもつまらなくなって、死にたくなるんです。でも、気が弱いから死ねなかった。これってとても大事なこと」

 状況を打破したくて、仕事でハンガリーに行く父親についていった23歳のとき。1年間のハンガリー生活がもたらした影響は大きかった。

「向こうでオリンピックの強化選手やバレリーナなど、自分の夢に向かって打ち込んでいる同世代に出会い、みんながよくしてくれたんです。一方の自分には何もない。みじめでしたね。

 意識してそうしたわけではないのですが、化学物質をとらない生活をしていたのも大きかった。健康になって、感覚も鋭くなって、初めて身体は嘘をつかないと知りました。それに、貧乏でもみんな幸せそうで、1日1本のビールでずっと笑っているオジサンとかいるわけです。それって、食が豊かだからなんですよね」

 帰国後、空港で缶コーヒーを飲んだ格さんは、まるで絵の具を飲んでいるように感じて驚く。バンド時代はタバコと缶コーヒーがステータスだったのに、だ。そこで身体に興味を持ち、医者になりたいと思い立つ。しかし、高1から勉強はしたことがなく、英語のGirlも「ギルル」と発音していたほど。

 猛勉強の末、2年後に千葉大学の園芸学部に入学。健やかな身体を保つには食べ物が大切だと痛感したからだ。卒業後は農家になろうと考えたこともあるが、父やゼミの教授に就職をすすめられ、有機農産物を扱う企業に入社。20代最後の年、格さんはそこで運命の人と出会う。

新婚生活と暗黒のパン屋修業

「優秀な学生をとったので、残念だけど君は無理だな」

 会社の採用面接で、格さんに放たれたのは驚きのひと言だった。その優秀な学生こそが麻里子さんだ。結局、大学のサークル活動の経験を活かし、会社が主催する若者向けの農業振興イベントでも多くの学生を集めた手腕を買われ、格さんも無事に就職。

「そのイベントでマリと一緒に司会をしたとき、こっちはノリでいいじゃんみたいな態度でいたら、向こうは何時何分に何を話すみたいな進行表をきちんと作ってきたんです。真逆ですよね。だけど、話すうちに共通項が多いこともわかってきました。自然が好きで、お互い社会に対する怒りみたいなものも持っていて」

 東京生まれの麻里子さんも、いつか家族でできる何かを生業にしながら田舎で暮らしたいというビジョンを昔から持っていた。

 ふたりの距離は徐々に縮まっていったが、正義感の強い格さんには社会に出て初めての洗礼が待っていた。産地偽装などの不正がどうしても許せず上司にたてつき、社内で孤立していったのだ。

同僚だった麻里子さんとの結婚式

「パンクスって見た目は怖いけれど、中身はキレイなやつばかりなんです。パンクの世界にこんな悪いやつはいなかったのに……と思って、当時は本当にイヤでしたね」

 過度のストレスから、突然、鼻血を出すなどの体調不良が続く。そんなある日、格さんの夢に祖父が現れ、「おまえはパン屋をやりなさい」と告げた。パンの作り方など何ひとつ知らなかったが、その道があったかと腹を決めた。麻里子さんが当時を振り返る。

「学生時代はサークルのトップで仕切っていた人が社会に出て現実に触れ、撃沈。でも、この年になって会社を辞めたら俺の人生どうなるんだろう?とかなり滅入っていましたね。この人が元気になるんだったら何でもいいと思って、“パン屋さんいいじゃん。やりたいことやりなよ”って」

 会社を辞め、同棲を始めたふたりは人生の舵を大きく切った。しかし、最初の数か月は地獄だったと口をそろえる。

「まずは修業だと、朝5時から17時までのパン屋で勤め始めたんです。ところが、初日に“明日から2時に来て”と言われ、17時になっても帰れない日々がしばらく続きました。休憩時間もなく、作業をしながら持参のおにぎりを食べるだけ。いま思えば、段取りが悪くて仕事ができない自分のせいなんですけどね」

 甘い新婚生活とは程遠い日々。その後、自家製天然酵母を使ったパン屋で学ぶ機会を得たが、シェフが体調を崩してあえなく閉店。

 生活の安定も考えて、フランチャイズのパン屋に勤めたこともある。店長を任されたが、製造工程がオートメーション化されており、毎日同じ時間に同じパンを焼く日々。

「生地だけ作ったら、あんこなどの副材料は袋を開けて詰めるだけ。分業の一部を担っているだけで、全く面白くない。それで、やはり自分は天然酵母のパンでいこうと。飽きない生き方をするのは、すごく大事だと思いましたね」

