比留間榮子さん 撮影/伊藤和幸

「榮子先生と話すと元気をもらえるんですよ!」かかりつけ薬局として利用する多くの常連客が口をそろえる。カウンターに座る比留間榮子さんの姿を見つけてうれしそうにする客、握手をしてパワーをもらって帰るという客などファンも多い。家族のこと、不調、孤独感……薬剤師として、人生の先輩として、どんな相談事にも耳を傾け、“言葉のくすり”で客の心をほぐす。榮子さんが孫とつくり上げた、「峠の茶屋」のような憩いの薬局を訪ねた。

“世界最高齢の現役薬剤師”

 98歳の今も、薬剤師として働く比留間榮子さん。薬剤師歴はなんと、77年の長きにわたる。“世界最高齢の現役薬剤師”として95歳のときにギネス記録にも認定された。

 榮子さんが働いているのは東京都板橋区のヒルマ薬局小豆沢店。都営三田線の志村坂上駅近くにある調剤がメインのこぢんまりとした店だ。榮子さんの孫で、薬剤師の比留間康二郎さん(42)が店長を務めている。

 奥のレジにいちばん近い席が榮子さんの指定席だ。カウンターをはさんだ向かいに座る高齢女性に、榮子さんは落ち着いた口調で話しかけた。

「自分で歩けるうちは、杖をついても何を使ってもいいから歩かないと。ずっと寝ていたらダメよ」

 この言葉には榮子さんの実感がこもっている。3年前、骨折して入院。長いリハビリを経て復帰したのだ。

「コロナで出歩かなくなったら、日一日と足がダメになっちゃって。歩くのがしんどいんです」

 女性がそう嘆くと、榮子さんは繰り返し励ます。

「私も同じよ。でも、ダメだダメだと思わずに、時間をかけてもいいから一歩一歩ね。ただ、転ばないように無理はしないで」

 女性は77歳。骨を強くするための薬を受け取りにきた。榮子さんと話すと元気をもらえるので、長年通っているという。

「榮子先生は100歳近いのに、お店に出てこられるでしょ。“あー、頑張っているんだ”と思うと、“自分も頑張らねばな”と(笑)。先生を目標にさせていただきます」

比留間榮子さん 撮影/伊藤和幸

 薬剤師の役目は、処方された薬がこれで本当にいいのか判断しながら、お客様の相談に乗っていくことだ。ただ、薬は日進月歩。しかも、1つの薬に3つの名前がある。先発薬、後発薬、成分名だ。医師が処方箋に書く名前はまちまちなので、すべて覚える必要がある。よく似た名前の薬もあるし、分量を間違えたら命に関わるので、気が抜けない。

 榮子さんはパソコンやスマホも普通に使いこなす。Zoomで会議に参加したり、LINEで薬局のスタッフと連絡を取り合ったり。IT機器の使い方は、孫の康二郎さんに一から教えてもらったのかと思いきや、みんなに聞きながら自分で覚えたというからビックリだ。

「康二郎に何か教えてもらって、また聞くと“この間も教えただろう”って言われちゃうから(笑)。あの人は口が達者だからケンカするときもあるけど(笑)、仲直りもすぐしますよ」

 お互いに何でも言い合える関係なのだろう。榮子さんが席から立ち上がり歩行器を使って店内を移動する際は、康二郎さんがすっと手を貸すなど、仲のよさがうかがえる。

 仕事に復帰後、榮子さんが担っているのは接客と服薬指導だ。まず症状を詳しく聞いて、薬の飲み方を伝える。生活を送るうえでの注意も細やかだ。お腹の痛みを訴える若い女性にはこう話していた。

