SakuYanagawaさん(撮影/伊藤和幸)

 今年7月29日から31日に新潟県の苗場スキー場で7万人を集めて行われたフジロックフェスティバル。草地の一角に組まれたメインステージの真ん中にSaku Yanagawaさん(30)の姿はあった。

 日本の野外音楽フェスの草分けともいえる歴史ある舞台で、スマイリー原島さんとともにMCの大役を任されたSakuさん。まだ30歳だが、アメリカで新進気鋭のスタンダップコメディアンとして注目されている。経済誌『Forbesアジア』の選ぶ「世界を変える30歳以下の30人」にも昨年選ばれた。

海外雑誌にも才能を認められたSaku Yanagawa

 流暢な英語で海外のミュージシャンを紹介する合間に、本業のスタンダップコメディを披露して、大観衆を沸かせた。

「今、アメリカではね。本当にアジア人差別がはびこっているんですよ。コロナウイルス以降ね」

 そう言って話し始めたのは拠点にしているシカゴでのエピソードだ。

 ある日、Sakuさんが舞台に上がると、お客の1人からヤジが飛んだという。

「ヘイ、コロナ!」

 スタンダップコメディはボケとツッコミがいる日本のお笑いとは違い、1人で社会風刺、政治、生活ネタなど幅広い話題について、ジョークを交えて笑わせる。

 差別的なヤジにどう切り返すか、コメディアンの腕の見せどころだ。Sakuさんがその男性客に目を向けるとハイネケンビールを飲んでいる。すかさず近くにいたウエイターに大声で注文したという。

「ちょっとウエイター。この人種差別主義者にコロナビール5本持っていって。誰が払うかって? メキシコさ!」

 聞き入る観客を見て、Sakuさんは日本人向けに解説を加える。

「OK、フジロック! 説明しよう!(笑)」

日本でフジロックMCに抜擢!攻めた笑いで差別にも打ち勝つ

 2016年の大統領選挙に出馬したトランプ氏がアメリカとメキシコの国境に壁をつくると宣言。その費用は「メキシコに払わせる」と言ったセリフを引用して、メキシコ産のコロナビールとかけて皮肉ったのだ。

「これが、まさかのスタンディングオベーションになったの。今日みたいに!」

 そう言ってフジロックの広い会場を見渡すと、大きな拍手と笑いが起こる。

「笑いも音楽も、そういうふうにやっていけば、差別に打ち勝てると、僕は本気で信じています!」

 SakuさんがフジロックでMCを務めるのはコロナ禍前の2019年に次いで2度目だ。最初はトークがウケず苦戦したという。だが今年は、そのときの失敗談も自虐ネタにかえて披露した。

 3年前、電気グルーヴというバンドを紹介するため舞台に上がったSakuさん。メンバーのピエール瀧さんがコカインを使用した容疑で逮捕されたばかりだったので、それをネタにしたのだが──。

「ピエール瀧さんとは草野球でよく対戦するんだけどね。彼がパーンとヒットを打って、1塁に向かおうとしたとき、1塁ベースまでの白い線を見て、もったいないと鼻で吸いながら歩いてて……と言ったら、シーン(笑)。4万5千人に無視されたんだよね。舞台袖で石野卓球さんだけが大爆笑!」

 Sakuさんが悲しそうな顔をしてみせると、ドッと笑いが起きた。

 実は初めてのフジロックでは、舞台裏でこんな屈辱的な経験もしている。最後の出番が23時半に終了。くたくたになったSakuさんが帰り支度をしていると、酔っぱらった有名バンドのボーカル2人が絡んできたという。

「今ここで面白いこと言えよ」

 Sakuさんが短いジョークを口にすると、

「全然面白くないな」

 そう言って、1人が火のついたロウソクを手に取り、スーツを着たSakuさんの腕に溶けたロウを垂らした。

「リアクション取ってみろよ」

 命じられるまま、わざと陳腐なリアクションをすると、2人で大笑いする。

「それだよ。それこそ笑いなんだよ」

 去っていく2人の背中を見ながら、「絶対に売れたる!」とSakuさんの心に火がついたそうだ。

「悔しさもあったし、情けなさもあった。でも、あそこで言い返しても負け犬の遠吠えになるのはわかっていたし。それまで僕らの仕事はいい作品をつくって世に出すことだと思っていて。売れるという目標を持つことには懐疑的だったけど、売れなければ、あいつらに何も言えないじゃないですか」

