増田惠子(1970年代後半から1980年代初頭にかけてアイドルデュオ「ピンク・レディー」のケイとして活躍)

 耳なじみのいいメロディーと、躍動感のあるダンス――。'76年にデビューしたピンク・レディーは1枚目のシングル『ペッパー警部』がいきなり大ヒット。大人から子どもまで、女性はみんなマネをして踊っていた。メンバーの増田惠子(当時はケイ)は、懐かしそうに当時を振り返る。

「デビューしたときにスタッフがファンのターゲットとして考えていたのは、中学生以上だったんですよ。最初は深夜番組に出たりしていましたから。雑誌の撮影で、都内のキャバレーでホステスさんが着るような衣装に着替えて、お酌をするなんてこともありましたね」

ピンク・レディーデビューのきっかけ

 デビューのきっかけとなったのは、オーディション番組の『スター誕生!』(日本テレビ系)だった。

40周年記念アルバム『そして、ここから…』が7月27日に発売。全シングルが入った2枚組でピンク時代のライブ音源も収録。9月2日にはビルボードライブ横浜でライブが行われる

「決戦大会で優勝したのは清水由貴子ちゃん。指名に手を挙げた事務所は、実に14社でした。私たちにも9社くらいの指名はありましたが、そこまで期待されているという感じは受けなかったですね」

スタ誕』に出る前、増田は未唯mie(当時はミー)と一緒に浜松市内のボーカルスクールに通っていた。

「もともとは中学・高校の同級生でしたが、それぞれソロでヤマハのオーディションに合格。スクールの先生に2人で組むことを勧められて、キャッチ―で耳に残る、“ピンク・レディーサウンド”を作ったんです。新商品と一緒にトラックに揺られて、“このステレオはカラオケもついています。私たちが歌います”って3000円のギャラを頂いていました」

 ミニスカとブーツで歌って踊るスタイルは、すでにそのころから。しかし、あまり評判はよくなかったらしい。

『8時だョ!全員集合』にはヘリコプター移動

ピンク・レディー(増田惠子)インタビューは90分以上も続いた

「『スタ誕』の前にまずフジ系の『君こそスターだ!』に出たんですが、落ちてしまいました。自信満々だったんですけどね。プロ歌手みたいで新鮮味がなかったみたいです。何がいけなかったのかがわかったので、本命の『スタ誕』ではミニの衣装は着ないで、誰も知らない曲を踊らずに歌いました。それが功を奏したんでしょうね」

 見事にデビューを勝ち取ったわけだが、'76年4月に上京して、デビューは8月25日。その年の新人賞レースに食い込めるか微妙なタイミングだったため、メディアには出られるだけ出ようという作戦で、事務所はデビュー前から仕事を詰め込んだ。

「5月末くらいから、仕事がひっきりなしに入るようになり、睡眠時間は2時間ほど。当時は歌番組自体が多かったし、日テレ系の『カックラキン大放送!!』のような歌ありのバラエティー番組がたくさんありましたからね。ただ、当時はみんな忙しくて、私たちだけが特別という感じじゃなかったんです。コンサートは毎週土日、夏休みや春休みは全国縦断コンサートというのが普通でした。生中継だったTBS系の『8時だョ!全員集合』にヘリコプター移動したことも。体力的にもかなりキツかったですが“(西城)秀樹は1日3回コンサートだから”ってマネージャーに言われていて、ほかの方たちはもっと大変なんだって思っていました」

 あまりに忙しすぎて、売れていることに気づかなかったという。

「売れているって実感したのは、4曲目の『渚のシンドバッド』のときですかね。地方の収録でタクシーで現場まで行くときに、白い砂浜がずっと見えていたんですね。近づくと、黒い岩みたいなものが、ボコボコと並んでいる。砂浜なのに岩場って変だなと思ったら、岩じゃなくて人の頭だった(笑)。こんなに人が集まっているということは、それだけ人気になっているのかなって思いました」

 デビューした年にレコード大賞新人賞に輝き、翌年の‘77年には『ウォンテッド』でレコード大賞大衆賞を受賞した。

「その年はレコード大賞を取れるのでは? という噂があって、新人が取れるはずないと思いながらも、どこか期待している部分がありました。実際には『勝手にしやがれ』で沢田研二さんが受賞しました。記者会見で沢田さんが“若い2人の女の子が、食べる時間も寝る時間もない中でこんなに頑張っているんだから、男の自分が弱音を吐いちゃいけない。頑張らなきゃ”って言って下さって。小学校のときにザ・タイガースが大好きでしたから、憧れの人に優しい言葉をかけて頂いてうれしかったですね」

 もうひとりの“憧れの人”とも出会う。第7弾シングルの『サウスポー』は、当時ジャイアンツの4番打者としてホームラン世界記録を樹立した王貞治と左利きの女性投手が対決するという歌詞だった。

「小さいころは近所の男の子と野球をやったりしていたので、王さんが大好きでした。あるとき、王さんとの対談のお仕事があり、初めてお会いしたときは“王さんだ!”って心の中で叫んでしまったくらい感動しました」

ダブルブッキングは当たり前

 いつも分刻みのスケジュールで、綱渡り状態。ついに大失態を演じてしまう。

「青江三奈さんや佐良直美さんたち大先輩が出る番組に大遅刻。何時間も遅れて到着したらスタジオは異様な雰囲気で、みなさん腕を組んで待っていたんです。“どなたかがマネージャー出てらっしゃい。オタクの事務所はどうなってるの? この子たちを殺す気?“って。すぐにマネージャーが謝ってくれたんですが、先輩にかばってもらえてありがたいのと同時に、マネージャーがかわいそうでしたね。当時はいろいろな人が事務所に来て、勝手にスケジュールを入れていった感じでした。ダブルブッキングは当たり前。断らない会社だったんです」