 麻里子さんから見て、「パン修業の中では、そのころがいちばん病んでいた」という。

 4軒目に勤めた『ルヴァン』は、天然酵母パンの草分け的存在。常に生地が変化するため失敗もあったが、仕事が楽しくて仕方なかった。しかし、2年で辞めようと決めていた。いよいよ自分たちの店を持つためだ。その間、徹底的に努力して、パンに関するあらゆる知識を身につけた。4軒にわたるパン屋修業は5年に及ぼうとしていた。

バイク事故で砕けた「3億円の価値」

 実は修業中、渡邉家に最大のピンチが訪れていた。バイクで通勤中の格さんがトラックに左肩と肩甲骨を轢かれ、複雑骨折する大ケガを負ったのだ。

「事故に遭ったとき、なぜかすぐ立ち上がって“ラッキーだな、俺”と思ったのを覚えています。その後、すぐにひざから崩れ落ちましたけど」

修業当初は「独立できる気がしなかった」と格さん。麻里子さんは修業に専念できる環境をつくり、支えた 撮影/伊藤和幸

 格さんが一瞬でもラッキーと思ったのにはわけがある。'90年代、ネット上の設問に答えて人間の価値を算出するゲームが大流行。テレビでは錚々(そうそう)たる著名人が「俺は2億円」「こっちは1億8千万円」とはしゃいでいる。大学時代、同じゲームをやってみた格さんの結果は日本第1位。なぜか運だけが特出しており、その価値は3億円を超えていた。

「ただのゲームですが、運だけは最後の自信としてずっと持ち続けていたんです。みじめな思いを抱えた一方で、いつか自分はいっぱしのものになるという根拠のない自信も持っていて。それがこの一件で、自分は事故るし、死ぬ可能性もある。運だけではやっていけないと思えたんです」

 ここで努力して根を広げなければと奮起するきっかけになったバイク事故。「自分にとっていちばんいい経験だった」と格さんは語る。

 入院中は乳酸菌の専門書を読み込み、1か月で職場に復帰した。並行して製パン理論を丸暗記。日本酒の醸造方法も学び、まだ見ぬ自分の店で将来的にエースになる酒種パンも開発した。 

 2008年、千葉県いすみ市に念願の天然酵母パンの店をオープン。ふたりで貯めた500万円を軍資金に、足りない部分はDIYで補った。名前の『タルマーリー』は、イタルとマリコから取った。

 少しずつ取引先も増えていったある日、自然食品店『ナチュラル・ハーモニー』の開発担当者が店を訪れた。

 そこで、「純粋培養した麹ではなく天然麹菌でパンが作れたら日本初になりますよ」とハッパをかけられる。

「俺はこれを成し遂げるために生まれてきたんだ!と思いました。けれど、そこからが大変だったんです」

 それまで、酒種パンの製造に必要な3つの菌のうち酵母と乳酸菌は野生のものを採取し、麹菌は購入していた。すべてを野生の菌にするために、まずは老舗の味噌屋から天然麹を分けてもらう。

 ところが、野生の菌は純粋培養の菌とまるで勝手が違い、今まで作っていたパンが全く膨らまない。試行錯誤を繰り返すが、納得のいかないパンができてしまうことも多かった。

「落ち込みましたね。自分ひとりだったら、値段を下げていたと思います。作り手にとって金額のプレッシャーってものすごいんですよ。いい原材料、高い技術で値段に見合った商品を出さなければいけませんから」

 その重圧を抱えながら、菌を探して野山をうろつく。1年目はダメで、似た菌は採取できたものの2年目も野生の麹菌には出会えなかった。

「このパンは〝本当にオリジナリティーと言えるか〟という視点で苦しんだ時期もある」と格さん 撮影/伊藤和幸

「うちは野生の麹菌を使っているので、図らずも欠品してしまうこともあります」

 問い合わせがあると、まず丁寧にそう伝え、理解してもらえる取引先だけが残った。欠品の際は、酒種以外を使ったパンで急場をしのいだ。それでも麻里子さんは、頑として値段を下げなかった。

