大坂環(たまき)さん

「当時の私たちには、本当に何もなかった。光が見えないトンネルの中にいるような感覚で、手探りで前に進もうにも、壁にはトゲトゲがあって触れると痛みを感じる。でも、とにかく前に進むしかなかったんですよね」

大坂なおみの母が明かした過去

 トンネルの中にいた──。そう自らの過去を微笑しながら振り返るのは、大坂環(たまき)さん。テニスの4大大会(グランドスラム)のうち、全米オープン、全豪オープンを制したプロテニスプレーヤー・大坂なおみ選手(24)の母親だ。

 今ではトッププレーヤーとして知られる大坂なおみ選手だが、成功までは紆余曲折の連続だった。その日々を、最も近くで見つめてきた環さん。冒頭の言葉にあるように、順風満帆とは程遠かったという4人家族で歩き始めた時代。夫であるマックス(本名レオナルド・フランソワ)さんと暮らすフロリダの自宅から、家族との向き合い方、そして“光”の見つけ方を語ってくれた。

「人生って本当にどうなるかわからない。もし、グランドスタッフとして空港で働いていたら、違う人と結婚して、違う人生を歩んでいたんだろうなって」

 優しく微笑みながら、空港内で働く地上職のスタッフ(グランドスタッフ)になりたかったと、環さんは打ち明ける。

 環さんの生まれは、北海道根室市。日本の本土最東端である納沙布岬を有する、北海道の東の果て。「とても保守的な土地で、父は自分の考えのとおりに家族を動かさないと気が済まないタイプ」と話すように、厳格な父親の存在が環さんの人生に大きな影響を与えることになる。

「高校は英語科、短大時代もずっと英語を勉強していて、航空業界で働くことを夢見ていました。しかし、父は“CAは乗客に何をされるかわからないから危険だ。グランドスタッフのほうがいい”と決めつけました。従わないと、あからさまに不機嫌になるんです(苦笑)」

 卒業旅行で行くはずだったハワイ旅行も、「女性だけでハワイに行くのは危ない」という鶴ならぬ、父のひと声で強制キャンセルに。代替案として後日、家族でポルトガル・スペイン旅行に行くものの、旅先でグランドスタッフの試験日が前倒しになる一報が入り、夢は頓挫した。

「普通に卒業旅行に行かせてくれていたら間に合った。あらゆることを勝手に決めてしまう父に対して、“なんで?”“どうして?”……その連続でした。父の束縛から逃れて自由になりたかったんですよね」

 夢破れた後、環さんは札幌の銀行に勤める。仕事後に出かけたお店で、後に夫となるマックスさんと出会うと、英語が堪能だったこともあり意気投合。その後、交際がスタートする─が、父親は認めなかった。そして、マックスさんが大阪へ引っ越すと、環さんは自由を求め、家出同然で彼の後を追うことに。

「父に反発したからこそ、夫と出会い、2人の子どもに恵まれ、夢をつかむことができた……あのころは若かったから、父の行為を愛情と受け取ることはできなかったけど、父のおかげで今の私があるのだと、今はわかります。人生って、どこかで辻褄が合うんでしょうね」

ニューヨーク時代のひとコマ。2人がしているマフラーは環さんの手編みで、大阪なおみさんには当時好きだった『ハリー・ポッター』のような柄に〝NAOMI〟のネーム入り

娘をテニス選手に! 向かった“新天地”

 姉・まり、妹・なおみ。2人の子宝に恵まれ、幸せと自由を手にした環さんだったが、その暮らしは爪に火をともすものだった。ひと間しかないアパートの一室で、肩を寄せ合う4人暮らし。

「自由には、自分たちの生活を守る責任が付きまといますよね。その責任がないと、生活を台無しにしてしまう可能性がある」

 台無しにしないためにはどうしたらいいか。あるとき、17歳11か月という若さで全米オープンを制したセリーナと姉・ビーナスというウィリアムズ姉妹の活躍を目にする。「これだ!」。マックスさんは、娘をプロのテニスプレーヤーに育てることを決意する。

 しかし、日本は一流のテニス選手に育てるための環境が乏しい。すると、彼は自身の家族がいるニューヨークへの移住を提案。悩んでいた環さんだったが、マックスさんの強行突破で渡米することになる。まりさんは間もなく5歳、なおみさんは3歳と5か月の春だった。

