楓音(かのん)ちゃんとの食事風景(撮影/伊藤和幸)

「まずは野菜スープからいこうか! 匂い嗅ごうね。大丈夫そう? あーん」

 中学1年生の娘・楓音(かのん)ちゃん(12)の鼻の下にスプーンを近づけ、料理の匂いを嗅がせてから、ひと口ずつ食べさせる母親の永峰玲子さん(44)。この日のメニューはご飯と野菜スープ、鮭のハーブ漬け、肉じゃが、かぼちゃサラダ。だが、楓音ちゃんが食べているのは、どれもミキサーにかけ、とろとろの状態に変えたものだ。

「次はかぼちゃサラダいこうか。味変わるよ~」

 少し目を見開いた楓音ちゃん。玲子さんはその様子を確認しながら、ゆっくり食事を介助していく。

「匂いを嗅がせることで、口に入れるメニューが変わることを知らせます。見た目では酸っぱいのか、甘いのか、楓音には想像できないので、ひと口目はびっくりするんです」

嚥下障がい児の家族が集う「場所」

 楓音ちゃんには新生児のころから嚥下障害がある。飲み込む力が弱く、食べ物を噛んで適切な大きさにまとめ、胃へ送り込む「嚥下」の機能がうまく働かないのだ。

 固形物は噛み砕けないし、サラサラした汁物も喉を通るスピードが速すぎて誤嚥を招く。そのため、適度な“とろみ”とまとまりのある状態にしてあげる必要がある。

「なるべく私たち親と同じメニューを食べてもらいたい。だから、普通に料理した後、楓音の分だけミキサーにかけ、市販のとろみ剤やゲル化剤などを使って、とろみのある状態に整えているんです」

 時折、「んふふ」と短く声を上げ、美味しそうに口を動かす楓音ちゃん。玲子さんは取材に答えながらも、スプーンを運ぶ手を休めない。

「食べ終わるまでに3時間かかる日もあります。特に夏休みは朝昼晩、一日中スプーンで食事介助しているので、指が赤く腫れてペンだこみたいなものができます」

 玲子さんには、心待ちにしている時間がある。嚥下障がい児を持つママパパたちがオンライン上に集う『スナック都ろ美』の開店時間だ。

 月に3回、昼と夕飯時、夜に営業日を設け、画面越しに交流を深めている。

「ふざけた名前でしょ?(笑)。嚥下障害の子どもを育てるパパとママのコミュニティーなんですけど、まじめなお勉強会を想像させる名前にしちゃうと、どうも力が入っちゃう。ふらっと気軽に参加できる場にしたかったんです」

 登録者は海外在住者も含め、約300人。「常連さん」と呼んでいる。

『スナック都ろ美』のママたちと。悩みを共有し、共に解決を目指している(撮影/伊藤和幸)

「くだらない話でワイワイ盛り上がれるスナック営業日は本当に楽しみ! 夜の営業日は特に下ネタも多いですね。『お毛毛が生えてきた』とか、『生理がきた』とか。男性の場合、尿漏れが大きな悩みらしく、おむつパッドを巻く方法を“ちん巻き”と言って紹介した人もいましたね(笑)。医師も教えてくれない生の情報を笑いながら話せる場です」

 “笑える居場所”が必要だと感じ、当事者会を立ち上げた玲子さん。その背景には、泣いてばかりいた自身の過去があった──。

健康な私からなぜこの子が……?

 六本木のクラブジャマイカで知り合い、3年交際の末に夫・雄介さん(45)と結婚。2009年10月、楓音ちゃんが生まれた。“レゲエ好き”という夫婦共通の趣味から、“音”を名前に入れた。

 出産は、長時間に及ぶ難産だった。へその緒が赤ちゃんの身体に絡まっていたからだ。

 玲子さんの体力も限界に近づき、意識が朦朧とする中で出産。娘を初めて抱き上げたときは、喜びと安堵が込み上げ、「これからよろしくね」と笑みがこぼれた。

 容体が急変したのは数時間後のこと。楓音ちゃんに発作が起き、救急車で東京都世田谷区の成育医療研究センターへ運ばれてしまう。

「気が気じゃなかった。隣のベッドでは、赤ちゃんを抱いて幸せそうなママがいる。自分は本当に産んだんだっけ?って。悪夢のような気もして。明日起きたら、妊婦に戻ってたらいいな……とも思いました。お祝い御膳を出されたとき、あぁ、現実なんだって、泣きながら食べました」

出産直後、楓音ちゃんに発作が起きる前(撮影/伊藤和幸)

 集中治療室に入る小さな娘に、玲子さんがしてあげられるのは、毎日冷凍保存した母乳を届けることだけだった。

 その間、玲子さんは病名がわからない不安と闘っていた。検査入院は長引き、生後2か月がたつころ、ようやく楓音ちゃんの退院許可が下りる。

 医師からはこう告げられたという。

「この子は、生涯寝たきりで、座ることも歩くことも、物を見ることも、言葉を発することもないかもしれません」

 病名は、「大田原症候群」。新生児や乳幼児に発症する重症のてんかん性脳症で、全国の患者数は100人未満の希少難病だ。身体の硬直や発作が起き、精神・運動面での発達が遅れる。これにより、嚥下障害も併発した。

