中森明菜(1989年)

 今年、デビュー40周年を迎える中森明菜。5年前から、公の場にはいっさい、姿を見せていない。

 公式HPには、デビュー記念日となる5月1日からWOWOWで過去のライブ映像を放送することが告知されているだけ。

 なぜ、彼女は姿を消してしまったのかーー。

「彼女の歌を聴いたときは鳥肌が立ちました」

 そう証言するのは当時、レコード会社『ワーナー・パイオニア』で、明菜のプロデュースを担当した小田洋雄氏だ。

 明菜を初めて見たのは、桜田淳子や森昌子、山口百恵などを生み出した人気番組『スター誕生!』(日本テレビ系)だったという。

「決勝戦の前に、関係者だけで行われる下見で明菜を見たのが最初です。歌詞に対する理解度が深く、歌に説得力がありました。彼女が持つスター性と歌唱の表現力は別格。天性の才能を持っている15歳だと強烈に感じました」

 明菜は、1981年7月に行われた『スタ誕』の決勝で合格。芸能プロダクション『研音』に所属し、『ワーナー』と契約を結んだ。

“花の82年組”に埋もれた明菜

 1982年5月、ファーストシングル『スローモーション』でデビューを飾ったが、当初は思うようにいかなかった。

 日本歌手協会の理事長で音楽評論家の合田道人氏が語る。

「今でこそヒットした曲のように思われていますが、『スローモーション』のオリコンランキング最高順位は30位。新人にしては十分な結果かもしれませんが、そこまで爆発的なヒットではなかった

 アイドル豊作年である“花の82年組”のひとりとしてデビューした明菜の同期には、シブがき隊、小泉今日子、石川秀美、早見優、松本伊代など、そうそうたるメンバーがそろっていた。

みんな、明菜ちゃんよりも先にデビューしていたこともあり、すでにすごい人気だったんです。後発で、楽曲がヒットしたわけでもない明菜ちゃんの存在は、埋もれてしまっていました」(合田氏、以下同)

 しかし、ここで人気に火をつけたのが1982年7月にリリースしたセカンドシングル『少女A』。

「これはオリコンランキングの最高順位は5位。人気アイドルとなっていくのですが、その年、レコード大賞の新人賞を明菜ちゃんは受賞することができなかった」

'84年、メガロポリス歌謡祭でポップスグランプリを受賞し、ほほ笑む明菜

 そう話すと、合田氏は1枚の新聞の切り抜きを取り出した。そこには、《『少女A』で人気上昇中だった中森は、ヒット性、歌唱力以外の仕事に対する姿勢、将来性などの評価が低く、落選に繋がった》と書かれている。デビュー間もない明菜だったが、それだけ“素行”が悪かったのか。

「これは明菜ちゃんが『少女A』を歌うのを嫌がったというエピソードが関係していると思われます。『少女A』は、当時のツッパリや暴走族を連想させるような楽曲でした。彼女としては清純な『スローモーション』でデビューしたのに、ツッパリの曲を“歌いたくない!”と反発したことが“新人なのにワガママだ!”となって、新聞に書かれたのでしょう」

 サードシングル『セカンド・ラブ』ではオリコン1位を獲得。トップアイドルへの階段を駆け上がった。が、次第に彼女への悪評も増えていく。

「デビューしたての新人なのに、現場で気に入らないことがあるとふてくされ、スタッフの言うことも聞かないなんて話はよく耳にした。スタイリストが用意した衣装が気に入らなくて、自分で買いに行ったりとか」(芸能プロ関係者)

“育ての親”が明かすの明菜の素顔

 人気が出て、慢心したのか。当時、明菜のマネージメントを担当し『研音』の部長でもあった角津(つのづ)徳五郎氏は、

「確かに“明菜はワガママだ”とか“めんどくさい子だ”と言う人はいっぱいいましたけど、私はそう思ってはいませんでした。本人もそうとう勉強していましたから、いいモノを作ろうと一生懸命だったのです。はっきり意見を言う子でしたからね。“まだ小娘のくせに生意気だ”と思った人はいたかもしれませんが」

 明菜は自分がやりたいと思ったことを、強く主張してきた。時には言い合いになることもあったという。

「だからといって関係性が悪くなるようなことはありませんでした。ただ、デビューしたてのころ、明菜がコンサートで自分が選んだ曲を歌いたいというので、許可したんです。しかし、当日になっても歌詞を覚えきれていなかったことがありました」(角津氏、以下同)

 角津氏が烈火のごとく怒鳴りつけると、明菜は会場から飛び出した。戻ってきたのは3時間後のことだった。

“どうするんだ?”と聞くと“歌う”と言うんです。歌詞も覚えてないくせに……と思ったら、ちゃんと歌えるんですよ。逃げ出したのかと思ったら、こっそり練習していたんです。海外の歌だったのですが、英語の発音もうまくって(笑)」

『夜のヒットスタジオ』で談笑する、中森明菜と小泉今日子

 デビュー当初から明菜が出演していた音楽バラエティー番組『ヤンヤン歌うスタジオ』(テレビ東京系)のプロデューサーだった丸山明慶氏も、当時の明菜を知るひとり。

「『ヤンヤン』は歌だけではなく、コントやドラマなどのコーナーもありました。そこにさまざまな新人アイドルを起用していたのです。明菜もそのひとりでしたが、彼女の新曲は必ずどこよりも先に流すことにしていました」(丸山氏、以下同)