「身体を冷やしちゃダメよ。冷たいお水は美味しいでしょうけど、お茶とか温かいものを口にして。ちょっとした気遣いが大事よ」

 そして、最後にこんなひと言を添える。

「何か気になることがあったら、いつでも相談に乗りますからね」

 いつも明るく前向きな榮子さんには何でも話したくなるのか。薬に関することはもちろん、全く関係のないプライベートな悩みを相談されることもあるという。

「娘さんがご主人と仲が悪いとかいろいろ。そんなこと、私だってどうしていいかわからないけど、誰かに言えば気がせいせいするじゃない。だから黙って聞いています。この人、また同じことをしゃべっているわと思うこともあるけど(笑)。

 でもね、どんな話でも聞いてあげるのが大事なの。高齢で夫婦のどちらかが欠けて1人になると、話し相手がいなくなるでしょう。言葉も忘れちゃいそうだという人は多いもの」

 薬局で湿布や塗り薬を処方されても、患部が背中や腰だと手が届かないと悩むひとり暮らしの人は多い。そんなときは、「ここで湿布を貼っていきますか」と声をかけ、手伝うこともあるそうだ。

地元の人から必要とされる場所に

 ヒルマ薬局の入り口には暖簾がかかっている。道行く誰もが立ち寄って休んでいける“峠の茶屋”みたいな場所になれたら─。そんな思いが込められているのだという。薬局が茶屋なら、榮子さんはさしずめ看板娘か。長年のファンもたくさんいる。

「おばあちゃんさ、シュークリーム買ってきたから食べて」

シュークリームの差し入れをして、帰り際に手を握る男性客 撮影/伊藤和幸

 榮子さんに差し入れを持ってきたという男性(77)がいた。糖尿病と心臓の薬をもらいに何年もヒルマ薬局に通っている。楽しみは榮子さんに会うことだと笑う。

 いつも榮子さんとどんな話をしているのかと聞くと、男性は少し考えてこう答えた。

「僕は糖尿だから、“(食事制限があって)かわいそうだけど、好き嫌いはしちゃダメ、ちゃんと3食食べなさい。好き嫌いをしていると心臓にも悪いよ”と。ニラが嫌いだったけど、健康にいいんだよと言われて、食べるようにしました。僕にそんな話をしたことは、もう忘れていると思うけど(笑)」

 忙しそうな榮子さんの様子を見て、男性は持参したお菓子を康二郎さんに渡した。

 そして帰る前に、カウンター越しに榮子さんの手を握ると、明るく声をかけた。

「また来るから。元気でね」

 取材に訪れたのは土曜日。午前中から昼過ぎまでは処方箋を持った人が次々やってきて、榮子さんも接客に追われていたが、近隣の病院が閉まる午後になると、店内は落ち着きを取り戻した。

 人波が途切れても、康二郎さんやほかの薬剤師たちは薬の調合をしたり電話の応対をしたりと忙しい。

「骨折から復帰して、また一緒に働けることがうれしい」と康二郎さん 撮影/伊藤和幸

 仕事をするうえで、どんなことを心がけているのか聞くと、康二郎さんは丁寧な口調で説明してくれる。

「新しい薬が追加されたときは飲むのが不安になる方もいるので、“体調はどうですか?”とこちらから電話やメールをして、フォローするようにしています。

 
複数の診療科にかかっていて薬がたくさん出ている方は、飲み間違いや飲み忘れがあったりするので、1回分ずつまとめる“一包化”の提案もします。飲み合わせの悪い薬もあるので、お薬手帳は持ってきてくださいと声をかけています」

 丁寧な対応が信頼され、かかりつけ医ならぬ、“かかりつけ薬局”として通う人が多い。常連客の中にはお礼にと、旅行のお土産や段ボールいっぱいのジャガイモを持ってきてくれた人もいるそうだ。

「私たちにとっては当たり前の対応をしているだけなのに、それを喜んでくださるお客様が多いので、すごくうれしかったし、薬剤師をやっていてよかったなと思いますね」

 夕方4時。認知症の母親の介護について相談があるという女性がやってきた。対応するのは康二郎さんだ。

 話は1時間近くに及んだのに相談料などはもらっていないという。その理由を康二郎さんはこう話す。

「次回は処方箋を持ってきてくださることもあると思うし、認知症の相談をきっかけに、つながりができればいいのかなと。この地域になくてはならない、地元の人たちに必要とされる場所になりたいと思っているんです」

