フリーアナウンサー町亞聖さん 撮影/渡邉智裕

 母親代わりとして家事をこなし、きょうだいの学費や母親の医療費のために奨学金をもらいながらアルバイトをした大学時代。そんなときによりよい福祉に貢献したいと目指したのがアナウンサーという仕事だった。華やかな放送業界で活躍しつつも両親の介護にプライベートを捧げ、家族介護や福祉社会の問題をライフワークにするようになった彼女の軌跡をたどる。

日本テレビの“顔”として活躍

 町亞聖。この名前と顔に見覚えのある方も多いだろう。そう、彼女は以前日本テレビの局アナとして全国に知られた存在だった。

 新人ながら福留功男アナとの掛け合いが人気だった『いつみても波瀾万丈』はじめ『TVじゃん!!』『ホンの昼メシ前』など、バラエティーからニュース、スポーツ番組まで日本テレビのいくつもの番組の“顔”として活躍した。その後、報道局に異動になり、記者としても活躍。

 2011年に日本テレビを退社、フリーになってからも、TOKYO MX『5時に夢中!』『ニッポン・ダンディ』などのメインMC、また文化放送、ニッポン放送などのラジオ番組でもMCを務めている。

 本業だけではない。若くして母親の介護を経験した彼女は、「家族介護」「認知症とうつ病」「在宅医療」「看取り」「バリアフリー」「児童養護施設」─。これらをテーマにさまざまな活動を行っている。最近になって「ヤングケアラー」というテーマを加えた。

「当時の私は、ただやるしかなかったからやってきただけ。だから特別な意識もなかった。もちろんヤングケアラーなんて言葉もありませんでしたからね」

 と亞聖さんは苦笑する。「ヤング(若い)」、「ケアラー(世話をする人)」は最近、テレビや新聞などのメディアに頻繁に登場する言葉だ。一般的に、「本来大人が担うと想定されている家事や家族の世話などを日常的に行っている子どものこと。それにより、子ども自身がやりたいことができないなど、子ども自身の権利が守られていないのが問題点」などといわれる。

 例えば、障害や病気のある大人に代わり、家事をしたり、幼いきょうだいや両親、祖父母の世話をしたりする子どもたち─。ここ近年、その存在が知られるようになったのだ。

 昨年行われた厚生労働省と文部科学省の実態調査によると、中学生のおよそ17人に1人、全日制の高校生の24人に1人が「ヤングケアラー」だとわかったという。

 また、今年4月に政府が発表した実態調査では、全国の公立校に通う小学6年生の6・5%(約15人に1人)が、「世話をしている家族がいる」と回答した。中高生同様に、低年齢層でも一定数は家族ケアに追われている実態が判明したのだ。

 若くして家族の世話をしてきた人々は、人知れず古くから存在していたのだ。町亞聖さんもまた、その1人だった。

 そして、アナウンサーという華やかな表舞台からは想像もつかない、壮絶な「介護生活」を経験してきたのだった。

18歳に突きつけられた現実

「お姉ちゃん起きて。お母さんが大変なの─」

 1990年1月の早朝のことだった。亞聖さん高校3年生の3学期。大学受験を控えていた彼女は、年の離れた小学6年生の妹に起こされた。

 慌てて起きると、母・広美さんが台所でうずくまっていた。顔色が優れない。急に吐き気をもよおしたようだった。

 父親の秀哲(ひでのり)さんは早朝に仕事に向かい、すでに家にいなかった。

 亞聖さんには、中学3年の弟もいた。3人ともその日が3学期の始業式だった。

 ただの風邪にしては様子がおかしい─。そう思った亞聖さんは、広美さんを布団に寝かせ、弟と妹を学校へ送り出し、広美さんの勤め先に連絡、自分も1時間遅れで高校へ向かった。

 そして夕方。亞聖さんが帰宅すると、まだ広美さんは横になっていた。やはり具合は悪そうだった。秀哲さんが仕事から戻り、広美さんを総合病院へ連れて行き入院させた。そこで告げられた病名は「くも膜下出血」。そして3日後手術が行われた。