「人生という名の列車の同じ車両に乗り込んだひとつの共同体(ワンユニット)となって、目的地に向かって走り始めた感じです。でも、このときはその先に光が見えるのか、わからなかったですよね」

 ニューヨークの生活は、「睡眠時間は3時間くらいだった」と述懐するように、環さんが昼夜問わず働くことで支えた。マックスさんは、ニューヨークの公園で、独学ながら姉妹にテニスを教える。生計は環さん、指導はマックスさん、完全分業制だった。

「イベントに出かけたり、映画館へ行ったり……。本当はそうしたかったけど、時間もお金も余裕がなくて。リラックスできたのは、子どもたちと一緒にいるときや、家族の料理を作っている瞬間。テニスプレーヤーに育てるというモチベーションがあったから、その中から楽しみを見いだすことができたんだと思う」

 そのときを楽しむしかない。そう言って環さんは笑う。

 ニューヨークは、公園のテニスコートを無料で借りられるなど、テニスに打ち込むための環境が、日本とは比べものにならないほど整備されていた。しかし、冬場になると屋外での練習は厳しく、高額な室内コートを借りなければならない。出費がかさみ、家計を圧迫する。マックスさんと環さんは、温暖な「フロリダに住むべきじゃないか」と考え始めた。

子どものための選択をするということが、そのまま家族のためになる……。すべてがワンユニットだった。テニス選手として独り立ちできるようなベストの選択をしようって」

 といっても、物事には順序がある。ニューヨークにある商事会社で働いていた環さんも、仕事の引き継ぎなどをしなければいけないため、そう考えていた。だが、“善は急げ”のマックスさんは、突然、フロリダ移住を決行。子どもだけを連れて、フロリダに車を飛ばしてしまった。

 夫の情熱に振り回される──。「数年に1回発生するストームやトルネードに巻き込まれる気持ちですよ」と呆れる環さんに、その対処法を聞くと、

「いろいろなものをひっかきまわして、どっかに行ってしまう。残ったものからすると、“なんで? どうして?”って思うんだけど、そればかり考えていても仕方がない。

 散らかったものを1つずつ片づけるじゃないけど、今できることをやるしかないんです。また嵐がくるかもしれないと思うとやってられないけど(笑)。今を生きるのに一生懸命になると、余裕を感じる暇がなくなるけど、不満を感じる暇も一緒になくなるんです

 環さんと話していると、古きよき“肝っ玉母さん”という言葉を思い出す。

「野垂れ死にせえ」父親からの言葉に……

 テニスは、コストがかかるスポーツとしても知られる。仕事を捨てフロリダに移住したことで、生活はさらに苦しくなった。

 著書『トンネルの向こうへ』の中では、いまだに“白人のスポーツ”と見られているテニスを、アジア人が熱心に練習していることに対して人種差別的な言動を向けられたことも綴られている。心が折れそうになったことはなかったのか?

“おまえなんて、アメリカでホームレスになって道端で野垂れ死にせえ”。電話を切るとき、必ず父から言われた言葉でした。

 孫であるまりやなおみと話すときは、優しいおじいちゃんなのに、私にかわるといつも厳しい言葉を投げつけ、そのたびに私は泣いていました」

 身勝手な人生を歩む娘を、父親は許してはいなかった。

「当時は極貧で、本当に家がなくなるかもしれない状況。父の言葉は、刺青のように深く私の頭に刻まれたんです。絶対に見返してやる。父への反骨心が、私を支えていました

娘たち2人には〝優しいおじいちゃん〟だったという環さんの父親。しかし、父と娘の心の溝は長い間埋まることがなかったという

 メラメラと闘争心を燃やす環さんは、姉妹がマックスさんと遠征に行くときも、1人働き続けた。プロテニスプレーヤーにすべく、身を粉にして、そのすべてを捧げた。

 ときにマックスさんは熱が入るあまり、姉妹に対して厳しい指導を行うこともあったという。そんなとき、母親として娘たちとの距離の取り方はどうしていたのか?の問いに、「距離なんてない」とあっけらかんと環さんは話す。