「東京の空が真っ赤だった」

 まさに峠の茶屋と駆け込み寺がミックスされたような、ぬくもりと安心感のあるヒルマ薬局。実は、創業100年近い老舗だ。

 榮子さんの父が大正12年(1923年)に豊島区で開業。同年に生まれた榮子さんは薬剤師である父の背中を見て育った。

 4人姉妹の長女の榮子さんは女学校を卒業し、'41年に東京女子薬学専門学校(現・明治薬科大学)に進んだ。その年の暮れに日本は真珠湾を攻撃し戦争に突入する。

「当時は女学校を出るとお茶やお裁縫を習ってお嫁に行くのが普通だったけど、軍需工場ができて女性も勤めるようになってきたの。それで私は漠然と、薬のことを勉強したら何かの役に立つかなと。父に薬剤師になれと言われたことはないけど、自分で決めたんです」

 '44年に卒業して製薬会社に勤めたが、戦争は激しくなる一方。米軍爆撃機B29が頻繁に偵察に飛んでくるようになり、父の故郷である長野県上田市に母や妹たちと疎開した。

 ぎゅうぎゅうの信越線に乗り6時間かけて父の実家に到着。その2日後、夕飯を食べて妹と外に出ると、東京方面の空が真っ赤だった─。

窓の外を指さし、「空が真っ赤だった」と東京大空襲の記憶を思い起こす榮子さん 撮影/伊藤和幸

「夜なのに星も見えない。オレンジっぽいようなきれいな赤一色なの。音は何も聞こえないから、まさか東京への空襲とは夢にも思わなくて……。そのとき父はまだ東京にいたんです。逃げる途中で目の前に焼夷弾(しょういだん)が落ちて、もろに当たった人がバタッと倒れたけど、助け起こす人は誰もいない。みんな自分が逃げるのに必死だったと言ってました。戦争は本当に怖い。二度と起きてほしくないと思います」

 そのまま終戦を迎える。お金があっても役に立たず、食料は物々交換でしか手に入らない。薬品のサッカリンは砂糖の代用品として使われていたので米と交換したり、慣れない畑仕事をして野菜を作ったりして、日々生き抜くのに精いっぱいだった。

「薬剤師の父が目標だった」

 疎開先で結婚した。相手は7歳年上の従兄で、榮子さんは22歳だった。幼いころから夏休みに上田に帰郷するたびに一緒に遊んでいて、気心も知れていた。

 終戦の翌年には父や夫と東京に戻る。池袋に小さな家を建てて自宅兼店舗にして、ヒルマ薬局を再開した。

「父はどこで材木を探してきたのかと思うくらい、周りはきれいに焼けちゃって何もなかったの。遠くに焼けずに残った緑が見えて、おそらく皇居や上野の森あたりでしょう。その間からチラッチラッと海が見えたの。嘘みたいだけど、本当の話よ」

 榮子さんの夫も薬剤師で、3人で休むことなく働いた。当時は体調を崩すと、まず薬局に来る人が多かった。「熱が出た」「頭が痛い」「吐き気がする」など症状を聞き、調合した薬を薬包紙に包んで渡す。それを3日間飲んでも症状が改善しなかったら、また来るように伝え、必要があれば病院を紹介した。

父親のような親切で慕われる薬剤師を目指し、勉学に励んでいた学生時代の榮子さん


「そのころは今のように、お医者さんがたくさんいるわけじゃないから、病院を紹介するのも薬局の役目でした。

 近所の人が相談に来ると、父は親切に話をよく聞いてあげていましたね。だから、みなさんからとても頼りにされていたの。そんな父を尊敬していたし、父が目標でした」

 まさに今の榮子さんと同じだ。そう言うと、榮子さんは「自分はそこまでは」と控えめに笑う。

 近くに戦犯を収容した「巣鴨プリズン」があり、薬を届ける父についていったことがある。一緒に中に入り、診療所で父と医師が話している間、榮子さんが廊下に目を向けると、囚人が2人1組で歩いているのが見えた。