くも膜下出血で倒れてしまった広美さん

 術後、広美さんは命の危機は脱したものの、重い障害が残った。言語障害、右半身不随、そして知能の低下。広美さんは40歳の若さにして重度の身体障害者として生きていくことになったのだ。亞聖さんが振り返る。

「あのとき、受験勉強はしていたものの、特にどこの大学に行きたいという目標もありませんでした。私はとにかく自分の価値観を押しつけてくる父親が大嫌いで、高校卒業後は家を出て1人暮らしをしたいとだけ思っていた。でも、母が倒れたことで、私はまず母の代わりに弟と妹の面倒をみていかなくてはいけないと思ったんですね」

母親代わりに家事を行うようになった高校生当時の亞聖さん

 秀哲さんは、自分では叶わなかった大学進学の夢を長女に託すあまり、過剰に亞聖さんを束縛した。そんな秀哲さんは、何事も広美さんまかせで、自分ではお湯も沸かさないような人だった。それは、広美さんが倒れてからも変わらなかった。

 そこから亞聖さんの日々は激変した。

 病院では母の看病、家では母の代わりとなって家事、そして受験勉強という日々に突入したのだった。

妹の亞夢さんの七五三のときに、秀哲さんの母親も駆けつけ撮影された家族写真

「母が元気だったころは、何もしなくてもご飯が出てきたんですよね。“お茶わん下げといてね”って言われて、“はーい”と生返事だけして、なんてこともしょっちゅう。でも母が入院してからは、ご飯は私が作らないと出てこないし、お茶わんも私が洗わなければ、いつまでもシンクの中にある。

 家事なんてほとんどやったことがなかったけれど、“やれる、やれない”じゃなくて“やるしかない”だったんですよ」

 弟と妹は無事に高校と中学に進学。しかし、大学受験を目指していた亞聖さんはすべての大学に落ちた。

 1年間の浪人生活。2浪は許されず次の受験に失敗したら後がない。

 しかし皮肉にも、この浪人期間が自分を見つめ直すいい転機になったという。

「私にとって浪人時代は、母の看病と家族の世話、そして受験勉強が本当にすべてでした。“介護を言い訳にはできない”と必死で勉強しました」

 そして'91年2月、亞聖さんは見事立教大学文学部に合格したのだった。

介護生活の中で知ったこと

 大学の合格発表があったころ、広美さんはリハビリを終えて車椅子に乗った姿でわが家へ帰ってきた。

「家族はそれぞれ仕事や学校があるので、日中は母には1人でいてもらわなくてはなりません。狭くて段差だらけの家の中で、歯磨きとか洗顔とか、身の回りのことをどうやったら安全にできるかを考えました。母もだんだんできることが増えていって、洗濯したシャツなども片手で器用にたたんでいましたね

1浪して入学した立教大学キャンパスでの友達とのカット。普通の大学生とはまったく違う大学生活だった

 秀哲さんの収入だけでは、広美さんの医療費や3人の学費は賄いきれない。そのため亞聖さんは奨学金で大学に通い、アルバイトもした。

 晴れて大学生になったからといって、亞聖さんには浮かれて遊んでいる時間はなかった。

「できることなら海外旅行も留学もしたかった。でも、車椅子の母と一緒に貴重な時間をたくさん過ごすことができました

 広美さんと一緒に障害者が交流する場に出かける機会も多かった。ハンディキャップを持つ人たちの運動会、障害者センターの油絵教室など、さまざまな場所でハンデを抱える人たちと接するようになったのだ。

「そういう機会が増えるといろんなことに気づくようになるんですね。そして、街や道や人がハンデを持った人にいかにやさしくないのかということも見えてくるんです

 今でこそ、「バリアフリー」などの言葉が一般的に普及し、高齢者や障害者に配慮した公共施設の改善も行われるようになった。が、広美さんが倒れた'90年代は、公的介護保険制度などもなかった時代だった。