2022年、フジロックではメインステージのMCの合間、苗場食堂前のステージでライブも披露

恩師はデーブ・スペクター

 シカゴで暮らすSakuさんの日課は社会で何が起きているのかを知ること。ニュース番組はリベラル、保守と両サイドの局をチェック。『ニューヨーク・タイムズ』などアメリカの新聞を5紙、日本の新聞を3紙読んでいる。

「英語の長い文章をワアーッと読んで、最後に剃刀の宣伝だとわかったことも(笑)。朝6時に読み始めて11時までかかることもあります。

 まじめというか、スベったときに、ああ、あれやらなかったからだと思うと、すごく嫌になっちゃう。でも、やるだけやってあかんかったら、もう、お酒飲もうって(笑)」

 そもそもアメリカでスタンダップコメディアンになるのはどれだけ難しいのか。Sakuさんが恩師と慕い、今では毎日のようにメールで連絡を取り合うテレビプロデューサーのデーブ・スペクターさんによると、日本の芸能界とはシステムも違うのだという。

恩師と慕うデーブ・スペクターさんをネタにしたコメディを披露することも

「日本のお笑い芸人はみんなどこかのプロダクションに所属していて、大変失礼な言い方だけど、面白くなくても、愛嬌と事務所の力があればやっていけます(笑)。

 テレビにも出してもらえるし、先輩がいじってくれる。でも、アメリカでは100パーセント実力です。下積みから始めて人脈も全部自分でつくっていく。非常に孤独で大変ですよ。大体、家族に反対されますから」

 客層も違う。日本だとお笑いのファンは若い女の子が多いが、アメリカは男女半々。カップルが多く、大人向けのエンターテインメントだとデーブさんは強調する。

「下ネタもありだし、危ない過激な話を聞きたいから客はお金を払う。コメディアンはギリギリの線でネタをやらないといけないので、頭がよくないとダメ。

 しかもSakuさんは英語のハンディもある。語学力に加えて理解力と知識がなければいいネタは作れないから、ネイティブの10倍くらい大変だと思いますよ。でも、彼は吸収力がすごいんですよ。反応が速いし好奇心も強い。関西人でノリもいいから、こっちもいろいろ協力したくなるんです」

 デーブさんの言う“ギリギリの線”というのは時代によっても変わる。昨日までOKだったジョークが、今日はOUTということもあるので、見極めるのが難しいとSakuさんはこぼす。

 例えば、こんなネタがある。Sakuさんが道を歩いているとアジア人だというだけでお辞儀してくる人がいる。だったら自分は白人を見たら指で銃の形を作って「スクールシューティングするぞ」と叫ぶというもの。

「人をステレオタイプで見るのは好きじゃないと思って作った相当ダークなジョークだけど、そのネタを今やったら炎上しますよ。

 アカデミー賞の授賞式でウィル・スミスにビンタされたコメディアンが口にした容姿いじりとか人種差別ジョークも、今では時代錯誤だとされています」

 地域差も大きい。リベラルな都市でウケたネタが、保守層の多い州ではまったくウケないこともある。いちばん前で見ていた客にビール瓶を投げつけられたり、「日本に帰れ!」と罵倒されたり……。

 金銭的にもシビアだ。9割のコメディアンはギャラだけでは食べていけず、昼間に別の仕事をしているという。Sakuさん自身、収入が少ないときは、日本の雑誌へのコラム執筆、英語のオンラインレッスン、翻訳、通訳など単発でたくさんの仕事をして生計を維持してきた。