「天然の麹菌を使うようになって、欠品も増えました。でも、天然ってそういうものだし、わかってもらえるまで相手に伝えるしかない。そこで自信を持って“欠品です。なぜなら……”と言えるのが私の特殊技能らしいと最近わかりました(笑)」

 試行錯誤しているうちに、無肥料無農薬の自然栽培米を使って酒種を作るとうまく膨らむことがわかった。しかし子どもは小さく、パン作りもまだまだ不安定な状態……。

 そんな若夫婦に手を差し伸べたのは、東京に住む麻里子さんの母・利恵子さん(74)だ。しばしば千葉まで足を運び、家事や育児をはじめ、麻里子さんが息子のヒカルくんを自宅で出産したときも手伝った。ふたりのことを「お互いが影響しあえるいい夫婦」と温かく見守る心強い存在だ。

 野生の麹を採取するためには、よりクリーンな環境に移る必要があることに気づいていたものの、この場を離れるなんて考えられない……。そう思っていた矢先、東日本大震災が起きた。子どもたちが小さいこともあり、放射性物質も気になる。

 2012年、一家はより水のきれいな環境を求め、親戚も知り合いもいない岡山県勝山に移り住んだ。

主力スタッフの辞職で移転を即決

「菌を採るのは虫を獲るのと似ているんです。自然のない都会でカブトムシを飼おうと思ったらお店で買うしかないですが、郊外に行ってメロンを置いておけば、カナブンやコクワガタが飛んでくる。さらに田舎に行けば、よりレアなミヤマクワガタやカブトムシが飛んできます」

 勝山では、ついに野生の麹菌の採取に成功。初めての著書『田舎のパン屋が見つけた「腐る経済」』も好評で、韓国では翻訳本がベストセラーに。2014年、フジテレビ『新報道2001』で特集を組まれたときは、店の前に連日行列ができ、開店からわずか2時間ですべてのパンが売り切れたほど。

 しかし、渡邉夫妻の心中は穏やかではなかった。その1週間前、主力だった女性スタッフから、「おふたりのやり方には、もうついていけません」と告げられ、ほかのスタッフもそれに続いたのだ。

「天然酵母は発酵の温度調整が難しい」と境さん 撮影/伊藤和幸

「いま考えると、そのころは原理主義者になっていました。パンの材料は自然栽培でなければならないし、スタッフにも、あれはするな、これをしろとエゴを押しつけていたんです。僕自身に余裕がなく、怒鳴ることもありました」

 麻里子さんも当時を「未熟な組織でした」と振り返る。この反省をもとに、少しずつ勤務体系を改善してきた。

 自家製粉するための機械を導入するも、不具合から小麦が漏れ出し、ネズミが集まってしまったこともある。

「うつっぽくなったときも、バイク事故でケガしたときも、変化することでよりよい方向に進んできました。それと一緒で、根元が腐っていると思ったんです。何かの警告だという思いもあり、1日で勝山の店を閉めようと決めました」

 テレビ放映直後、繁盛している店を閉めてイチから出直すのは容易いことではない。庭を整備し、ウッドデッキを作るなど環境を整えてきた麻里子さんはなおさらだろう。

「いいえ、移転に完全同意でした。パンだけでなくビールも作りたいという格の夢と、子育て環境をなんとかしたいという私の思いは、移転しないと実現できないと直感していたんです。でも周りの人にとっては突発的で意味不明な行動に映ったと思います」

 2015年、元保育園だった可愛らしい建物をまたもやDIYで改装し、鳥取県智頭町での生活がスタート。

 智頭に移ってから格さんは、培ってきた醸造知識をもとにビールを造ろうと、晴れて酒造免許を取得。自身はビール職人に転向し、先の境さんほかスタッフにパン作りを任せるようになった。

 このとき、ビール酵母を使ったパン作りにも挑戦し『タルマーリー式長時間低温発酵法」を開発。1週間分の生地をまとめて作り、時間をかけて発酵させる製法で、生地作りの頻度は減り、パン職人の働きやすさにもつながったのは先述したとおり。

「野生の菌の生命力って本当にすごいんです。純粋培養の酵母は長時間、低温にさらすと死にますが、野生の酵母は冷蔵庫に入れても死なない。ですから、うちの生地を冷蔵庫から出して温度を上げてあげると、ちゃんと発酵してパンになるんです」

