中学1年のあどけない羽生結弦と田中刑事('07年『全日本ノービス選手権』公式パンフレットより)

《競技人生を通して得られた経験の数々は、私の人生においてかけがえのない宝物です》

 4月11日、フィギュアスケートの田中刑事が、自身のSNSで引退を発表した。

「田中選手は羽生結弦選手と同い年で、幼いころからよき仲間、よきライバルとして切磋琢磨してきました。'18年の平昌五輪には、羽生選手とともに日本代表のひとりとして出場しています。日野龍樹さんも同期のひとりでしたが、昨年すでに引退を発表しており、羽生選手の同期はいなくなってしまいました」(スポーツ紙記者)

羽生結弦が田中刑事にどうしても勝てなかったこと

 羽生、田中、日野の同期3人が出会ったのは、'04年のこと。

「長野県の野辺山高原で夏に行われていた、『全国有望新人発掘合宿』でのことです。『野辺山合宿』と呼ばれていたこの合宿では、体力の測定やスケート演技のテストを行って強化対象となる選手が選ばれ、選手には通知表のようなものが渡されます。荒川静香さんや浅田真央さんなども、かつてこの合宿に参加していました」(同・スポーツ紙記者)

 今となっては2度の冬季五輪金メダル、全日本選手権では6度の優勝を果たすなど、輝かしい戦績を残している羽生だが、当時はその片鱗を見せることはなかった。

 スポーツライターの梅田香子さんが、当時について明かす。

「その年の演技のテストでは、日野選手がダントツの評価で、田中選手がその次、羽生選手は、高い評価を得ることはできませんでした。このこともあり、強化対象には日野選手、田中選手はすんなり決まりましたが、羽生選手については迷ったようで、最後に名前が足されたといいます」

日本からは羽生とも仲のいい同期2人も出場し、田中刑事が3位に。9位の日野に対し、羽生は「もっとこいやって思っています(笑い)」

 初めて間近で見た同期たちの演技は、羽生を奮起させるきっかけとなっただろう。

 それを示すように、羽生は合宿参加4年目となった中学1年のときに、作文にこう綴っている。

《久しぶりに見た皆の滑り、皆やっぱりうまくなっていた。ぼくは負けてたまるかと思いながら練習した》

 さらに、羽生がどうしても田中に勝てなかったことがある。

「2キロのランニングです。野辺山は高地なので空気が薄く、大人でも体調を崩すほど、走るには過酷な環境。なので、小学生だった田中選手や羽生選手にとっては相当厳しいものでした。羽生選手は、最初の数年はいつもランニングで苦労して、女子選手にも抜かれていたほど。そんな中、田中選手は余裕の1位でした」(梅田さん)

 その試練も、羽生は力にかえた。

《野辺山には、もう1つ疲れる要素があった。それは酸素の量。野辺山は標高がかなり高いので酸素の量が少ない。このつらい状況でもやらなければならない。だが、皆同じ状況でがんばったのだからと思うと気合いが入った》(前出・羽生の作文より)

 田中刑事という存在のおかげで、羽生は高い“ヤマ”を乗り越えていった─。


梅田香子 '09年から在米。著作に今川友子との共著『フィギュアスケートの魔力』(文春新書)など多数。長女は米国認定フィギュアスケート・インストラクターとして活動中