「メンタルヘルスを保つのは大変ですよ。うつになる同僚はめっちゃいますし、自殺も何人も見たし。薬物に手を出す人も本当に多い」

 インタビュー中、何度かメンタルヘルスに言及したSakuさん。背が高くてがっちりしており、何よりいつも笑顔で明るいので意外な感じがしたが、それだけ大変な世界なのだろう。

親友が絶賛する「観察力」

 今はコメディ漬けの生活を送るSakuさんだが、10代までは野球ひと筋で、いつかメジャーリーガーになることを夢見ていた。

 Sakuさんが生まれ育ったのは奈良県明日香村。高校で国語教諭をしていた父、服飾デザイナーの母、年が離れた3人の姉がいる。父は野球部の監督もしており、Sakuさんは英才教育を受けた。

「3歳のとき父親にバットを持たされたのが最初の記憶です。むちゃくちゃ厳しくて、親父が外角高めとかコースを投げ分けてくる球を、何球ずつかヒットにしないと帰れない。ツラかったけど、いいプレーをすれば気持ちいいし、その先に成功体験があるということを知ることができたのでよかったかな」

父親からの英才教育をきっかけに野球漬けの生活を送ってきた。「自宅でコメディ映画を見る時間は唯一の息抜きで、野球を忘れられた」と言う

 家ではコメディ映画をよく見ていた。コメディ俳優のジム・キャリーが大好きで、日本語吹き替え版のセリフを全部覚えたほどだ。漫画やゲームは「想像力がなくなるから」と禁止。父からのプレゼントは、いつも本だった。

「開高健とか坂口安吾をポンと渡されて。小学生だった僕は渋いなと思いながら読んで要約する。それに父が赤ペンを入れて、書き直さないと遊びにも行けなかった(笑)」

 中高一貫校の桐朋中学に入学し、上京した。野球の強豪校は関西にも多数あるが、文武両道で甲子園を目指せる学校を自分で探したという。ポジションはショートで4番。中高で主将を務めた。

高校時代のSakuさん

 野球部の同期で親友の初馬眞人さん(30)は、Sakuさんのことを、「かなりやんちゃだった」と証言する。

「朔は野球が本当に上手だったからキャプテンになったけど、中学時代は好き放題やってましたよ(笑)。練習前に全員やるはずのランニングを、あいつがやっているのは1回も見たことがないし、グラウンド整備は先輩にやらせていたし(笑)。

 それが変わったのは高校で先輩が引退した後からですね。練習も熱心に取り組んで、高3の夏の試合前日には毎回長めのメールを送ってきて、最後に必ず『裸で行こうや』と書いてある。みんなでなんやこれと笑いながら、頑張ろうと一丸になれた記憶があります」

 練習が終わるとSakuさんは監督のモノマネをして部員たちを笑わせていた。学園祭のときは1人で舞台に立ち、全校生徒を笑いの渦に巻き込んだと初馬さんは話す。

「廊下を直角に曲がる先生とか今にも死にそうな声の先生のモノマネをして大爆笑でした。本当によく見てるなーと。朔はいまだに中高時代のことを細かいことまで覚えていて、話のひとつひとつが面白い。観察力がすごいんだと思います。周りの人をいじってネタにするのは、そのころから上手でしたね」

海外で財布をすられて路上で歌う

 そして迎えた高校野球、最後の夏──。都大会で第1シード校と戦い敗退……。1週間後には頭を切り替えた。

「大学野球で全国大会を目指そう」

 1年浪人して大阪大学文学部に合格。野球部に入り、すぐレギュラーになったものの、ひじの故障もあり、1年たたずにやめてしまう。

「親父には申し訳ないなと思いましたよ。どんなことがあっても逃げるなとずっと言われてきたので。だけど、目の前にやりたいことがいっぱいあったので、“やーめよ”と(笑)。もともと劇作家か批評家になりたくて文学部に入ったんですよ」

 5週間のイギリス語学研修に参加したときのこと。2日目に地下鉄で財布をすられてしまう。「お金を稼ごう」と手元にあった最後の36ポンドで買ったのはなんと中古のギター。街に出て歌うと24ポンド集まったそうだ。