 画面には《独占!明菜の新曲》とテロップを流し、放送していた。

「人気番組だった『夜のヒットスタジオ』を作っていたフジテレビは、怒り心頭だったと明菜の事務所からは聞いていましたが、絶対に譲らなかった。番組は毎週火曜日収録で日曜放送だったのですが、1回だけどうしてもスケジュールが合わず、他局に先に流されてしまいそうになったことがあったのです」

 そこで急きょ、土曜日に収録を行うことにしたという。

明菜は“どうしてほかのタレントはいないんですか?”と言うんです。説明すると、彼女はセットの真ん中で“お休みかもしれないのに、私だけのためにありがとうございます”と言って、スタッフひとりひとりに向かって頭を下げたんです。それを見て、本当にいい子だなと……」

松田聖子の曲を披露した明菜

 明菜はそこで、ある曲を歌ったという。

「セットチェンジの合間でした。スタジオの真ん中で松田聖子さんの曲を歌ったんです。それが本当にうまくって。うちにはモノマネのコーナーもあったので“明菜、今度番組でも歌ってよ”と言うと“あれは聖子さんの歌だから……。私が聖子さんの歌をステージで歌っちゃいけないと思ってます”と言うんです。なかなかしっかりしたことを言うなと思いましたね」

『ヤンヤン』は、明菜のお気に入りの収録現場だった。コントではハリセンで明菜の頭を叩くことも。丸山氏は、

「明菜みたいな売れっ子がよくやってくれたと思います。何も文句を言わず、逆に率先してやってくれたぐらいです」

 時には事務所から、「収録が入っていないから明菜が怒っている」と、丸山氏に電話があったほど。前出の角津氏も、こう証言する。

番組を見た他局のスタッフからオファーもありましたが、明菜は“そんなのやらない”と言うんです。コミュニケーションの問題だったと思います。『ヤンヤン』では、自分がとても必要とされていると感じていたのでしょう」

'85年、グアム島で行われたスポーツ番組で、交際していた近藤真彦と見つめ合う明菜

 ただ、『ヤンヤン』には近藤真彦が出演していたことも、明菜にとっては特別だった。

「うちの番組は『学校の放課後』ともいわれていて、年の近いタレントがいるから、話せて楽しかったんでしょうね。なにより明菜は“マッチに会うために歌手になった”とも言っていました。コントでマッチを抱きしめる役のとき、明菜も顔がにやけていました」(丸山氏)

 近藤と少しずつ距離を縮め、ふたりはほどなくしてひそかに交際をスタートさせた─。が、幸せな時間は長くは続かなかった。

近藤真彦との一件から周囲と距離

 1989年7月11日のこと。明菜は近藤の自宅マンションで手首を切って自殺を図った。

 当時を知る芸能ジャーナリストの石川敏男氏は、明菜の自殺理由についてこう話す。

1989年7月11日、中森明菜(当時23歳)が近藤真彦(当時24歳)の自宅で自殺未遂。同年の大晦日に“金屏風会見”を開いた

「同年2月、マッチが松田聖子とニューヨークで密会し、キスしている写真が週刊誌に掲載されたのです。明菜さんはそれでマッチと揉めた末、自殺を図ったのです」

 同年12月31日。NHK紅白歌合戦の裏番組で、明菜は復帰を報告する緊急会見を開いた。そこで、自殺理由について問われると、

「なんて愚かな……、なんてバカなことをしたのか……」

 と、涙ながらに口にした。

 事情を知る、とある芸能プロの幹部は、

「当時、マッチはモテ男でしたから、何人もの女性タレントとウワサがあった。破局のきっかけとなった報道の前からマッチの女性問題でふたりの関係はこじれていた。明菜には積もり積もったものが、あったのです」

 ここから明菜は、少しずつ表舞台から姿を消していく。

金銭トラブルや事務所との関係悪化、周囲の裏切りを受け、次第に人と距離を置くようになっていきます。

 1995年には実母が亡くなって、明菜さんは中森家の戸籍から自分だけ籍を抜いてしまう。“家族がお金を使い込んでいる”と思っていたようですが、一方で、明菜さんの家族は“事務所がそう吹き込んだ”と主張。しかし、真相はわからないまま。2019年には妹の明穂さんが病気で亡くなりましたが、葬儀にも姿を見せていません。25年以上、家族との関係は断絶したままです」(スポーツ紙記者、以下同)

実父が昨年暮れに入院していた

 いちばん身近な家族とまで距離をとり、彼女はひとりになってしまった。狂った歯車は直らないまま、明菜は暴走していく。前出の石川氏は、

'09年、日本ゴールドディスク大賞を受賞した明菜

「ファッション誌の撮影の際、明菜さんは編集者を高級ブランド店に連れていき、棚の端から端まで全部買い占めようとしたことも。仕事をドタキャンすることも増えていき、精神状態は悪化。悪循環に陥っていくのです」

 その後もドラマの主演を務めるなど、活動の幅を広げた時期もあったが、彼女の心は次第に壊れていった。

「2010年に体調不良のため無期限活動休止を発表。2014年の紅白に出場してから、活動を再開するも、2017年のディナーショーを最後に、表舞台からは完全に姿を消してしまった」

 もう一度、彼女が歌う姿を見たい。なによりも、それをいちばん願っているのは、家族のはず。実父に話を聞こうと、都内にある実家を訪ねると、雨戸は閉ざされ、郵便物は地面に散乱している。引っ越してしまったのだろうか。

 近隣住民に話を聞くと、

「お父さんは昨年暮れに体調を崩して入院されたそうです。明菜さんが来たかって? それは、わかりません……」

 80代になる実父が入院しても、彼女は会いに訪れることはないのだろうか─。