錦織一清。寄席が好きだった父親と、ジョークばかり言っていたジャニーさんの影響もあり、質問に軽快に答えていた

 1980年代に歌とダンスで多くの人を魅了した『少年隊』。メンバーのひとりとして活躍した錦織一清は、当時の熱狂をこう振り返る。

「僕は東京の下町育ちのいわゆる江戸っ子。女性ファンの声援はすごく喜ばしいことですけど、どこか俯瞰して見ていましたね」

 12歳のとき、姉がジャニーズ事務所に履歴書を送ったことでエンターテイメントの世界に入った錦織。'81年にジャニー喜多川さんの呼びかけで植草克秀東山紀之との3人のグループが結成される。

ジャニーさんからはダメ出し続き

「当時、レコードデビューはもちろん『少年隊』としてどんな活動をしていくかもまったく決まっていなかった。それにもかかわらず、フジテレビの音楽番組『夜のヒットスタジオ』に出演の話が持ち上がったんです。番組プロデューサーと打ち合わせをしたときも“レコードを出していない歌手を出すなんて前例がない”と難色を示されました。もし、あのときOKをもらえなければ、今の僕らはなかったかもしれません」

 周囲の期待に応えるように'85年にリリースした『仮面舞踏会』は、デビュー曲にもかかわらずオリコンチャートで初登場1位を獲得。翌'86年から青山劇場で少年隊の主演ミュージカル『PLAYZONE(以下、プレゾン)』が始まるなど、着実にスターダムを駆け上がっていく。

「プレゾンはジャニーさんと事務所主導だったので、僕らがこんな曲を使いたい、こんな役にしてほしいといった要望は反映してもらえました。毎年1回、1か月間の公演を23年間青山劇場でやらせていただきました」

 師であるジャニーさんからは、ダメ出し続きだった。

「全然褒めてくれませんでした。外では“少年隊は自分の最高傑作”と語ってくれたそうですが、僕らの前で決して言わなかったのが、なんか信憑性があるなとも思います。ジャニーさんが“タレントは年齢を重ねるごとに、ちやほやされて耳触りのいいことを言われるから、勘違いするんだよ”って言ってくれたことは今でも覚えていますね。それもあって、日頃から漠然と仕事をしているとファンの心を弄ぶことになってしまうなとも思っていました」

 真摯に芸能活動を続けていた錦織。演劇に深く関わり続けた縁もあり、数多くの名作戯曲を生み出したつかこうへいさんに見いだされて'99年には『蒲田行進曲』の主役に抜擢される。

「つかさんの舞台は出合う前から好きでした。あの人の舞台は、稽古のときから常に全力なんです。何度も同じセリフを大声で繰り返すので、激しい稽古でしたよ。この経験が芸能人としての分岐点のひとつだったと思います」

少年隊のリーダーはジャニーさん

 日本のショービジネスの大物2人の教えを受け、演劇に関する思いを強めていった錦織。次第に、ジャニーさんから舞台演出の仕事も任されるようになる。

 その一方で、'08年には少年隊主演のプレゾンが終了するなど、グループとしての活動は縮小していったが、この方針転換は“織り込み済み”だったようだ。

「ジャニーさんは結成当時から“少年隊はグループじゃない。ゆくゆくはひとりひとりで、活動できなきゃダメだ”と言っていました。僕らは仲がよかったとかではなく、ジャニーさんのセンスで集められたところから始まっていますしね。最初から、それぞれが別々に活動する構想だったんですよ」

'86年、紅白に初出場した『少年隊』。司会の加山雄三が『仮面舞踏会』を『仮面ライダー』と間違え話題に

  そもそも『少年隊』というグループは、ほかのアイドルとは一線を画していた。

よく『少年隊』のリーダーは自分だと言われますが、正しくはジャニーさん。グループの活動はジャニーさんや事務所主導で決められていました。だから、僕ら3人で集まってミーティングをしたり、活動方針を決めたことは0回。後輩の『V6』や『嵐』たちはメンバー同士で話し合って活動方針を決めたりしていましたが、僕らはなかったんです」

 それぞれの道を歩み続けた3人。彼らをつなぎ留めていたジャニーさんは'19年にこの世を去ってしまう。

「ジャニーさんから任された舞台の仕事があったので、事務所にも所属し続けていました。でも、ちょっと辞めるのが遅すぎたかなと思っています。プレゾンは40歳の半ばまでやらせてもらいましたが、どうして『SMAP』のような後輩に譲らなかったんだろうって気持ちもありました」

 '20年末、植草と同時期にジャニーズ事務所を退所。『少年隊』というグループ名は事務所に残ることになり、現在も“解散”はしていない。'25年には、デビュー40周年の節目を迎えるが─。

植草とはYouTubeで共演するなど前よりは会う回数が増えてきましたけど、あと1名(東山)に関してはずっと自宅も連絡先も当時から知らないので(笑)。まず、連絡先を入手するところから始めないといけませんね」

 独立後は、これまでの経験を活かして演出家としての活動に集中するようになった。

「今が人生で一番幸せ」

「役者として仕事をしているときは注目されませんでしたが、演出家として活動を始めたらドキュメンタリー番組のオファーが来たりしましたね。僕はタレントの顔も持っていますから、舞台の宣伝としてテレビやラジオに呼ばれたりします。でも、演出家として活動しているときのほうが、メディアに多く出させていただいているので、面白い現象だなって思っています」

 今後も、つかさん原作の『飛龍伝2022~愛と青春の国会前~』や、自身が脚本を手がけた『サラリーマンナイトフィーバー』の上演を控えるなど、舞台演出家として多忙な日々を送っている。

 ジャニーさんとつかさん、2人の教えを継承する気持ちを聞くと、

「完全な継承はできないと思っています。2人とも無趣味で、起きてから寝るまで芝居や舞台のことばかり考えていました。僕も芝居は好きですけど、休みの日はゴルフとか行くわけですから勝てっこないんですよ。ただ、2人と知り合って得た“かけら”が残って融合したものが、僕の演出のスタイルになるのかな。それをこれから楽しもうかなと思っていますね

錦織一清。立ち上がったり、身振り手振りを交えながら過去を振り返る錦織。その姿はまさに演出家

 改めて舞台の魅力を聞くと“ごまかしが利かないこと”を挙げた。

「舞台はCGも使えないので、テレビや映画と違って素朴ですよね。僕の中では“これだけ練習したんだ”って、胸を張って言えるものをお見せしないと失礼じゃないかと思っていますから」

“いい芝居でお客さんを喜ばせる”ことに専念する日々。彼はそんな今が、人生で一番幸せだと語る。

「前からフリーランサーになりたかったんです。事務所に所属していると自分で仕事を決められませんから。人間、やりたくないこととの付き合い方を考えていけばいいんじゃないですかね。僕はやっぱり下町の江戸っ子気質なところがあるから、今になってそういう部分が出た気がします」

 2人の恩師に導かれ、アイドルから演出家と幅広いステージを駆け抜けてきた錦織。“人生”というステージはまだまだ続くようだ。