 広美さんの介護を通じて、亞聖さんはさまざまな問題の存在を知り、またよりよい福祉のために何か貢献できないか、と思うようになっていった。その答えとして彼女が出した結論は「伝えること」だった。自分自身が母の介護を通して学んだことを、アナウンサーという仕事を通して1人でも多くの人に伝えたい─。

 大学卒業後の亞聖さんの目標は、こうして定まった。

 そして学業と介護の生活を経て、亞聖さんは1995年、狭き門をくぐり抜け、日本テレビにアナウンサーとして入社するのである。

 このとき、6歳下だった妹は高校2年生。彼女もまた仕事が忙しくなった姉の手助けにとばかりに、母親の介護をするようになったのだった。

妹・亞夢さんの成人式でのカット。25歳の亞聖さんは『波瀾万丈』などの番組を担当し、注目を集めていた

 現在、整骨院に勤務する夫と、中2の長女、小5、小3の息子と5人暮らしをしながら大手住宅メーカーに勤務する妹、大栗亞夢さん(44)が当時を語る。

「病院のこと、家のこと、少しでも手伝おうと思ってました。でも、お姉ちゃんがいれば安心だった。姉だけ別格でしたね。お母さんが病気するまではあまり姉妹の接点はなかったんだけど、あれから接する時間ができたのかな」

母が子宮がんに、そして父親も

 広美さんの在宅介護を始めてから8年後、今度は広美さんに子宮がんが見つかった。それも末期。子宮以外にも骨盤、そして周りのリンパ節にもがんが転移し、もはや手術では摘出できない状態だと言われた。

 家族でローテーションを組んで病院に詰めて、看病にあたった。そのかいあって、広美さんは退院できることに。当時、在宅医療は画期的な試みだった。

「今では緩和ケアが当たり前になりましたが、母がお世話になったのが『緩和治療科』。外来で治療したいという人がかかれるところでした。今だと当たり前ですが、25年くらい前にそういう治療を埼玉の病院がやっていたというのは画期的だったんですよ」

がんが見つかり、在宅医療での広美さんの介護と仕事を両立させていた亞聖さん。小野先生は、彼女を中心にきょうだいが団結していることで、在宅医療にゴーサインを出したという

 当時は、町さんの母親だけでなく、秀哲さんも胃がんが見つかり、同じ病院に入院した。当時の担当医・小野充一先生(67・現新都市ホームケアクリニック理事長・院長)はこう話す。

「お父さんのケアを担当した際に、お父さんの寂しさや元気のなさに直面しましたね。お母さんが闘病しているとき、自分の妻に死んでほしくないという心のうちに閉じ込めてしまったつぶやきを、もう少し誰かに聞いてもらいたかったのかもしれないと感じました。

 結局お父さんは、私の印象的には消え入るように亡くなっていったのですが、もっと早くからお父さんにわれわれが向き合ってあげられていたら、お父さんの気持ちも変わったのかなと思ったことを覚えています」

がんが見つかり、在宅医療での広美さんの介護と仕事を両立させていた亞聖さん。小野先生は、彼女を中心にきょうだいが団結していることで、在宅医療にゴーサインを出したという

 先生はこんな話もしてくれた。

「エピソードといえば、町さんがアナウンサーのパリッとした衣装とメイクで病院に来て、そこでお母さんのベッドにもぐり込んでグーグー寝てたのを看護師が見つけて報告してきたことがありました。“すごいね、オープンだね”とみんなで感心して笑ったのを覚えてますね。

 仕事と介護の両立で、だいぶお疲れだったんでしょうね。なんだか微笑ましかったですね」

男子にモテながらも、一途な彼女

 亞聖さんの高校の同級生で亞聖さんとは、3年間同じバトン部で過ごした仲間の呉本佐知子さん(50)は、高校時代の彼女の印象をこう話す。

高校時代の亞聖さんは、ほんとにかわいくて目立ってました。全学年の誰もが彼女を知っているくらい。当時、スカートを短くするのが流行(はや)る前に、彼女はすっごく短くして先生に注意されていましたね(笑)。