 肝心の英語は、文法の間違いを気にして話せずにいる自分に直面。悔しくて帰国後に徹底的に英語力を磨いたことが、後に役立った。

「演劇学・音楽学」の研究室に所属し、教授や学生たちとドイツでブレヒトを上演。主要な役をもらい、演じる楽しさに目覚めたという。

NYへ! 片言の英語で腕試し

 人生を変える出会いがあったのは、大学2年生の冬。たまたまつけていたテレビ番組『笑ってコラえて!』で、ニューヨークで活躍する日本人スタンダップコメディアンのRio Koikeさんを目にする。人種も年齢も異なるさまざまな聴衆を笑いに引き込んでいく姿に、心をわしづかみにされた。

「これや!」

 FacebookでRioさんに《僕もスタンダップコメディをやりたいです。今からそちらへ飛びます》とメッセージを送り、翌日、関西空港に向かった。

「日本人の僕が言うから面白いこと、僕だから言えることを極めなきゃいけないと思ってます。自信がなくなるときもあるけど、実績は確実にできていると自分をなぐさめながらやってます」とSakuさん(撮影/伊藤和幸)

「自分で脚本を書いて、演出して、自分で演じる。皆でつくる演劇と違い、1人で完結できるというのが衝撃でしたね。全部自分でやっていいの? 楽しい!って」

 格安チケットで上海、サンフランシスコを経由し70時間かけて現地に到着。Rioさんに会うと、こう言われたそうだ。

「連絡をくれるヤツはいっぱいいるけど、実際に来たのは君が始めてだよ」

 Sakuさんはスタンダップコメディの劇場をアポなしで次々訪ね、「ネタをやらせてほしい」と頼んだが──。

「1軒目でめげましたよ。もう日本に帰ろうって(笑)。でも、何度も断られていると、慣れてくるんですよね。

 そうしたら何軒目かで、オープンマイクという誰でも参加できるイベントがあるからサインアップ(申し込み)しろと。“うわー、本当にやっちゃった。いいのかなー”という感じでしたね」

 オープンマイクには全米各地からコメディアンやアマチュアが腕試しにやってくる。1人に与えられる時間は4分。Sakuさんは長いフライト中に考えた、日本の満員電車で乗客を押す駅員のネタを無我夢中で話した。

「これがウケたんです。聞いていたほかのコメディアンたちが“よくやったねー”とねぎらってくれて。当時は今より英語は片言だったけど、伝えようとするエネルギーがあったんですかね」

 翌日、シカゴに飛んだ。シカゴには有名コメディアンを輩出した「セカンド・シティ」という老舗劇場がある。シカゴから来ていた女性コメディアンに、そこのオープンマイクに参加しないかと誘われたのだ。

 帰国するとすぐ、面識がなかったデーブさんに長文の手紙を出した。シカゴ出身のデーブさんは日本に来る前、コメディアンとして「セカンド・シティ」の舞台に立ったことがある。どうしても自分の決意を伝えたくて、一方的にこう書いた。

《僕はアメリカでコメディアンとして必ず成功します。“逆デーブ・スペクター”になりたいんです》

シカゴのコメディアン仲間と。親友とは互いのネタを見せて批評し合う時間をつくり、ブラッシュアップしている

「行動力」と「縁」で叶えた夢

 '16年に大学を卒業すると東京にある俳優養成所に入った。コメディアンになるために、もっと表現力をつける必要があると感じたのだ。

 さらに小さな舞台のあるハワイアンレストランに交渉。2時間のショーを月に1度やらせてもらえることになった。

 会場には40人入る。1日2回公演なので、毎月80人集客する必要がある。

「Facebookの友達数百人に、片っ端からメッセンジャーでチラシを送ったけど、ほぼ無視されて(笑)。1回だけですが、お客が2人のときもありました」

 だが、そんな苦労は序の口だった。外国人がアメリカで働くにはビザがいる。Sakuさんの場合、O―1というアーティストビザが必要なのだが、ビザを申請するにはコメディアンとしての実績がいる。レストランのショーでは実績にはならない。アメリカでコメディ大会にも出場したが、優勝はできず……。