「お巡りさんが付き添って手錠をはめられていたけど、堂々として、いい顔をしているのよ。あんないい顔をしているのに、どんな悪いことをしたんだろう。そんな変なことを考えながら、眺めていましたね」

激怒した客も放っておかない  

 23歳で長男を、26歳で長女を出産。母になった後も、育児は住み込みのお手伝いさんに任せて、榮子さんは店に出て働いていた。

 長女の山口啓子さん(72)に寂しくなかったのかと聞くと、「全然!」と笑って否定する。

「私が小さいころは母の3人の妹たちも一緒に暮らしていて、とっても可愛がってくれたので、私は叔母さんたちに育てられたかなーと思うことがあります(笑)。家の中をお掃除しながら、みんなで合唱したりして、にぎやかで楽しかったですよ。父も温和な人だったので、私は自由気ままにやっていました(笑)。母たち4人姉妹は今でも仲がよくて、大阪に嫁いだ私が年に何回か帰省すると、母の鶴のひと声でパッと集まってくれます」

 子どもたちに薬剤師になれとは一度も言わなかったが、長男の英彦さんは薬剤師になった。英彦さんの妻の公子さん(74)も薬剤師だ。

 '78年に創業者の父が亡くなった後は、夫や息子夫婦と池袋本店を切り盛りしてきた。事業拡大のため、'91年に英彦さんが小豆沢店を開店。公子さんと交代で通うようになった。

 ところが、オープンして間もなく、予期せぬ事態に見舞われる─。

ヒルマ薬局のピンチを共に乗り越え、支え合った公子さんと榮子さん 撮影/伊藤和幸

 働き盛りの英彦さんが脳溢血で倒れて救急搬送。命は取り留めたが、介護が必要な状態になってしまったのだ。

 当時、69歳だった榮子さんは池袋本店を公子さんに任せて、自分が小豆沢店に通うことにした。

「パパ(英彦さん)が倒れたとき、下の孫の康二郎はまだ中学1年生でした。学校から“ただいま”と帰ってきたときに“おかえり”と言ってあげるのは、お母さんじゃなきゃいけないと思って、自然に店を入れ替えちゃったのよ。

 孫たちのことがいちばん気がかりだったから、それでよかったと思いますよ」

 あっさり言うが、相当な苦労があったはずだ。乗り越えられたのは榮子さんのおかげだと、公子さんは感謝を口にする。

「お義母さんがいなかったら、うちはやっていけなかったと思います。それまで私は店の経営には全然タッチしていなかったので、当時の決済に必要だった小切手の切り方も知らなくて(笑)。

 いろいろな方に教わりながらどうにかこなしましたが、夜遅くまでかかってしまって。お義母さんが小豆沢店を閉めて帰ってきて、私がまだ仕事をしていると、“手伝ってあげるわよー”と疲れ知らずにやってくださったので、本当に助かりました」

 息子が倒れた3年後には夫が逝去。榮子さんはスタッフの助けも得て、それ以前にも増して精力的に仕事をこなした。

 あるとき、高齢の男性客が怒って帰ってしまったことがある。朝、処方箋を出して後から取りにきたが、店内が混み合い、すぐ薬を出せなかったのだ。榮子さんは自宅まで出向いて謝ったのだが、追い返そうとする。

 何か事情があるのではと粘り強く話を聞くと、「数か月前に妻を亡くした寂しさと慣れない家事でイライラしていた」と打ち明けてくれたそうだ。

 責任感が強く中途半端なことが嫌いな榮子さんらしいエピソードだが、決して仕事一辺倒ではなかった。息を抜くのも上手だったと話すのは、長女・啓子さんの夫の進さん(74)だ。