 明るくてみんなに優しい。当然男子からもモテてましたよ。でも、ちゃんと彼氏がいて。朝、待ち合わせをして学校に来るんですよ。彼氏が遅れてくることもあって、そんなとき彼女は、駅でずっと彼を待ってる。それで2時間目とか3時間目になったり、一途なところのある子でしたね」

野球部が夏の甲子園に出場したとき、チアリーダーの一員として参加したという

 呉本さんは、あるとき、亞聖さんが家族の問題を抱えていることを知ったという。

「受験目前のときに担任の先生が彼女に“すぐに病院に行くように”と伝えたことを覚えています。そんな大変な介護をしてたなんて当時はまったく知りませんでした」

 亞聖さんはどんな家庭で育ったのだろうか。母・広美さんは熊本出身、父・秀哲さんは福岡出身と、ともに九州生まれ。2人は東京で知り合い、新婚で暮らしたのは世田谷のトタン屋根のアパートだった。亞聖さんが言う。

両親は大恋愛で駆け落ち同然だったようです。結婚式もしていませんが、写真を見ると2人はとても幸せそうです。ただ、何かあっても、経済的に苦しくても、親は頼れない状況だったんじゃないでしょうか」

 しかし、近所の親しい家族が亞聖さんたちを手助けしてくれた。

 山田寿子さん(76)は、亞聖さんが3歳のころ、広美さんと親しくなった。

「まだ町さんちの下の子が生まれる前にお母さんと意気投合しましてね。お互いお酒が好きなところがね(笑)。お母さんが倒れたとき、町さんのお父さんから電話があって、“大変な病気になっちゃったよ”と彼は電話の向こうで泣いていました。

 あーちゃん(亞聖さんのこと)は、お父さんとうまくいかない時期があって、よくそんなときはうちに来てご飯を食べさせたりしました。小さいときからあの子はしっかりしていて、マラソンやっても、勉強でも、習字でもなんでもよくできました」

 そして、1999年11月9日。広美さんは、自宅で最期の時を迎えた。49歳、あと10日ほどで誕生日を迎え、50歳になるはずだった。その5年後、広美さんの後を追うように秀哲さんがこの世を去った。

母校・さいたま市立浦和高等学校の創立80周年記念式典で司会をしたとき、呉本さんと

「父は母が亡くなって、大きな喪失感を抱えて立ち直れなかったんですね。ろくに食事をせずにお酒ばかり飲んで、自ら死に向かっていったような最後でした。

 思えば母が倒れて障害者になったとき、父もまだ若かったんですね、40代初めのころから50代を迎えるまでの10年間、父は母のために自分の人生を捧げているようなものだったんですね」

アナウンサーから報道局へ

 広美さんが亡くなった直後、亞聖さんは、アナウンス部から報道局に異動し、記者としての仕事に追われるようになる。

「この時期、私は朝のニュースキャスターをしながら、隔週で社会部の記者として、医療を中心とした企画取材をこなしていました。母の介護を通して、『がん』や『ドラッグ・ラグ』というテーマに出会ったんですね」

 ちなみに「ドラッグ・ラグ」とは、海外で承認されている薬が日本国内で承認されるまでに、長い年月を要するという問題のこと。日本で薬が承認されるまでの期間中、患者は「海外には薬があるのに治療が受けられない」状態になる。製薬業界では、この問題の解決が課題のひとつに挙げられる。

報道時代のカット。北京パラリンピック(左上)、'04年新潟中越地震のヘリ取材(右下)など、充実した日々を

 この当時の亞聖さんを知るのは、現在も日本テレビの報道局デスクを務める徳留美保さん(57)だった。

「私は日本テレビの夕方のニュースでディレクターをしていたときに何本か町さんの企画のお手伝いをしました。最初の企画は2004年『インフルエンザ脳症』というテーマ。このテーマに着目したのも、取材に応じてくれる家族を探したのも町さんでした