 頭を抱えていると、コメディアン仲間から救いの手が。

「俺は行けないけど、おまえ行くか?」

 アフリカのコメディ・フェスティバルへの誘いが舞い込んだのだ。公用語として英語も使われているアフリカ東部の国々ではスタンダップコメディが盛んだ。Sakuさんはケニア、ルワンダ、ウガンダで舞台に立ち、テレビ番組にも出演した。

ケニアのテレビ番組に出演。場数を踏むことで国の文化や風土にチューニングした“ローカルな笑い”を極めた

 次に向かったのは、世界最大級のアートフェスティバルが行われるスコットランドだ。そこでフジロックの創始者である日高正博さんに出会い、MCの道が開けたのだから、縁とは不思議なものだ。日高さんを紹介してくれたのは、Sakuさんが東京で参加している草野球チームの仲間で、伝説のドラマー池畑潤二さんだった。

 当時はまだ無名だったSakuさんを抜擢したいちばんのポイントは「人間性と意気込み」だと日高さんは説明する。

「Sakuは素直だな。例えば、そこはもう少し間を置いて話したほうがいいとか、何か注意しても素直に聞いてくれるし。俺たちの世界って、嘘をつく人や見栄を張る人はダメなの。それにSakuには未来がある。将来がある。フジロックの経験を通して、彼の幅が広がって成長につながればいいなと。まあ、はっきり言えば、お金を払ってもらいたいくらい(笑)」

 アートフェス終了後、Sakuさんは現地で知り合ったアーティストの伝手を頼り、ヨーロッパ5か国を回った。

「どこもギャラは出ないし、飛行機代も滞在費も全部自腹です。スコットランドでは自分で劇場を借りて、フライヤーを刷って、チケットを売るから、公演をやるだけで50万円の出費です。舞台でスベったら、自分への慰めの意味でスコッチウイスキーを1杯飲むことにしたら、最終的に60杯飲めましたよ(笑)」

 合計で457万円かかった費用はすべて借金となったが、草野球チームの監督が貸してくれたという。

 こうして海外を転戦したおかげで、コメディアンとして大切なことに気づけたとSakuさんは振り返る。

「大学生のときは頭でっかちで『世界に通じる笑いをつくる』と言っていたけど、いろいろな国でやるにつれ、ユーモアって、むっちゃローカルなんだと。その国、その国にチューニングしていく必要がある。そのためには現地の人とたくさん言葉を交わして心を通わせることが大事なんだと、肌で学べたのは、むちゃくちゃでかかったですよ」

「夢を追う夫」を支える妻

 浮き沈みの激しい世界で精神的な支えになっているのは4年前に結婚した妻の麻美さん(42)だ。Sakuさんは「今まで出会った人の中で、いちばんメンタルが安定していてブレない人」だとベタ惚れだ。3歳になる娘もいるが、日本にいる妻子とは離れ離れの生活が続いている。

 Sakuさんから連絡が来るのは舞台の前後が多い。落ち込んでいると、麻美さんはこう励ますそうだ。

「大丈夫、大丈夫だよ」

 麻美さんに「夫が夢を追うことに不安はないのか」と聞くと、まるで意に介さず明るく答える。

「うちのダンナに限らず、すべての人はやりたいことをやるのがいちばんいいかなと思っているので。何をやっていても不安が出るときは出るので、それを心配するよりは好きなことをやってくださいという思いがあります」

 妻のほかにも、デーブさんや日高さん、草野球チームの監督、コメディアン仲間など、Sakuさんの周りには応援団がたくさんいる。いろいろな人に助けられて、ここまでやってきた。皆に愛される魅力はどのへんにあるのか。長年の友人である前出の初馬さんはこう表現する。

「無邪気なところですかね。少年のようにまっすぐだし、いつも目をキラキラさせて話してくれますから。自分を曲げずにこだわりを持ち、夢に向かって一直線に走っている姿勢というのも、人を惹きつける力になっているのではないかと思います」