「仕事が一段落したときには、少々ぜいたくなものを食べに行ったり、買い物をしたり。啓子を連れてヨーロッパなど海外にもよく旅行に行っていましたよ。義母は仕事も息抜きも、振り幅が大きいというか、そうやって自分にごほうびを与えて楽しむことで、大変な仕事を長年続けることができたんだろうなと、サイドから見ていて思います」

被災地ボランティアで決意

 榮子さんが必死に守ってきた小豆沢店で、孫の康二郎さんが働き始めたのは15年ほど前だ。

 康二郎さんにとって、幼いころは薬局が遊び場だった。スタッフの人たちとご飯を食べたり、遊んでもらったりするのが楽しかったという。

「調剤室には入るなと怒られましたが(笑)。両親は自分のことを医者にしたかったみたいだけど、高校3年のときに家を継ごうと思ったんです。父が倒れて母親とおばあちゃんが女手だけで頑張っているのをずっと見てきたので」

 現役のときは医学部も受けたが不合格。浪人して東京薬科大学に進んだ。卒業後は日本大学医学部附属板橋病院に研修生として10か月勤務し、国立成育医療センター(現・国立成育医療研究センター)に就職した。1年半たったところで榮子さんが体調を崩し、ヒルマ薬局に戻ってきてほしいと頼まれた。

 小豆沢店で働き始めて3年後、31歳のときに東日本大震災が起きる。宮城県気仙沼市の被災地で薬剤師のボランティアが必要だと、康二郎さんに声がかかった。

「うちの両親からは、何があるかわからないと止められたんですよ。でも、おばあちゃんだけが、“別に戦争みたいに死ぬために行くわけじゃないんだから、行ってらっしゃいよ”と応援してくれて」

 現地では40代後半の女性看護師とともに被災者の対応に奔走する。1週間の支援活動を終える日に、看護師が泣きながらあいさつに来た。

 その日の朝、行方不明だった夫が生きていると連絡があったのだと涙の理由を明かしてくれた。

「残念ながらお子さんは亡くなっていたんですけど、自分も被災して家族の生死がわからない中で、なんで看護師として働けたのかと聞いたら、“自分は看護師という資格を持っている以上、何かあったときはきちんと力を尽くせる自分でありたい”とサラッと言われて。

 その言葉を聞いて、自分はそれまで薬剤師として何をしてきたんだろう。薬剤師として何ができるんだろうと考えるようになったんです」

「理想の薬局」に近づけようと改革を進めてきた店長の康二郎さん 撮影/伊藤和幸

 東京に戻ってからも模索を続けていると、薬局のスタッフから「ドリームマップ」というものがあるから、やってみないかと提案された。

 ドリームマップとは、それぞれの夢を写真やイラスト、文字を使ってビジュアル化することで、夢を実現しようというもの。

 まず個人のマップ作りをしてみたら思いのほか楽しかったので、みんなで店用のドリームマップも作ることに。「広い休憩室が欲しい」「お店を改装したい」など、たくさんの夢が書き込まれた。

 その中にあったのが、「榮子先生をギネス記録に」という夢。康二郎さんもそれはいいとすぐ賛同したそうだ。

「自分たちのような一般人が一つの仕事を長い間やっても称賛される機会って、そうそうないじゃないですか。

 でも、うちのおばあちゃんがギネス記録に認定されたら、世の中にたくさんいる、頑張っているおじいちゃん、おばあちゃんたちを元気づけられるかなと。それに、薬局ってこういうところなんだと全国の方に知っていただけるいい機会になると思ったんですよ」

 そのとき榮子さんは88歳。ギネス記録を調べてみると、南アフリカに92歳の現役薬剤師がいた。榮子さんもあと5年働けば記録更新できたが、申請するだけで100万円以上必要だと知り、さすがに無理だと一度は諦めた。

クラファンでギネス挑戦へ

「クラウドファンディングで申請資金を集めたら」

 たまたま教えてもらった方法で、ギネス記録への夢が再び動き出す。申請資金として寄付を募ってみると、全国の人たちから寄せられたお金は182万5千円に!