 徳留さんは、亞聖さんに独特の目線を感じたとこう続ける。

「病気の治療や先端医療を伝えるだけじゃなくて、たとえ病気や障害があっても家族がいつも一緒に、当たり前の日常生活を過ごせることが大切、それが町さんの目線なのだと思いました」

 その後も亞聖さんは、がん治療の最前線などを次々取材していった。放射線治療を日帰りで受けられる民間の総合病院。抗がん剤の認可が遅れているドラッグ・ラグの問題。新薬の認可を待ちながら亡くなった患者さんの遺族……。

「そうやって18歳のころのハートを抱えたまま今も自問自答を続けているのではないかな。苦しいけれど、自分だからこそ伝えるべきことがある。1人でも多くの人の役に立てるならばと自分を奮い立たせてまた前に進む。町亞聖はそういう人だと思います」

 徳留さんは、亞聖さんのおかげで命拾いをしたという。

「2020年に子宮体がんが見つかり手術と抗がん剤治療を受けたんです。不正出血があってすぐにこれは卵巣か子宮のがんかもしれないと思って検査をしたので初期の段階ですぐ対処できました。

 もし発見が遅れていたら町さんに“あれだけ早期発見が大事って企画一緒に作ったのに!”って怒られちゃう。すぐ町さんに連絡しましたが、町さんの存在自体がセカンドオピニオンみたいなので不思議と不安はありませんでしたね

 スタイリストの山中ゆかりさん(55)は、亞聖さんが日テレ新人アナ時代に『波瀾万丈』で知り合い、現在まで続く友人である。

亞聖さんの隣がスタイリストの山中さん。『波瀾万丈』以来の付き合いになる

「実は、今日私の母親の葬儀でした。闘病中に町さんにも相談したんです。そしたら“おそらく長くはないんだからできるだけお母さんのそばにいたほうがいい”と言われました。

 それで実際最後までいてあげることができた。『波瀾万丈』の番組で、1度スタジオに町さんのお母さんが車椅子で見学に来られたことがありました。

 とにかく家族が仲のいい、お母さんが太陽のような方でした。一緒にご飯を食べていても、町さんはお母さんのお話をするんですよ。

 妹さんとも仲がよくて“妹は同志だから”なんて言ってましたね」

元祖ヤングケアラーだからできること

 テレビ局を退社した町亞聖さんは、さまざまな活動に積極的に取り組んでいく。

「私が両親の介護をしてきた15年間に起きたことは、今起きているすべてのことを内包しています。現在ヤングケアラーという言葉が出てきたおかげで定義づけられていく感じがしますね。私が知っている限り、若年性認知症の親御さんを介護しているお子さんがいるという現状から、その言葉が出てきたように思います」

 30代、40代で若年生認知症を患った親、そしてその子どもたち、まだ10代で中学生だったりする子どもが家事に翻弄されているのだ。

「あと要介護の祖父か祖母がいて、両親が共働きをしているために、結局、孫が学校を休学してとか、大学行きながら世話をするヤングケアラーというふうに取り上げられるようになったんですね。

 国としては、家事の援助に入るというのを、一応、モデル事業としてすでにやっていますが、援助をしただけでは解決にはならない。要は親が抱えている問題を解決しないと、子どもは救われない。そこをどれくらい国や自治体がわかっているのかなと」

 結局、高齢者の介護と同じように考えているのではないか。ヘルパーさんが家に入れば、助かるだろうと。基本的に家が抱えている親の問題、つまり精神的な育児のネグレクトに関しては、親の恥になるし、家の恥になるから、語れない。だから、多くのヤングケアラーの子たちも、誰に助けを求めたらいいのかわからないのだろう。