 Sakuさん自身は、アメリカで夢を追うのは大変だけど楽しいと笑う。

「精神的には日本よりはるかにサポーティブです。出る杭は打たれないし、失敗する可能性があることでも“やれやれー”と応援してくれる。僕みたいに無鉄砲で、後先考えずにやるタイプの人間には合ってますね」

 コロナで一時期閉鎖していた劇場も2021年4月には全面再開し、今では年間400本のステージをこなしている。

「野球で例えたら、もうすぐメジャーリーグの打席に立てるところまで来たという実感があります。でも夢に手が届きかけて届かない人もいるので、今が大事な時期です。フジロックでスベっている場合じゃないですよね(笑)」

政治や差別意識を掘る笑い

 今年、フジロックが開催される1か月前に帰国したSakuさん。すぐに芸人のせやろがいおじさんと一緒に全国11か所を回るツアーを敢行。その集大成として、7月22日には東京・丸の内の「コットンクラブ」で舞台に立った。

今年、東京・丸の内のコットンクラブで単独ライブを開催した。(撮影/伊藤和幸)

「ずーっとこの場所でやりたいと言っていて、夢叶っちゃったね」

 マイク片手に話し始めると、もう止まらない。シカゴで毎日会う名物ホームレスとのウイットに富んだ会話。海外公演での失敗談。銃規制に絡めた中学時代の思い出話……。テーマを次々変えて、100人ほどの観客をぐいぐい引き込んでいく。

 終わったばかりの参院選を念頭に、政治的な話題もさらりと触れる。

「僕、世の中に2種類の嫌いな人間がいるのよ。まず人を支持政党でジャッジするヤツ。あとは自民党に投票するヤツ!」

 拍手と笑いで場内が沸くと、こう続ける。

「ここで拍手が起きたら、これ、集会やから。スタンダップコメディの魅力は隣の人と支持政党が違っていても、それを笑えることだからね。今から僕がカウントダウンするから、せ~ので支持政党を叫ぼうか。それで席替えするから(笑)。いやウソ、ウソ!」

 “ギリギリの線”を狙ったネタも披露する。シカゴでは出番が終わると日本語を学ぶアメリカ人によく話しかけられるという内容で、Sakuさんが「ワタ~シハ~……」と外国人のアクセントをマネすると笑いが起きた。その様子を見て、こう続ける。

「アメリカで今、これをやったら僕は一発でクビ。一生分の仕事をキャンセルされます。

 でもさ、家に帰ってシャワー浴びながら、俺はこういうネタで笑うんや、私にはこんな感情が内包されてんのやと気づくことができるからこそ、こういうコメディのライブ会場で、皆で笑うことは非常に意味のある尊いものなんだと思います。ここに集まっている皆さんに、もう一度拍手をお願いします!

 そう言うと、ひときわ大きな拍手が巻き起こった。

 Sakuさんが次に目指すのは『サタデー・ナイト・ライブ』などの人気トーク番組で司会をすることだ。ハリウッドのコメディ映画にも出演したい。どちらも有名コメディアンたちがたどった道だ。

 その勢いで日本に逆輸入され、1万人を集めて武道館で公演をしたいとも。

「もう、毎日が小さな挫折と回復の繰り返し。やめたろうかなとか、もう無理、きついわーということばっかりです。でも、とにかくできるまでやり続ける。できてないことでも、『今やっている途中なんで』と言い続けます。だから、死ぬまでにできなかったら、お葬式でボコボコに言ってください(笑)」

 まだ30歳。これから何をやってのけてくれるか、楽しみだ。

取材・文/萩原絹代(はぎわら・きぬよ) 大学卒業後、週刊誌の記者を経て、フリーのライターになる。'90年に渡米してニューヨークのビジュアルアート大学を卒業。'95年に帰国後は社会問題、教育、育児などをテーマに、週刊誌や月刊誌に寄稿。著書に『死ぬまで一人』がある。