お互い何でも言い合う関係性でした。私も疲れていたり、つらいことをしゃべったりする姿を、娘たちに見せていた。でも、2人には少し見せすぎてしまったかなって反省しています(苦笑)。子どもたちは、私の心の拠り所だったから、距離感なんてなかったんです」

 昨年、なおみさんのドキュメンタリー番組が、ネットフリックスで制作された。その中で、なおみさんは努力を続けられた理由を、「お母さんを楽にさせたかったから」と答えている。子どもたちにとっても、環さんが心の拠り所だったことは、想像に難くない。

 トンネルの中で立ち止まらずに、愚直に進み続けた結果、まりさん、なおみさんは、念願だったプロテニスプレーヤーとなる。2014年7月には、なおみさんが全米オープン女王のサマンサ・ストーサーから大金星を挙げ、光が差し込む。

 反面、まりさんは伸び悩んだ。子どもたちに才能の差が生まれたとき、親はどう接するべきか? 「とても難しい問題」と、一拍置いて話を続ける。

考え方が父親と母親は違うと思うんです。父親は、秀でているほうにより力を注ごうとする。でも、母親としては、なかなか上がれない子どもにパワーを使いたいと考える。夫からは、そのパワーをなおみに注いだほうがいいと言われたけど、私にはできなかった」

 マックスさんは、なおみさんとツアーの行動を共にする機会が増えたことで、まりさんは1人でツアーに出向くようになる。身を案じた環さんは、別途、コーチを雇い、まりさんを支えた。

「伸び悩んでいる子に寄り添うことはとても大切なこと。まりは優しすぎるところがあるんです。でも、なおみは私に似て、“負けたくない”という闘争心が強かった」

 その言葉どおり、なおみさんは勝負の世界で結果を出し続ける。そして、2018年、憧れだったセリーナ・ウィリアムズを下し、20歳でグランドスラム初優勝を果たした。それを機に環さんは確執のあった父親とも雪解けした。その後の活躍は、周知の事実だろう。

「“大坂環”として活動していきたい」

 グランドスラム初制覇を、「何年かに1度起こるストームが、また発生した感じ」と笑うが、成功を手にしたことで、家族の生活は一変。「心にぽっかり穴があいてしまった」と、環さんは披瀝する。

私たちはずっと一緒にいたから、段階的な子離れというものがなかった。なおみがロサンゼルス近郊に家を買ってうちを出ました。

 その2年後にはまりもうちから離れ、娘2人が家族と離れて暮らすようになったとき、“娘は誰かにだまされているんじゃないか?”とか“私に愛想を尽かしたんじゃないか?”とか、とても不安な気持ちになって、毎日泣いてばかりいました。今思い返しても、泣いてしまう」

 そう言って涙をぬぐう環さんの姿から子どもへの愛情が伝わってくる。大坂家の成功は、“子どもファースト”の深い愛情があったからにほかならない。

「でも、私も同じなんですよね。札幌から飛び出して大阪に行って、自分の好きなように人生を歩んできた。そう考えたとき、娘たちも自分なりに答えを出した結果なんだろうなって。かつての父の言動も、理解できるようになった。トンネルを抜けて、あのとき見えなかったものが見えてきた感じですよね」

 昨年6月、なおみさんが全仏オープンを棄権し、うつに悩まされてきたと告白した際、世間は大きなリアクションを示した。

 環さんは、なおみさんにあえて何も言わなかったという。自分からは口を出さない。子どもが何を考えているか──。「口を開けるよりも耳を開くことが大事」、環さんが心がけていることだという。

 なおみさんは、5月下旬から開催される全仏オープンに向け、トレーニングの最中。まりさんは、一線を退きデザイナーとして第2の人生を進む。トンネルを抜けた先には、新たな景色が広がった。環さんは今、何を見るのか?

“なおちゃんのママ”“大坂なおみの母”としてではなく、“大坂環”としていろいろな活動をしていきたい。私たちはワンユニットであり続けるけど、私も私の人生をもっと豊かにしていきたい」

 そう言って、にこっと笑う環さんのキャラクターは、これからは家族だけではなく、きっと多くの人に勇気を与える存在になるに違いない。

『トンネルの向こうへ「あと一日だけがんばる」無謀な夢を追い続けた日々』(集英社刊)著者=大阪環 ※記事の中の写真をクリックするとアマゾンの紹介ページにジャンプします

(取材・文/我妻アヅ子)