『天王寺動物園』での企画展で展示さえているヒョウのはく製

 今にも動き出しそうな、生き生きとした表情のヒョウのはく製。これは太平洋戦争中に、人間たちの身勝手な都合で殺されてしまったヒョウのはく製だ。

 大阪の天王寺動物園では毎年、7月後半から8月末にかけて、企画展『戦時中の動物園~私たちに今、できること~』を開催。園で殺処分された動物のはく製や、当時の新聞記事などの貴重な資料を展示している。

猛獣を射殺する訓練も存在した

 戦時中、天王寺動物園をはじめ、東京の上野動物園、名古屋の東山動物園、福岡市記念動物園など全国の動物園で、何の罪もない動物たちが軍の命令により次々と殺された。“爆撃で檻が破壊されたとき、動物が街に逃げ出して人間を襲うかもしれない”という理由からだ。

「失われた動物たちの命を通じて、戦争の悲惨さや平和の大切さを知っていただきたく、2005年から17年間、毎年この企画展を開催しています」

 と、天王寺動物園運営課の久田治信さん。今年度は、戦渦にあるウクライナの動物園の現状を伝える動画も上映している。ロシア・ウクライナ戦争の長期化が懸念されるなか、企画展への関心も例年より高まっているようだ。

 天王寺動物園の歴史は古く、開園は1915年の大正時代初期までさかのぼる。東京・上野動物園、京都市動物園に次ぎ、国内で3番目の動物園として開園した大阪市立動物園がその前身だ。サイやチンパンジーを日本に初めて招き、ゾウ、カンガルー、キリン、ホッキョクグマ、マンドリルなどを飼育。開園20周年を迎えるころには、年間来園者数が250万人を突破し、大変な盛況ぶりだったという。

「20周年記念のわずか3年後の1938年に、空襲に備えた『逃走猛獣捕獲演習』が実施されました。空襲で檻が壊れたという想定のもと、逃げ出した猛獣を射殺するための訓練です。猛獣にはライオンなどの肉食動物だけでなく、ゾウやキリンなど、草食の大型動物も含まれます」(久田さん、以下同)

 1940年ごろからは、食料不足で動物たちにも満足にエサを与えられない状況となった。

「それまで、ライオンやトラには牛肉を与えていました。戦争が激化し、人間の食べるものすらないなか、とても牛肉など手に入りません。ニワトリの頭などで代用するのが精いっぱいでした」

 馬肉を与えていたオオカミやタヌキには、代わりにイワシを。どじょうやフナを与えていたペリカンやツルにも、同じくイワシを与えていたという。

「園から港が近いこともあり、当時もイワシだけはなんとか手に入ったようです。さつまいもやにんじんが好物だったゾウには、おからやかぼちゃを与えてしのいでいました。まったくエサを与えない“絶食日”も設けられました」

 ゾウ1頭だけで、通常は1日あたり100キログラム以上のエサを必要とするが、もちろん賄えるはずもない。1942年の冬には、人気者だったアジアゾウのオス、ランプールと常盤の2頭が相次いで死んでしまった。

殺処分を回避するために試行錯誤

「食べるものがないのはもちろん、燃料不足でゾウの園舎を暖めてあげることができず、寒いなかでどんどん弱っていきました。最後は立つことすらできなくなり、飼育員たちがクレーンのようなもので支え、なんとか立たせてあげようとしたそうです」

 そんななか、とうとう「戦時猛獣処分」が実施されることに。「肉食動物や大型動物を処分せよ」という、軍からの命令だ。終戦2年前の、1943年のことだった。

 太平洋戦争中に殺処分された動物として広く知られているのは、童話『かわいそうなぞう』に登場する、上野動物園のゾウたちだろう。軍から猛獣処分の命令が下ったものの、賢いゾウたちは毒入りのエサを食べようとしなかった。

 最終的に餓死してしまうが、物語ではゾウたちを見守る飼育員らの苦しく悲しい心情が描かれている。この童話は、児童文学作家の土家由岐雄氏が実話に基づいて創作し、1951年に初めて発表された。その後、1970年代から'80年代にかけて小学校の国語の教科書にも掲載され、誰もが知る物語となる。

