6月9日、『琉球』にて上皇ご夫妻は展示品をご鑑賞。仲睦まじく手をつないで歩かれた

 梅雨入りしたにもかかわらず、東京は快晴だった6月9日。上皇ご夫妻はこの日、東京・上野にある『東京国立博物館』に足を運ばれた。

「沖縄復帰50年記念特別展『琉球』をご鑑賞されました。この展覧会は、5月25日に天皇・皇后両陛下も鑑賞されています。上皇ご夫妻は当初、6月2日に鑑賞予定でしたが、上皇さまにお疲れの様子が見えるとして予定を延期。88歳というご年齢から、体調不安の声も囁かれました」(皇室担当記者)

計11回訪問されている沖縄

 上皇さまのご様子について、展覧会に来ていた女性は、

「上皇さまは体調を崩されたと聞いて心配していたのですが、顔色もよくお元気そうで安心しました」

 ご夫妻が展覧会の鑑賞などで外出されるのは、約1年7か月ぶり。コロナ禍の影響もあり、おこもり生活を続けられていた。

「今年4月の葉山でのご静養では、御用邸の付近にも外出し、ご友人や地元住民などと交流されました。一方で、コロナ禍でお会いできなかった間、美智子さまのご友人が亡くなったそうです……。その方の命日に、美智子さまはご家族にお悔やみのお言葉を送られていました」(宮内庁関係者)

 ご静養や引っ越し以外で国民の前に姿を現すことがほとんどなかっただけに、今回の展覧会に対するご夫妻のお気持ちの強さが感じられる。

「上皇ご夫妻にとって、やはり沖縄は特別な場所。皇太子ご夫妻の時代から数えて11回も足を運ばれており、沖縄に対する思い入れは特に強いと見受けられます」(皇室ジャーナリスト)

 そんなお心は、'75年に沖縄を初訪問されたときから現れていた。糸満市内にある『ひめゆりの塔』で火炎瓶を投げられる事件が発生したその日、上皇さまは、沖縄への特別な思いを明かされている。

「払われた多くの尊い犠牲は、一時の行為や言葉によってあがなえるものではなく、人々が長い年月をかけて、これを記憶し、ひとりひとり、深い内省の中にあって、この地に心を寄せ続けていくことをおいて考えられません」

 こうした思いについて、宮内庁OBで皇室ジャーナリストの山下晋司さんは、次のような見解を示す。

「皇太子時代のこの談話から50年近くたちましたが、天皇として最後の記者会見で、退位後も沖縄への思いは変わらないとおっしゃっています。上皇后陛下は上皇陛下を支えながら、ともに沖縄に心を寄せてこられました。いわば二人三脚で、当時の談話に込めた思いを行動で示し続けてこられました」

「馬の仕事は大変ですよね」

 沖縄への思いがおふたりの根本に深く関わっているのであれば、今回の展覧会を一度見送ることにも、ご覚悟が必要だったのではないか。

「災害やご体調などのさまざまな要因で、お出ましが延期や取りやめになることは当然あります。取りやめになっても、おふたりはずっと気に留められて、別の機会に関係者にお会いになるなどされてきました。それほど国民との触れ合いを大切にされてきましたが、それを続けてこられたのは、上皇后陛下が常に上皇陛下をお支えになってきたからだと思います」(山下さん)

 平成最後の沖縄訪問となった'18年3月には、これまで足を運ばれたことがなかった与那国島へ。その際のことを、おふたりが立ち寄られた『東牧場』で、当時スタッフとして交流した西山真梨子さんが振り返る。

'18年3月、在位時最後の沖縄訪問。与那国島民の歓迎を受け、満面の笑みをお見せに

「おふたりとも馬に大変詳しくて、上皇さまは“野間馬やトカラ馬もいるんですね”と、日本の在来馬についてお話しくださいました。“子どもたちを馬に乗せる活動もしているんですよね”と、牧場の活動についても事前に調べてくださっていて。美智子さまは別のスタッフに“馬の仕事は大変ですよね”とお気遣いくださったそうです」

 上皇ご夫妻からは“普通の夫婦”といった雰囲気があふれていたという。

「印象的だったのは、上皇さまが馬の頭を抱え込むような形で、ずっと触れていらっしゃったことです。お召しものが汚れてしまうんじゃないかと少しヒヤヒヤしました。
美智子さまは当時、足が痛む中でのお出ましだと聞いておりましたが、ずっとニコニコされていて。

 こんなことを申し上げたら失礼かもしれませんが、一般的なご夫婦と変わらない対応をさせていただいた感覚で、とてもすこやかな気持ちになったことを覚えています」(西山さん)

 この沖縄訪問では『国立沖縄戦没者墓苑』にも立ち寄られている。『沖縄県遺族連合会』元会長の照屋苗子さんに、その際の交流について聞いた。

「おふたりは墓苑に着くと、ご供花より前に私たち遺族にお声がけをしてくださいました。美智子さまからは“お元気でしたか”と優しいお言葉を。実は、お目にかかるのは5度目でしたので“覚えていてくださった”と思い、胸がジーンとしました。

 ご供花の後の帰り際にも再びお声がけをいただき、美智子さまは“お母さまはお元気ですか”と。まさか母のことをお尋ねになるとは夢にも思わず、とても驚きました。突然だったので亡くなっていることを申し上げられず、どうお返事していいかわからずに黙っていると、美智子さまから“お母さまにもよろしくお伝えくださいね”とおっしゃってくださり、本当に優しい方だと改めて感じました」

美智子さまのお言葉が一生の励みに

 上皇さまが特に心を砕かれてきたのが“忘れてはならない4つの日”。広島と長崎の原爆の日、終戦記念日、そして沖縄地上戦が終結した6月23日。平成の最後に、当時は天皇だった上皇さまによる記者会見でも、沖縄についての言及をされている。

「沖縄は先の大戦を含め、実に長い苦難の歴史をたどってきました。皇太子時代を含め、私は皇后とともに11回訪問を重ね、その歴史や文化を理解するよう努めてきました。沖縄の人々が耐え続けた犠牲に心を寄せていくとの私どもの思いは、これからも変わることはありません」

'75年7月、初の沖縄訪問。沖縄国際海洋博覧会へのご参加とともに、沖縄戦遺族と交流

'75年の訪問時に周囲から反対意見が出る中、おふたりは「絶対に行く」という強い気持ちで沖縄の地に降り立ち、今日までその思いを絶やされていない。

「会見で具体的に県名まで挙げるのは珍しく、しかも天皇として最後の会見で言及されることに大きな意味を感じました。美智子さまとご結婚されてからの63年、おふたりは“天皇だから”ではなく、日本人として心を寄せ、言葉だけではなく何度も現地を訪問して、戦没者の慰霊や遺族と交流するという行動でお気持ちを示し続けていらっしゃるのです」(前出・皇室ジャーナリスト)

 前出の照屋さんによると、

「美智子さまは穏やかな眼差しでお声がけをしてくださり、私たち遺族に心を寄せてくださっていることが伝わりました。美智子さまのお言葉は一生忘れることができませんし、これからも生きていくうえでの励みになっています」

 ご高齢になり、時には外出を“中止”せざるをえない場面もあるだろう。しかし、「約束は果たす」と心に決めたおふたりがこれまで歩まれてきた道は、国民の心に響き続けている─。


山下晋司 皇室ジャーナリスト。23年間の宮内庁勤務の後、出版社役員を経て独立。書籍やテレビ番組の監修、執筆、講演などを行っている