小林千登勢さんと山本耕一さん

 女優・冨士眞奈美が語る、古今東西つれづれ話。今回は、故・小林千登勢さんとのヨーロッパ旅行での思い出。

 前回、20代のころに“冨士眞奈美、某流行作家と噂の関係”なんて週刊誌に書き立てられた話を綴った。私は渦中の人となったわけだけど、実はその直前まで小林千登勢とヨーロッパを2か月周遊していた。

ギリシャの遺跡ではミイラが転がっていた

 彼女と私は、馬渕晴子と合わせて「NHK三人娘」と呼ばれた間柄。NHK専属女優としてデビューを果たしたものの、しばらくして私はフリーランスとなり、千登勢とヨーロッパへ出かけたのは、そんなときだった。

 といっても、ただ遊びに行ったわけじゃないの。当時、私は文筆業も並行していたから、資生堂の雑誌『花椿』での連載を6か月分納品することを条件に出発。そのうえ、三菱商事の駐在員さんのアテンドで、行く先々で著名人を取材する─というお仕事つき。取材も兼ねていたけど、随分と羽を広げさせていただいたという意味では、「外遊気分」だったかもしれない。

 イギリスではロイヤル・バレエ団のダンサーにインタビューをしたり、フランスではパントマイムアーティストのマルセル・マルソーにも取材をした。ギリシャに立ち寄った際には、いくつかの遺跡がまだ手つかずで、ぼうぼうと生い茂る草をかき分けて進んでいくと、ミイラが転がっていた、なんてことも。今だったら考えられないわよね。

 イタリアに行ったときは、私の初恋の人との再会を密かに楽しみにしていた。彼はイタリアの警察で柔道を教えていて、これまでに3人のオリンピック選手を育てた、現地では名の知れた存在だった。

イタリアでの忘れられない思い出

 ペコ(大山のぶ代)と東京駅を歩いているとき、たまたま彼に会ったことがある。彼と挨拶を交わして別れた後、ペコが「誰、あの人!? あなたに今まで挨拶してきた中でいちばんハンサムな男性じゃない!」なんてびっくりしていたっけ(笑)。

大山のぶ代さん

 結局、現地で会うことができなかったけど、人生なんてそんなすれ違いばかり。でも、イタリアでは忘れられない思い出がある。

 千登勢と調子に乗ってショッピングやら滞在を楽しんでいたら、はしゃぎすぎて財布の中がすっからかんに。

 持参していた8ミリカメラを売って、お金を工面したはいいけど、「このあとどうしようかしら」なんて安宿で千登勢と相談したなぁ。つい数日前までは、ベニスの高級ホテルに泊まっていたのに。

 この2か月の旅を振り返りながら、たばこに火をつけようと、千登勢がロンドンのダンヒルのお店で買った……彼女と旦那さまである山本耕一さんの名前が入ったライターを借りたものの、まったく着火する気配がない。

 私が首をかしげていると、千登勢がワッと泣き出した。

「あなたは何でも人の物を壊すのよ!」

 そして、烈火のごとく怒り出してしまった。こっちに火がついたってしょうがないのにねぇ。

 こうなったら、ひたすら謝るしかない。謝るんだけど、安宿だからブンブンと蚊が飛んでくるわ、千登勢は泣きやまないわで大変だった。「オイルが切れただけよ」と伝えても、取り付く島もない。

「もういい! 私は明日の飛行機で東京に戻る!」。電話帳を取り出して、本当に帰ろうとする千登勢。その姿を見て、本心は耕一さんに会いたくなっただけなんじゃないのと疑ってしまったのは、ここだけのホントの話。

 結局、私たちは東京へと戻る決断をした。十分、楽しい思いもしたし、「もういっか」。

 その数十時間後─、記事の真相を直撃しようと集まった記者たちに羽田空港で囲まれて、イタリア以上に大変な思いをするなんて夢にも思わなかった(笑)。

 でも私の“騒動”は、翌日に起きたケネディ大統領暗殺事件の宇宙中継のためにすっかり忘れ去られてしまった。

 そういえば、千登勢は「生まれ変わっても耕一と結婚したい」と言っていた。「だって便利なんだもの」と。

冨士眞奈美 ●ふじ・まなみ 静岡県生まれ。県立三島北高校卒。1956年NHKテレビドラマ『この瞳』で主演デビュー。1957年にはNHKの専属第1号に。俳優座付属養成所卒。俳人、作家としても知られ、句集をはじめ著書多数。

〈構成/我妻弘崇〉