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 岡山県で起きた5歳児虐待死事件など連日耳をふさぎたくなるニュースばかり。虐待のニュースが報じられると、児童相談所への通報件数が一時的に増えるという。幼い命を救いたい、その思いはわかるのだが、本当に救いになっているのだろうか。虐待を生き抜いたサバイバーたちに、当時周囲に何を求めていたのか聞いた。救われる児童がひとりでも多くなることを祈ってーー。

 聞くのも痛ましい虐待事件が相次いでいる。5歳の女の子を鍋の中に立たせる、亡くなるまで殴る蹴るを繰り返す、などのひどい虐待事件が後を絶たない。このような事件が報じられると増えるのが、児童相談所(以下、児相)への通報だ。少しの泣き声も見逃さない、と正義に燃える第三者が多いのだという。だがはたして児相は虐待児にとっての救いの場なのだろうか。

 厚生労働省によると、児相に通報がありながらも救えずに死亡してしまったケースも増えている。児相の職員は、増加しているものの必ずしも専門性を身に付けてはいない。彼らにさばけないケースが目立つ。

 虐待対応件数は年々増加し、2020年には20万5千件を超えた。今日、虐待から生き延びた“サバイバー”たちに話を聞いた。

関わろうとしなかった大人たち

 イラストレーターのこうきさん(29)は母親と義父、義弟の4人家族だった。幼稚園のころから、母親に身体的虐待を受けていた。母親は近所に悟られないようにこうきさんを押し入れに閉じ込めた。

「母はたびたび、僕を叩いていました。周囲は教育の一環かな? と思っていたのかもしれません」

 理不尽さを感じたが、子どもの自分はうまく説明ができないため、大人が理解できないのではないかとも思っていた。

「大人は子どものために何かしてくれると思っていました。小2になって、祖母に虐待のことを初めて打ち明けたのですが、話をそらされました。祖母にとっては娘が虐待していることを直視したくなかったのでしょう。そのため、大人に頼るのは諦めました。結果、絶望だけが残ったんです」

 小学校卒業までは祖母の家で一緒に住んでいた。中学生からは、義父が購入した一軒家に家族4人で住んだ。

「母は、シングルマザーの祖母に育てられました。再婚したことで思い描くファミリーができたのでしょうね。でも私は父と弟と血がつながっていないから虐待されたのかな」

こうきさんが書いた絵本『ぼくは、かいぶつになりたくないのに』。当時彼から見た母親の鬼のような姿が描かれている

 中学生高校生のころも虐待は続いた。家族以外は察してくれたのだろうか。

「学校の先生はまったく気がつきませんでした。きっと、彼らの生きてきた世界には『虐待』が存在していないのでしょう。仮に気がついても、関わりたくないような感じ」

 どんな思いで生活をしたのだろうか。

「母親に好かれるようになろうと思い、自分で解決しようと思いました。経済的負担をかけないように、都立高校へ進学を考え、通学手段も自転車にしました。

 よく『うちは貧乏だ』『電気代がかかる』などと言っていたので、高校ではアルバイトをし、家にお金を入れました。バイトに行っていれば、母親と一緒に過ごす時間も減るし……」

 それでもすれ違いざまに母親からビンタをされ、ひとりだけ無視される日々。高校の卒業式から帰宅するとこうきさんの荷物はすべて捨てられていた。

「なんでこんなに私が理不尽なことを受けなければならないのか。これは仕方がないことなのか。そう思っていました。大人に多くは期待していませんでしたが、今考えれば、ただ、誰かに話を聞いてほしかった。なかったことにはしないで」

 法的には、虐待を知った人は、児相などへの通告義務がある。

「大人の見ている景色と、子どもの見ている景色は違うかもしれない。私の場合なら、児相に通告前に子どもの意見を聞いてほしいですね」

性的虐待に自殺未遂

 かつて児相に勤めた経験のある沖縄大学の山野良一教授(児童福祉)は、

「支援先として頼るのは児相だけでなく、学校でもいいし、スクールソーシャルワーカーもあります。以前よりは敷居が低くなっていると思います。児童館やこども食堂などの居場所が機能していればそこでもいいと思います」と述べる。

 希咲未來さん(21)は両親から虐待を受けた。母親からは「おまえなんか産まなきゃよかった」と言われた。

「食事を作ってもらえず、病気のとき病院に連れていってもらえませんでした。心理的虐待もネグレクト(養育放棄)もあったんです」(未來さん、以下同)

 父親からは暴力を振るわれた。

「2階の階段から突き落とされたことがあります。けがをしても放置でした。殴られてストーブにぶつかり、やけどをしたこともあります」

 中1のころ、支援団体にメールをした。ただ、学校でいじめを受けていたことを伝えただけで、家族のことは話さなかった。同じころ、父親から性的虐待を受けるようにもなる。

「『人生終わった』と思いましたし、感情を遮断していました。父親には『言うなよ』と言われましたので、周囲には言いませんでした。ただ、保健の授業を聞き、父親にされたことの意味を知りました」

 担任には家庭のことを話さなかったが、苦しみを表現したリストカットを“自殺未遂”と思われ、精神科に連れていかれた。その後、スクールカウンセラーと両親が情報を共有することになるが、虐待のことは出なかった。

「学校のアンケートに『家がつらい』と書いたことがありますが、親に見せられてしまいました。'19年に起きた野田市で栗原心愛ちゃんが死亡した事件ではアンケートを学校が父親に渡していたことがニュースになりましたが、一緒じゃん、と思いました」

 その後、養護教諭に「家に帰りたくない」などと話すと、察してくれたため、児相につなげてくれた。しかし、十分に話を聞いてくれず、両親の元へ戻されてしまう。

 虐待に耐えきれず、家出をした。保護されては家に戻され、父親に殴られ、また家出。出会い系サイトで知り合った男性の家にも泊まった。

「児相の職員よりも、歌舞伎町で出会った人のほうがよっぽど話を聞いてくれた。それが悪い誘惑だとしても日本の福祉は、夜の街の人たちに負けていると思います」

「20歳で死にたい」と思っていたところ、知り合った支援者たちに声をかけられ、沖縄にも行った。

「話を聞いてくれる人に出会いました。沖縄でも、ずっとそばにいてくれたし、休むことができた。大人はまずは子どもの言うことを信じてほしい」

 NPO法人東京メンタルスクエア(東京都豊島区)のSNS相談には、'21年中に延べで約9万件のアクセスがあり、2万7499件に対応した。うち、「虐待」と判断できたケースは約1%の477件。「自殺念慮」(878件、約3%)よりは少ない。

 私たちにできることはSOSを受け止めること。それが環境を改善する第一歩だと感じた。

取材・文/渋井哲也
ジャーナリスト、ノンフィクション作家。インターネット、サブカルチャー、援助交際、自殺、生きづらさなどをテーマに取材、執筆を行うほか、大学でも教える