全粒粉酵母の田舎パンの生地 撮影/伊藤和幸

 実は麻里子さん、格さんが天然の麹菌を探し続けていたときも、野生の菌だけで作るパンやビールに挑戦し、何度も失敗したときも、「もうやめたら?」と思ったことはないという。

「あ~……なんででしょうね。私たちは単なるパン屋さんになりたかったわけではなく、かといって名を挙げたかったわけでもなくて。パンとビールを作れば作るほど、地域社会と環境がよくなるような社会モデルを世の中に打ち出したかったんです。だから、麹菌探しやパン作りを諦めるという選択肢はなかった。格は気力も体力も半端なかったと思います」

 そうやって生み出した大切なパンが、大雪や大雨で客足を阻まれ売れ残ることがある。ここ2年はコロナ禍もあり人の流れが読みにくかった。そこで「パンが売れ残ったら、うちに送っていいよ!」という応援者を募るレスキュー制度を作ったのも麻里子さんだ。現在、登録者は1000人を越えている。

「なんでも見せる」渡邉家の子育て

 格さんがパン作りに集中できるよう、曰く「鬼の形相で」それを阻害するすべての要素と闘ってきた麻里子さん。と同時に、移転に伴う子どもたちの教育や環境の変化は長年の懸案事項だった。

渡邉一家。モコさんは忙しい両親に代わり、小学4年生で週末の夕飯作りを担当していた 撮影/伊藤和幸

「高学歴を目指してほしいわけではないのですが、『田舎にいたから教育機会が少なかった』というのを言い訳にしたくなかったんです」

 特に子どものうちは自然の中でのびのび遊ばせたいと思っていたが、現代の保育園は安全を重視し、子どもを危険から遠ざける傾向にある。そんな中、見つけたのが「智頭町森のようちえん まるたんぼう」だ。園舎のないこの幼稚園では、野外で身体を動かし、自然に学び、自分の頭で考えることをモットーとしている。ぽっちゃり体形だったヒカルくんも、森で遊ぶようになってから徐々に身体が引き締まっていった。

「高い木に登れるなど身体能力が上がり、食べられる山菜などの知識も増えました。『森のようちえん』に行けて本当によかったと思います」

元保育園の教室を活かしたカフェスペース 撮影/伊藤和幸

 幼すぎたヒカルくんが、千葉や岡山でのことをあまり覚えていない一方で、東京生まれの長女・モコさんは物心がついてから3度の大きな移住を経験してきた。

「岡山時代は暗黒でした。2人が食の安全性を気にして、給食の時間に私だけ持参のお弁当の日もあったんです。それがつらくて、そのころはなんでこんな家に生まれたんだろうと思っていました。だけど智頭に越して以降、その気持ちは消えました。徐々に、親がやりたいことが理解できてきたんでしょうね」

 その思いは行動にも表れた。モコさんが自ら編入を希望した青翔開智中学の試験には、面接とプレゼンがある。テーマは「あなたが考える鳥取県の課題とその解決方法」。そこで、両親がなぜ智頭にやってきたかや智頭の美しい環境を保全していくことの大切さを語り、将来は自分がやりたい分野でそれを表現していきたいと締めくくったのだ。無事に合格し、いまは中高一貫の同校の高等部に通っている。

「人間力を試す授業が多い学校なので、最近はこの家に生まれてよかったと思うことが多いです。何度も転校したおかげで都会と田舎のいいところもそうでないところも見ることができたし、お父さんの仕事に一緒に行けて、いろんな人と関われたので」

 編入試験のプレゼンは、麻里子さんにとっても忘れられないものになった。

「転校ばかりで、モコに苦労させちゃったことがずっと気がかりだったんです。でも、足りないことがあればどう補えばよいかを自分で考えられる逞しい子に育ってくれました」

カフェスペースではピザやイノシシバーガー、ピタサンドのほか自家製ビールも味わえる

 渡邉家では、食卓ではみんなで話をする。夫婦ゲンカも隠さない。

 国内外で行われる格さんの講演にも子どもたちを連れていく。そうやって幼いころから社会に触れてきたからだろうか。モコさんもヒカルくんも、大人相手に物おじせず、自分の言葉でしっかり話す。ヒカルくんは、小6にして将来、自分の店を持ちたいと考えている。

