'74年に行われたコンサートでは、彼に少しでも近づきたい女性が身を乗り出して応援した

  歌手の西城秀樹さんが63歳の生涯を閉じてから5月で4年が経つ。生きていたら3月下旬にデビュー50周年を迎えるはずだった。

 もっとも、ファンたちは天国の秀樹さんに向かって50周年を盛大に祝う。4月には神奈川県民ホール(横浜市)とオリックス劇場(大阪)で映像での50周年コンサート『HIDEKI SAIJO CONCERT 2022 THE 50』が行なわれる。すでに大入りが確実視されているという。

ファンを楽しませる“エンターテイナー”

 ファンクラブも解散されていない。3月には50年の軌跡を収めた7枚組DVDもソニーミュージックからリリースされる。なぜ、秀樹さんのファンは熱いのか。

 芸能ジャーナリストの渡邉裕二氏が解説する。

「ヒット曲が多かった上、秀樹さん自身が熱い人で、いつも時代の先端を走る人だったことも大きい。今では当たり前になったマイクスタンドを使ったパフォーマンスも西城さんが1974年に『薔薇の鎖』を歌った際にやったものです」

'80年に派手なマイクパフォーマンスを披露

 同じ年には球場でのワンマンコンサートを日本人として大阪スタヂアムで初めて行った。当時、ほかの歌手たちは音響面や集客面、警備面などを不安視し、球場の使用には二の足を踏んでいた。

「1979年には『YOUNG MAN (Y.M.C.A.)』を大ヒットさせましたが、ファンと一緒に楽しめる振り付けを採用したのも、秀樹さんが初めてなのはご存じの通りです」(前出・渡邉氏)

 そんな秀樹さんの姿勢にはサザンオールスターズの桑田佳祐(66)も早くから敬意を示し、1995年のサザンのコンサートに特別ゲストとして招いて、「素晴らしいエンターテイナー!」と讃えた。

 ファンを大切にする人でもあった。秀樹さんのコンサートに携わった経験のあるホール関係者が語る。

「秀樹さんは公表されただけで3回、脳梗塞で倒れたが、毎回、なるべく早く復帰しようと努めていた。ファンが待っているのが分かっていたからね。あの人くらいになると、カネじゃ動かない」

 倒れたのは2001年と2003年と2011年とされていた。だが、秀樹さんの没後に夫人が著書で明かしたところによると、計8回も脳梗塞を発症していた。

「楽屋でつらそうなこともあった。ステージ上で歌や動きがぎこちないことも。話すだけでもしんどそうで、杖を使わずに歩くのが難しいこともあったので、当たり前です。でも秀樹さんのファンにはそんなことはどうでもよかった」(前出・ホール関係者)

'15年4月に行われた還暦ライブでは、熱唱して会場を沸かせた

 2016年、東京・中野サンプラザホールなどで行われたデビュー45周年記念コンサート『HIDEKI SAIJO 45th ANNIVERSARY CONCERT 2016』での秀樹さんは、体を思うように動かせない一幕があったが、懸命に歌い、踊った。

 それを見てファンたちは熱狂。号泣するファンも続出した。何があろうが全力で生きる秀樹さんの姿に、ファンは胸を打たれていた。

「秀樹さんのコンサートで勉強させてもらったと思うのは、ファンというものは単に歌を聴きに来ているんじゃないということ。アーティストの生き様も見たいと思っている。コンサートで『声が出ていない』とか『口パクだったんじゃないか』などと言っているうちは本当のファンではない気がする」(前出・ホール関係者)

 秀樹さんのファンは彼の生き方に惚れ込んでいた訳だ。いまだ熱いのもうなずける。

取材で見えた、人柄の良さ

 サザンの桑田が敬うくらいだから、歌もうまかった。TBS『ザ・ベストテン』(1978年~89年)の司会を務め、さまざまな歌手と接してきた黒柳徹子(88)も「あんなに歌のうまい人はいない」と歌唱力を絶賛していた。

新御三家(西城秀樹郷ひろみ野口五郎)(昭和49年)

 具体的に歌がどう、うまかったのか。秀樹さんがデビュー時に所属していたビクター音楽産業(現JVCケンウッド・ビクターエンタテインメント)の元制作スタッフが解説する。

「『情熱の嵐』(1973年)のようなシャウト系の歌も『ブルースカイブルー』(1978年)みたいなバラードも完璧に歌えた。発声のコントロールがきちんとできていたからです。シャウト系もバラードも歌える人は数少ない。どちらも歌うのは難しいんです。かなり高い歌唱力を持っている人でないと無理

 またシャウト系の歌には歌唱力が表れやすいそうだ。

「うまくない人が歌うと、がなっているように聴こえてしまいますから。秀樹さんは違った。しっとりしたバラードもうまく、味もあった。デビュー時点から歌のうまい人でしたが、経験を積むうち、よりうまくなりました。売れてからも一生懸命やる人でしたから」(前出・元ビクター制作幹部)

 人柄が良かったこともファンを惹き付け続ける理由だろう。

 筆者が秀樹さんとお会いしたのは2013年5月だった。TBSの名作ドラマ『寺内貫太郎一家』(1974年、パート2は翌75年)についての座談会出席をお願いした。秀樹さんの父親・貫太郎役だった故・小林亜星さんと同局の演出家だった故・鴨下信一さんが同席した。

『寺内貫太郎一家』謝恩パーティーの亜星さんと西城秀樹さん(右)。左は梶芽衣子(1974年8月撮影)

 秀樹さんは時折、声を出しにくそうな場面があった。それでも笑顔を絶やさず、「このドラマが成功したのは、貫太郎役が亜星さんだったからだよ」と小林さんを讃えて、一方で鴨下さんを立てた。

 秀樹さんの人気がこのドラマを支えていた一面もあるのに、自分のことはほとんど語ろうとしなかった。

 4月の50周年コンサートをファンは心待ちにしているだろう。

高堀冬彦(放送コラムニスト、ジャーナリスト)
1964年、茨城県生まれ。スポーツニッポン新聞社文化部記者(放送担当)、「サンデー毎日」(毎日新聞出版社)編集次長などを経て2019年に独立