 最近、亞聖さんが依頼される講演会は、がん保険の会社で働く職員が対象のことも多い。また、在宅医療に取り組んでいる人たち、専門職の人を集めた勉強会などに呼ばれることも少なくないという。

10年続く「うつ」「認知症」がテーマのラジオ『ひだまりハウス』。「神様にテーマにしなさいと言われたんでしょう」と笑う 撮影/渡邉智裕

「民間の介護保険を担当する職員に介護や看取りのイメージを持ってもらい、自分ごととして考えてもらおうという趣旨があるようです。

 また、介護現場で働く専門職の仲間もたくさんいて勉強会も一緒に開催していますが、人手が足りないなどの厳しい現実があるのは理解していますし、自分たちは“一生懸命やってる”や“1人では変えられない”という本音も聞くことがあります。ただそんな専門職も、実は当事者になって初めて気づくことも多い。

 家族の立場からすると“みなさんの言っていることは言い訳にしか聞こえない”と。“もし自分が介護を受ける側だったら仕方がないと言って諦めるんですか?”と尋ねるんです。だから、諦めなくていいよう、みんなで“理想”を形にしていきましょう、と伝えています」

 家族介護がテーマでも、要介護者を抱えた家族向け、施設職員向け、また施設利用者と家族など、講演対象はさまざまだ。ほかにも、大学生たちと介護施設などを訪れる活動、児童養護施設出身の子たちによるスピーチのイベントの手伝いもやっている。

「その子たちの話を聞くと、ヤングケアラーの問題がものすごく深刻であるというのがわかる。実は、児童養護施設に行かなきゃいけない子たちって、幼いころからのヤングケアラーも多いんです。お母さんの精神疾患、父親のDV、家の中が嵐のような状態で、お母さんの精神が安定していない状態に置かれ、子どもたちが逃げられないでその中にいて、きょうだいの面倒をみていたりしている」

 そんな子どもたちの経験を聞くと、彼らが置かれている状況は国が考えているよりももっと根が深いことがわかるのだという。

「これまで子育て支援だとか、暴力にさらされている弱者に対して効果的な対策を打ってこなかったから解決できてない。そんな中にヤングケアラーがすごくたくさん含まれています。施設に行かざるをえない子どもたちにしても、もしかしたら施設に行く前にできることがあるはずなんです」

 それは「お母さんへの支援」だと亞聖さんは続ける。

8割くらいはシングルマザーで経済的な貧困が根本にあります。育児のネグレクトは、お母さんが社会的にネグレクトされているから起きるんですね。そういう問題をみんながネグレクトすることに根本の問題があると思う。

 関係ないことなんてないんですよ。いつかは誰でも直面するかもしれないこと。そのあたりをマインドチェンジしていかないといけない。そのためにやっているのが私のこの10年の活動なんですね」

人の手を借りることの大切さ

 亞聖さんは、最近の勉強会で出会った40代の男性たちの話をしてくれた。

「今の定義では18歳はヤングケアラーには含まれませんが、最近お話を伺った男性介護者も10代ではありませんでしたが、彼もヤングケアラーだと私は思っています。なぜなら、同世代だったらできるはずのことができない状況に置かれているから。

 
お母さんが認知症で、息子さんが介護をしている。そんな中で、言うことをきかないから殴ってしまったり、あともう1人相談を受けている男性介護者の方も、玄関に普通に鍵をかけるだけでは足りず、さらに頑丈な鍵をつけないとお母さんが逃げ出しちゃうというような……。それを10年息子さんがやってたというケース。

 2人とも現在40代で、30歳から40歳まで介護生活を送ってきた。お2人とも結婚はしていなくて、お話してみると、若者のまま、親を想う子どものままなんですね。十代がヤングケアラーというふうに括るんじゃなく、追い詰められてやらざるをえなくてなった若いケアラーは年齢に限らずいるんだということも知ってもらいたい。介護をしている息子さんはなかなか声を上げられないでいます」