 そして、2018年11月23日。榮子さんは95歳17日で、世界最高齢の現役薬剤師と認定された。

 反響は大きく、テレビや新聞などの取材が殺到。一躍有名になり、エッセイ『時間はくすり』も出版した。

《「ありがとう」は最高のくすりです。「ありがとう」が幸せを連れてきます》

《生きる意味を考えなくてもいい。どの命も、生まれただけで尊い》

《いきいきと過ごす姿を見せる。それが先を生きる者の責任かもしれません》

 本に書かれている言葉は、榮子さんが薬局でいつも口にしている言葉でもある。「本当に当たり前のことしか書いていないのよ」と謙遜するが、多くの人の心に届いた。

ギネス記録に見事認定された証を手に、次の挑戦への意欲も見せる康二郎さん 撮影/伊藤和幸

 ところが、ギネス記録に認定された翌年、榮子さんに大きな試練が訪れる─。

 池袋の自宅から板橋の薬局への行き来は、近所に住む康二郎さんがタクシーに乗って迎えに来て、帰りは送ってくれる。その日も、いつものようにシートに座ったら、榮子さんの足に痛みが走った。

「あーまたやっちゃった」

 その瞬間は、そこまで大ごとだと思わなかったのだが、右股関節にひびが入っており、もともと入れていた人工股関節を取り出す手術を受けた。リハビリ専門病院に転院し、入院は3か月に及んだ。ベッドに横になりながら、榮子さんはつくづく実感したそうだ。

「働けるってことは幸せなんだなー」

 退院して自宅に戻った後もリハビリは続く。

《歩くときはお腹に力を入れて》

《(ケガをした)右足を着くときは、かかとから足の先まで全部に力を入れて》

 理学療法士の指示を紙に書いてもらい、歩行器を使って廊下を何回も往復した。

「最初はお食事も部屋まで持ってきてもらったけど、歩けるようになってからは自分で階下に食べにいくようにしました。面倒くさいと思うけど、やっぱり歩いてあげないとね。足のほうも言うこと聞いてくれないもの」