「お父さんもお母さんもずっと一生懸命やってきたから、今の店があるのだと思います。だから僕も『タルマーリー』を継ぐのではなく、イチから積み上げてみたいんです」

菌が教えてくれた「共生」

「お父さんとお母さんの成長に合わせて、どんどん大きくなっているお店」とモコさんが語る『タルマーリー』は、いまなお拡大中。

 年商6900万円まで成長した。今年4月の開業を目指し、智頭で2軒目の店も絶賛DIY中だという。新しい店舗は長期滞在者用のホテルとビアバー、ミニシアターを兼ねている。面白い場を増やし、特技を持った面白い人たちが集まってくれば、地域内の経済循環とともに活気が生まれ、理想の町モデルを地方から発信していけるという思いがあるからだ。

2軒目ではコーヒーの自家焙煎をする機械導入も進めている 撮影/伊藤和幸

 麻里子さんにも大きな変化があった。これまで店と子育てに奔走する中で自分の時間を持つゆとりはなかったが、ここにきて志を同じくする友人ができたのだ。

 そのうちのひとり竹内麻紀さんは、カフェ&ゲストハウス『楽之』を営んでいる。

「麻里子さんは、地元生まれの私が今まで気づかなかったけれど、聞くと“そうだ、そうだ”と思えることを簡潔に言葉にしてくれる人。媚びないし、芯があってぶれないところを見ると、自分も頑張ろうと思えます。“私は愛想笑いできない”というけれど、彼女の自然な笑顔が好きです」

 意気投合した女性4名と、「智頭やどり木協議会」を立ち上げた。人口減少や産業の衰退、空き家問題といった社会課題に取り組んでいる。

「スタッフが挑戦したいことを叶えてあげたい」と格さん 撮影/伊藤和幸

「今までの私は格に前に出てもらって、あくまで『私はサポーターです』って姿勢で逃げていたんです。自分中心に物事を考えたことがなかったし、自信もなかった。一方、『タルマーリー』が認知されていくなかで、世間が渡邉格しか認識していない状況に嫉妬もしていて。そこはズルかったと思います」

 智頭に移った当初は従業員が安定せず、自分がお店を取り仕切るのははたしていいことなのか?と自問したこともある。自分が店を辞めるか、夫婦を辞めるかとまで思いつめたこともあった。

「どちらも続けていこうと思えたのは、子どもたちの成長のおかげで自信が持てるようになったのもありますが、自分が何をしたいかを意識的に考えるようになって、人に責任を押しつける体質から抜けられたのが大きいと思います。

 智頭って本当に素敵なところなんです。だけど、過疎化が進んで消滅してしまうかもしれない。だから、誰にとっても楽しく暮らせる場所にしたい。お店や子どものためではなく、これは自分がやりたくてやっていることなんです」

 格さんは、智頭を自分のようにバカな青春を送ってきた若者が開花できる場にしたいと考えている。

「いま、日本中から若い人が、ウチの技術を身につけたいと集まってきています。私自身も、パンやビールはもちろんDIYで培った大工仕事など生きる技術すべてを彼らに渡したいんです。智頭町には空き家がたくさんあります。そこに共有地を作り、若い人にどんどん来てもらえれば、生活が安定して、やりたいことにチャレンジしやすくなる。彼らの才能を開花させやすくなるじゃないですか」

「自然が残る智頭町での豊かな暮らしを追求したい」と麻里子さん

 超合理化社会は、画一化した価値観や考え方を推し進める。しかし、それぞれ異なる考え方や能力を持った人間がいて、みなが活気を持ってその能力を発揮できる仕事に就き、緩やかに影響しあえる場こそいま必要なのではと格さんは考えている。それらはすべて、“あらゆる存在は意味があって存在している”と教えてくれた菌から学んだことだ。

 子どもたちから「気の抜けたヤギみたい」と言われるほど穏やかになった格さん。菌に学んだ今、社会に対する怒りは影を潜めているのだろうか?

「いいえ、丸くはなりましたけど、今のほうが怒っています。産地偽装とか嘘をついている個々のお店や会社に対する怒りではなく、そうせざるをえないような社会にしている仕組みや制度に対して。この年で再モヒカンにしようかなと思うぐらいに(笑)」

〈取材・文/山脇麻生〉

 やまわき・まお ●編集者、漫画誌編集長を経て'01年よりフリー。『朝日新聞』『週刊SPA!』『日経エンタテインメント!』などでコミック評を執筆。また、各紙誌にて文化人・著名人のインタビューや食・酒・地域創生に関する記事を執筆