「天王寺動物園でも、殺処分されたメスのヒョウの話がずっと語り継がれています。今は亡き飼育員の原春治さんを、親のように慕っていた利口なヒョウです」

企画展『戦時中の動物園~私たちに今、できること~』は8月28日まで開催されている

 飼育員の原さんは、親のヒョウが育てられなかった赤ちゃんのヒョウを、ずっと大切に育ててきた。原さんと子ヒョウの間には、深い絆があった。この物語は、天王寺動物園が製作した紙芝居『どうぶつたちのねがい』や、絵本『きえないヒョウのつめあと』などで今も知ることができる。

 戦争が長引くなか発令された「猛獣処分」について、紙芝居では「おそろしい命令が来ました」と表現している。

「命令が下った各地の動物園では、なんとか殺処分を回避できないか、いろいろと試行錯誤したと聞いています

 にもかかわらず、とうとう最初の猛獣処分が1943年の8月に上野動物園で実行されてしまった。

「天王寺動物園の園長は、地方の園にヒョウやほかの動物たちを移送して守ろうとしました。でも、私たちの園だけ特別扱いするのは許されなかったのです」

 天王寺動物園でも、同年の10月から殺処分が始まった。紙芝居には、そのときの様子が記されている。

《銃で殺せば、街の人たちに気づかれてしまいます。「硝酸ストリキニーネ」という毒薬をエサに入れ、それを食べさせて殺すこととなりました。おなかのすいたライオンやトラたちは、久しぶりに見た肉を喜んで食べたあと、苦しみながら死にました。

 ツキノワグマは一回の毒では死なず、毒入りのエサを三回食べたあと、苦しみながら24時間後に死にました。でも原さんの育てたヒョウだけは、毒入りのエサを食べようとせず、すぐに吐き出しました。原さんが子供のように育てたかわいいヒョウ。やせて弱りながらも、必死に生きようとしています。でも、殺さなくてはならないのです》

チンパンジーには軍服を着させて

 毒入りのエサを食べない賢いヒョウは、仕方なくロープで首を絞めて殺すことに。

「原さんは、ほかの人に殺されるくらいならと、自分の手で殺すことを決意しました。ヒョウは、ロープを持って近づく原さんにうれしそうに甘え、首にロープを巻かれてもおとなしくしていたそうです。でも原さんは結局、たまらずに檻を飛び出してしまいます。ヒョウはやむをえず、ほかの飼育員によって処分されました」

 原さんとヒョウの物語は、決して忘れてはいけない出来事として、大阪の子どもたちに語り継がれている。天王寺動物園では、府内の小学校などで『戦時中の動物園』の講話を行っている。悲しい出来事が二度と繰り返されないよう、願いを込めてのことだが、いま再び、遠く離れたウクライナで、人間や動物たちの安全が脅かされている。

「福岡の大牟田市動物園が、ウクライナの動物園関係者にリモートインタビューを行いました。企画展でその動画を上映していますが、非常に危険な状況の園もあります」

飼育員の原さんと、彼に懐いていたヒョウ。絞殺されたヒョウは、すべての爪を立てて息絶えたという

 ウクライナ北東部の都市・ハルキウの動物園『フェルドマン・エコパーク』では、ロシア軍による攻撃で園内の施設や檻が破壊された。動物たちは安楽死を検討されていたが、現状を知った国内外から支援が寄せられ、紛争地域外へ動物たちを避難輸送させるための資金が集まったという。ただし、国内には度重なる爆撃を受けた動物園がほかにもあり、飼育員らの負傷・死亡も報告されている。

「天王寺動物園では、結局26頭もの動物が殺処分の犠牲になりました。殺処分にはならなかったものの、人気者だったチンパンジーも軍服を着せられ、戦意高揚のために利用されました。何も知らない動物たちを戦争に巻き込むのは、本当に悲しいことです」

 終戦から77年目の夏。世界では、また同じような悲劇が起こっている。他人事ではなく自分のこととして、いま一度平和について真剣に考える必要がある。