 退院して1年8か月後には仕事に復帰。最初は週1日から始め、今は週2日のペースで出勤している。

 そばでずっと見守ってきた公子さんは、榮子さんが弱音を吐くところは一度も見たことがないという。

「義母はお店が大好きだから(笑)。康二郎さんも、お客さんも待っているし、お店に行きたいという思いで頑張ったのだと思います」

 横で聞いていた榮子さんは唐突に不満を口にする。

「長靴を買ってと言っても、公子さんは買ってくれないのよ」

 公子さんは笑いながら、その理由を教えてくれた。

「雪の日もお店に行こうとするから(笑)」

「私が転んだら周りの人が大変だものね」

 榮子さんは自分に言い聞かせるようにつぶやいた。

認知症家族の夢を叶えた教室

 ドリームマップの導入をきっかけに、ヒルマ薬局で新たに取り組み始めたことは、ギネス挑戦以外にもいろいろある。

 その1つが5年前に始めたフラワーアレンジメント教室だ。講師の資格を持つスタッフの渡邊清子さん(58)が書いた夢を、康二郎さんが後押しして実現した。

 毎月第4土曜日の午後3時から店内で行われている教室を見せてもらった。この日の参加者は3人。76歳の女性は3回目の参加だという。

「たまたま土曜日にお薬を取りにきたら、お教室をやっていて、まあ素敵!と。上達とかよりも、楽しく気軽にできるのがいいわよね」

 渡邊さんが用意した桃の花やチューリップ、ガーベラなどを思い思いにアレンジしていく。30分ほどで華やかな花籠が完成した。

スタッフの渡邊さんが資格を生かして始めたフラワーアレンジメント教室 撮影/伊藤和幸

 認知症カフェを兼ねているので、当事者やその家族が参加することもある。榮子さんと康二郎さんは、ある高齢女性の喜ぶ姿が忘れられないと口をそろえる。

 その女性は、夫が認知症になってから怒りっぽくなり悩んでいた。康二郎さんたちはお客にもドリームマップへの参加を呼びかけており、女性はこんな夢を書いた。

「お父さん(夫)ともう一度笑顔で食事をしたい」

 あるとき、女性は薬を取りにきたついでにフラワーアレンジメント教室に参加。その花を持って帰ると、夫に変化が表れた。

「康二郎は立派ですよ」と榮子さん。働く姿からも信頼関係が見えた 撮影/伊藤和幸

「どこに行くんだ」

 それまでは女性が出かけようとすると束縛するので外出もままならなかった。そんな夫が花を見て笑顔を浮かべて喜んだのだ。

 夫は自分で花に水をあげるようになり、それ以来、女性がヒルマ薬局に行くときは快く送り出してくれるようになった。

 昨年、夫は亡くなったが、「ちょっとでもお父さんが笑顔を取り戻せてよかった」と女性は感謝を口にした。

「本当は涼しいところに置くとお花が長持ちするんだけど、お仏壇の見えるところにお花を飾っているのよ」

 今も女性はほぼ毎回、教室に参加して、講師役の渡邊さんにこう話しているそうだ。渡邊さんは喜んでくれる人がいる限り、教室を続けていきたいと張り切っている。

「美味しいものが食べたい」ドリームマップにこんな夢を書いた女性客もいる。89歳の女性は夫を亡くしてひとり暮らし。歯が悪くて食べ物をうまく噛めないが、どこの歯科医に行っていいのかもわからないという。

 康二郎さんたちが歯科医を紹介して治療を開始。長い時間がかかったが、また好きなものを食べられるようになり、とても喜んでいたそうだ。

理想の生き方、理想の死に方

 ドリームマップでお客との距離を縮めて、創業以来の親身な応対で心に寄りそう。そうした努力の積み重ねで、地域の人たちに愛される場所になってきたのだろう。

 これらの取り組みが評価され、'17年に「第1回みんなで選ぶ薬局アワード」で最優秀賞を受賞した。同賞は創意工夫している薬局を表彰するもので、全国からたくさんの応募があった中から、ヒルマ薬局が選ばれたのだ。

「おばあちゃんが100歳を超えたら、もう一度ギネス記録に挑戦したい」

 康二郎さんは新たな夢を抱いている。だが、当の本人は記録にも長生きにもあまり興味がないようだ。

「働けることが幸せ。私のほうがお客さんから元気をもらってるの」と笑顔を見せる榮子さん 撮影/伊藤和幸

「私はここまで長生きしたんだから、もう明日でも、いつ死んでもいいのよ。行きたいところにも行ったし、後悔は何もないもの。家族が朝起こしにきたら、もう一生を終えていた。そういう死に方がいいなーと思う(笑)」

 老後を心配して、くよくよ悩んでいるお客がいると、榮子さんはこんな言葉をかけている。

「先のことは、どういうふうに変わるか。それこそ、地震でもくればわからない。戦争でも起きればわからない。今だってロシアとウクライナは、どうなっちゃうか……。

 考えてもわからないのだから、今のことを考えて幸せに暮らせればいいんじゃない」

 一日が終わったら、ごほうびのビールを飲むのが、今の榮子さんの楽しみだ。

 そして、次の朝、目が覚めたら、今日もまた生かされていることに感謝して、みんなが待つ薬局に向かう。

〈取材・文/萩原絹代〉

はぎわら・きぬよ 大学卒業後、週刊誌の記者を経て、フリーのライターになる。'90年に渡米してニューヨークのビジュアルアート大学を卒業。'95年に帰国後は社会問題、教育、育児などをテーマに、週刊誌や月刊誌に寄稿。著書に『死ぬまで一人』がある。