フリーになって10年。「これからはYouTubeなどのメディアにも可能性を感じている」と語る亞聖さん 撮影/渡邉智裕

 しかし、抜け出す方法はある。それは人の手を借りること─。

「第三者に助けを求める─それだけで“なんでこれまで自分たちでやろうとしていたんだろう”というふうに思える。そこまでが長い。

 最悪の事態になる前に、助けを求めてほしいんですね。なくならない介護殺人の加害者の7割くらいが男性で、ご主人か息子さんなんですね」

 ヤングケアラーの問題は、ヘルパーを派遣すればいいと言うものではないと亞聖さんは言う。

「高齢者介護に従事するヘルパーさんも、利用者さんの家庭で見つけたりするんですよ。“あ、この子、ヤングケアラーだ”って。だけど、その子の抱えている問題に、ヘルパーさんが介入できるかといったら、やっぱり相談には乗れない。教育関係のスペシャリストではないから。

 かといって、見て見ぬふりをしたら“やっぱり大人は助けてくれない”となっちゃうんで、やはり話し相手になることがまず入り口かなと思います」

 そして肝心なのは、ヘルパーがつなぐ先を持っていることだと、こう続ける。

「その子が困っているのが経済的なものだったら、やはりそれは福祉課などの役所だと思うし、学校関係だったら教育関係の人につながるように、日ごろからスクールカウンセラーを介護の会議に呼んでもいいかもしれない。

 その地区にある学校のソーシャルワーカーにも参加してもらうとか。要は地域の中でいろんなものにつながるような仕組みづくりをしていく。私は私で思いつくアイデアを言うし、“できることを考えてください、その立場のみなさんで”と言っています」

 2012年8月。亞聖さんは自身の母校である、さいたま市立浦和高等学校で講演を行った。テーマは『十八歳からの十年介護』だった。亞聖さんが言う。

「まさか、自分が母校で後輩たちにそんな話をするなんて考えてもいませんでした。実は講演会の企画を担当していたのが、私が在学していたときの野球部の顧問の先生で“町先生に家族介護についてお話をお願いしたいんだ”と頼まれちゃったんですよ(笑)」

 体育館に集まったのは、併設する中学校の生徒と高校生たち。亞聖さんも中学・高校時代、彼らと同じように将来への不安もなく、無邪気に笑っていた自分を思い出していた。

「この子たちに“病気” “介護”や“死”というイメージは伝わるのだろうか?」

 そう思っていたのだが、後日亞聖さんの手元に届いた生徒たちの感想文には、「当たり前の日常が送れることが幸せなこと」「1日1日を大切にすること」「家族の大切さ」など、亞聖さんが伝えたかった言葉が並んでいた。

 前出の報道番組のディレクター徳留さんは、亞聖さんのほうが年下なのに、お姉さんのような感じがすると言う。

「彼女は、家族の中でも長女で弟妹の面倒をみてきたからでしょうか。会社の中でも若いディレクターやスタッフに慕われていました。早朝の番組のニュースが終わって“朝ごはん行こう!”って町さんが声をかけて社員食堂に行く。まるで弟や妹みたいに面倒をみて、新人さんにも“おなかすいたよね”と声をかけていたのをよく覚えています。黙って不安を抱えている人の気持ちを敏感に感じ取るのだと思います」

 そして、こんなことを徳留さんは最後に言った。

「私は“お姉ちゃん頑張ったね”と言ってお母さんの代わりに彼女をギュッと抱きしめたい。18歳の時のままの彼女を。そしてこう言いたい─。

 人を全力で愛するだけじゃなくて、もっとあなたが愛されていることに気がついて!」

〈取材・文/小泉カツミ〉

 こいずみ・かつみ ノンフィクションライター。芸能から社会問題まで幅広い分野を手がけ、著名人インタビューにも定評がある。『産めない母と産みの母~代理母出産という選択』『崑ちゃん』(大村崑と共著)ほか著書多数