「花の中三トリオ」(上段左から桜田淳子、森昌子、山口百恵さん)、下段は中森明菜とピンク・レディー

 山口百恵さん(63)、森昌子(63)、桜田淳子(63)、岩崎宏美(63)、片平なぎさ(62)、ピンク・レディー、石野真子(61)、小泉今日子(56)、中森明菜(56)……。

 彼女たちには共通点がある。ピンと来る人は多いだろう。全員、日本テレビのオーディション番組『スター誕生!』(1971年~1983年)の出身者である。

 この番組へ出場を申し込んだ人は約200万人。その中からデビューを遂げた人は88組91人いる。終了から38年目が過ぎたものの、現在も現役で活躍する人が少なくない。

 これほど成功を収めたオーディション番組は後にも先にも存在しない。どうして数々のスターを生むことが出来たのだろう。また、どうして番組は消えたのか。

日テレと渡辺プロの“関係”

 当時の事情を知る元日本テレビ幹部と元大手レコード会社幹部に聞いた。

 まず、「『スタ誕』が生まれた経緯には大人の事情があるんです」と語るのは日テレ元幹部。背景には次のような話があったという。

 『スタ誕』の誕生前、日テレには『タレントスカウトショー あなた出番です!』(1966年~1969年)というオーディション番組があった。制作に深く関わっていたのは当時の芸能界に君臨していた芸能事務所の渡辺プロダクション。ここで発掘された新人はすべて同社からデビューした。

「ウチとしてはほかのプロダクションともお付き合いしたかった上、そもそも当時は渡辺プロへの不満が溜まっていた。そんな下地があったので、渡辺プロを除いた約40社のプロダクションとレコード会社に参加してもらい、『スタ誕』をつくったんです」(同・元日テレ幹部)

『スター誕生!』(左から)森昌子、桜田淳子、岩崎宏美、ピンク・レディー、萩本欽一

 ケンカを売られた渡辺プロも黙ってはいない。新しいオーディション番組をフジテレビと一緒につくった。『君こそスターだ!』(1973年~1980年)である。放送時間帯も『スタ誕』が日曜午前11時だったので、それより早い同10時からとした。

 『君スタ』からは林寛子(62)、高田みづえ(61)、石川ひとみ(62)たちがデビューした。所属先は必ずしも渡辺プロではなく、さまざまだった。

 日テレと渡辺プロには確執が生じていたが、渡辺プロと大半のプロダクションにはわだかまりがなかったからである。当時の芸能プロには渡辺プロ出身者が多かったことが大きく影響した。

 日テレと渡辺プロの対立は図らずもオーディション番組の黄金期を招く。

「審査員も張り合い、『スタ誕』の顔が作詞家の阿久悠さんだったのに対し、『君スタ』はライバルのなかにし礼さんを起用。充実していました」(同・元日テレ幹部)

 『スタ誕』の場合、予選大会の通過者が決勝大会に進み、プロダクション、レコード会社が「獲りたい」と思うと、社名入りのプラカードを上げた。この仕組みが功を奏したとよく聞く。

「視聴者が見ている前で獲得を宣言するから、みんな責任感が増すんですよ。視聴者が将来を期待した人を失敗させる訳にはいきませんから」(元レコード会社幹部)

アイドルが“儲かった”時代

『スター誕生!』450回記念パーティーにて。初代司会者の萩本欽一と2代目司会者を務めたタモリと谷隼人(岩谷隆広)

 ちなみにもっとも多くプラカードが上がったのは桜田淳子の25本。1972年9月、4回目の決勝大会でのことで、当時の桜田は14歳だった。

 同い年の百恵さんが応募したのはその直後。自分と妹を1人で育てていた母親を経済的に助けようと考えてのことだった。百恵さんのプラカードは20本。7年間におよんだ百恵伝説の幕開けだった。

 透明性が確保された番組のようで、実は決勝大会前に下見の機会が設けられていた。ここでプロダクション、レコード会社は「あの子を獲り、こんな路線で売ろう」などと作戦を練った。

 また、プラカードが複数上がった場合、本人と家族が各社と面接し、待遇や条件を吟味。その上で所属先の最終決定は日テレ側が行なった。

「この慎重さも結果的にはよかった。ミスマッチが極力防がれた。また、日テレが有望な人材を特定の会社に集中させなかったから、お互いにライバルなのに各社から不満が出なかった」(同・元レコード会社幹部)

 例えば1981年には3月に小泉今日子が決勝大会で合格。その4か月後の7月、中森明菜がやはり合格したが、日テレの意思によって2人は同じプロダクション、レコード会社にはならなかった。

小泉今日子

「本当は多くの社が2人とも欲しかったんです。図抜けた存在でしたから。けれど日テレがそれを許さなかった」(同・元レコード会社幹部)

 すべてはプロデューサーの故・池田文雄さんの考えだった。中学から大学まで慶応で音楽に没頭し、大学時代はダーク・ダックスと一緒に男性合唱団の活動をした人だった。

 時代も『スタ誕』に味方した。

「くしくも1970年代、80年代は各社がアイドルに力を注いだんです。理由は単純明快。アイドルは絶好のビジネスでしたから。それまで主流だった歌謡曲の歌手や演歌歌手、フォーク歌手と違い、レコードが売れるだけでなく、ドラマや映画もつくれる。CMの仕事も来る。あの時代、芸能人でもっとも商品価値が高かったのはアイドル。各社とも『スタ誕』から目が離せなかった」(同・元レコード会社幹部)

 たしかに百恵さんはレコードが売れたのみならず、主演映画13本はすべてヒットした。1980年代から90年代の小泉今日子はCM女王の名を欲しいままにした。

 では、どうして『スタ誕』は消えたのか。

「ホリプロ・スカウトキャラバンが1976年に始まるなど各社が自前でオーディションをやるようになり、『スタ誕』に出るメリットが乏しくなりましたからね。各社としてみたら、ウチに仕切られるより、やりやすいし、アイドル志願者もプロダクションやレコード会社のオーディションのほうが歌手デビューや映画出演などの近道と考えた」(同・元日テレ幹部)

 有望なアイドル志願者が流出したことが一番の理由になり、1970年代には15%を超えていた世帯視聴率が、80年代に入ると10%に届かなくなった。これでは存続が難しかった。

 役割を終えた『スタ誕』が消えるのは歴史の必然だった。

高堀冬彦(放送コラムニスト、ジャーナリスト)
1964年、茨城県生まれ。スポーツニッポン新聞社文化部記者(放送担当)、「サンデー毎日」(毎日新聞出版社)編集次長などを経て2019年に独立