 ストレスのたまる毎日だったが、同世代の仲間に助けられた。

「変な言い方ですが、キャンディーズさんはすごくかわいいらしい先輩でした。私たちはブーツを履くと180センチ近くになっちゃいましたが、キャンディーズさんはみんな小柄だったんです。よく比較されましたが、とんでもない。いつも“ちゃんと寝てる? ちゃんと食べてるの?”って心配してくれました。百恵ちゃんも優しかったことを覚えています」

 '78年の『カメレオン・アーミー』まで、オリコンシングルチャートで9曲連続の首位を獲得。人気絶頂だったが、その年の大みそかに“事件”が起きる。NHK『紅白歌合戦』を辞退したのだ。

「オファーを断るのがプロデューサーだった相馬一比呂さんの長年の夢だったんです。“番組を選ぶ権利はこちらにある”って思っていたみたいなので、こちらからお断りしたかったのでしょう。でも紅白を辞退したことで、大人たちの見る目が変わってきた気がして、暗雲が立ち込めてきたなというのはなんとなく感じ取っていました」

 紅白の視聴率が70%を超えていた時代。いくらピンク・レディーが社会現象になっていても、スターたちが集まう紅白を断って挑んだ裏のチャリティー番組がかなうはずもなく、惨敗。次に出したシングル『ジパング』では、ついにオリコン首位を取ることができなかった。その後アメリカ進出を図ったものの、日本のメディアには「失敗」と報道されてしまう。

ピンク・レディー、アメリカ進出の成否

「当時は“アメリカの番組に出られたのは、お金を積んだからだ”って言われましたが、アメリカのショービジネスはそんなに甘い世界ではありません。ピンク・レディーは、アメリカの3大ネットワークと言われるNBCで冠番組を放送していたのに、悪いことしか書かれない。“大失敗”って書かれたときは悔しかったですね」

 実際には‘79年5月にリリースした『Kiss In The Dark』が全米ランキングの37位となり、'63年の坂本九『Sukiyaki』(『上を向いて歩こう』)以来のトップ40入りという快挙だった。

 アメリカでの活動を終えて帰国すると、途中でやめたのは増田の“恋愛”が原因だと報じられたが……。

「確かに恋愛も1つの理由かもしれませんが、やっぱりレコード大賞を取って紅白を辞退したころから、歯車が外れた感じはありました。私たちもこれからどうやっていけばいいかわからなくなり、スタッフも方向性に迷ってしまった。アメリカに行って成功しても日本ではネガティブに扱われたりとか、みんなの心の中にすきま風が吹いていきました。自分もどんどん追い詰められていったんです」

 ブームが終わることは、2人ともわかっていたという。'81年にピンク・レディーは解散するが、その後、ソロとして初めて出したシングル『すずめ』が大ヒット。

「最初の曲は、ヤマハの大先輩でもある中島みゆきさんに書いてもらいたいって強い思いがありました。残念ながらお会いすることはできなかったのですが、デモテープでみゆきさんの歌う『すずめ』を聞いたときは、何とも言えない衝撃でしたね。2曲目の『ためらい』は松任谷由実さん、3曲目の『らせん階段』は竹内まりやさん、4曲目の『女優』は桑田佳祐さんが作ってくださって。今思うと、すごい方ばかりですよね」

フランスデビューと女優活動

 '88年にはパリに渡ってフレンチポップを学び、フランスデビューを果たす。歌手活動と並行して、女優としての活動も広がった。

「大林宣彦監督の『ふたり』や『あした』に呼んでいただきました。“ピンク・レディーを解散したら、女優をやればいいよ”って言っていただいたことがあって、本当に新尾道三部作のお話をいただいて。私は暗い役ばかりで悩んでいると相談したら“ケイちゃん、明るい役は誰でもできるんだよ”って。“陰って誰もが持つものではないから、陰のある役と言えば増田惠子って言われるようになればいいじゃないか”と言ってくださった。本当に救われましたね。人との出会いにはとても恵まれています」

 ソロになってからはバレエや茶道を習い、歌と芝居に通じそうなものにはなんでも挑戦した。バレエは30年近く続けている。7月27日には、これまでのすべてのシングルやライブ音源も入った2枚組アルバム『そして、ここから…』をリリースした。

「最初はソロ40周年の記念になればと思っていたんですが、阿久悠先生の未発表曲2曲を含む5曲が新曲で、自分のルーツであった人々に見守られてきた軌跡を表現できたかなと思っています」

 これからも、歌い続けようと思っている。

「年を重ねたから歌える楽曲があるし、歌詞の理解力も深まってきた。見た目はシワが増えたりとかありますけど、若いときとは違う深さとか温かさとか、そういうものがシワに刻まれていく気がしていて。だから私は、これからも凛として生きていきたい」

 プライベートでは'02年に結婚。44歳のときだった。

「結婚しなくても人間ができ上がっているつもりでいたけれど、伸びしろはまだまだありましたね。結婚してすごく成長しました。歳を重ねてからの結婚のほうが、自分ができていますから、ここは譲れるとか、譲れないとか、人としての余裕が違うんじゃないでしょうか」

 年を経て振り返ると、人生のターニングポイントは、やはり“あのとき”だった。

18歳のとき『スター誕生』に合格してデビューしたことです。幼い頃からの歌手になる!という夢を叶えられたことは本当に幸せに思います。大変なこともあったけど、人間その気になったら出来ないことなど何ひとつないということを学びました。絶頂期と比べたら、その後の人生は何もつらくないです。ピンク・レディーは、人生の道しるべを作ってくれた4年7か月でした。あの経験があるから、今でもこうして笑顔で楽しく生きていけるのかなって思います」

 全力で駆け抜けたから、今も輝き続けている。