 医師との面談で、娘が患った病の重さを感じる一方、玲子さんはほっとしていた。

「病名がわかったんだから、治るよねって思ってました。私は昔から健康には自信があって。中・高の6年間ソフトテニスに打ち込んでいたし、“風邪をひいても学校は休むな!”って母に言われて育ったくらい。健康体から生まれたんだから、大丈夫だと……」

 ところがインターネットで病名を検索すると、絶望的な情報しか出てこない。厚生労働省が定める指定難病で、有効な治療法も確立されていないことがわかった。

「多くの人が5歳未満で亡くなるとか、発作が起きるたびに脳が破滅に向かっていくとか……悲惨なことばかり。情報がとにかく少なくて、不安だけが募っていきました」

 健康な私からなぜこの子が生まれてきたのか。妊娠中に仕事をしすぎたのか。食べたものがいけなかったのか。自分を責めて原因ばかり考え込み、心はすり減っていった。

「家では1日中、母乳を自分でしぼって冷凍して、解凍して……って作業をやりながら泣いていました。

 1滴取るのも大変なのに、飲まずに寝ちゃうと、廃棄しないといけないので、すごくイライラしちゃって。今でも授乳するママを直視できないんです。うらやましくって」

泣いてる私の横で笑っていた娘

 楓音ちゃんが2歳になると、妊婦のときに知り合ったママ友との付き合いを避けるようになった。同時期に生まれた子どもたちと娘の成長に明らかな差を感じることが、つらかった。

 そんなある日、ブログで大田原症候群の子を育てるママを見つけ、会いに行こうと決意する。

「その子は3歳の男の子で、寝たきりでした。でも私はうれしかったんですよ。先輩ママがとにかく明るかったから。先が見えない恐怖を抱えていたので、心の準備ができたんですね。家族が明るければ、大丈夫だって」

 悩みを共有できる仲間の存在に大きく救われ、胸のつかえが少しだけ取れた気がした。

 そして数日後、さらに玲子さんを奮い立たせる出来事が起こる。楓音ちゃんをバギーに乗せて買い物に出かけた日のことだ。手をつないで横断歩道を渡る幼稚園の子どもたちの姿が目に入り、涙があふれてきた。

「歩いてる子どもたちがキラキラして見えちゃって。楓音にこう育ってほしいなんて強い要望はなかったけど、ただ手をつないで歩きたかった。歩かせてあげることすらできないと申し訳ない気持ちで、虚しくなって……。涙が止まらなくなっていました」

 当時を思い出した玲子さんの声が少しかすれる。そのとき、隣に座る楓音ちゃんが「あー」と声を上げて笑った。玲子さんは、そちらに顔を向けて笑い返し、話を続けた。

玲子さんが話しながら少し涙ぐんだ際、楓音ちゃんが笑い声を上げて場が和むシーンも(撮影/伊藤和幸)

「まさに、こんな感じですよ。あの日も、私が泣いている横で楓音がめちゃめちゃ笑っていたんです。悲しい気持ちで幼稚園の子どもたちを見ていた私に対して、楓音は同じ光景をニコニコして見ていた。

 手をつないで歩けないことを不幸だと決めつけるのではなく、彼女なりの幸せがあるはず。親子だけど、心は私とは違う。彼女が笑顔でいられる方法を考えればいいんだって、気づいたんです。娘が幸せでいられるように」

 その日から家に引きこもりがちだった生活は一変する。

 前述の先輩ママのみならず、同じ境遇の家族と積極的につながりをつくり、患者会やイベントに携わった。

 障がい児の手形を集めて大きな絵にする『ハンドスタンプアートプロジェクト』。大田原症候群の患者会『おおたはらっこ波の会』の立ち上げなど活動の輪を広げ、今や7つのプロジェクトの中心メンバーとして活躍している。

「“死にたい”って言っているママがいると聞いて、誰かの役に立ちたいと思いました。私がかつて明るいママを見て大丈夫だと思えたように、重い障がいがあっても楽しんでいる様子を積極的に発信して、ネット上の悲惨な情報を、明るい情報に書き換えていきたいんです」

企業の社長も“〇〇ちゃん”呼び!

 もともとは「引っ込み思案だった」という玲子さん。その性格が変わったのは短大生のころだという。

「高校生までは、まじめでおとなしくて。周囲に溶け込めず、いじめられたこともありました。でも短大生のころ、父親が立ち上げた渋谷109ブランド『ココボンゴ』でバイトを始めて、カリスマ店員と呼ばれるようになったんです。にぎやかな職場で、人と話す練習になりました」

ブランド「ココボンゴ」のカリスマ店員時代の永峰玲子さん(撮影/伊藤和幸)

 '90年代半ば、ファッションブランドの販売員がブームを牽引した時代。“渋谷109のカリスマ店員”はその象徴的な存在だった。

 雑誌ではタレントのような扱いで特集が組まれ、カリスマ店員が着た服は即完売。年始の福袋は1日1000万円近くの売り上げを記録するほど客が行列をつくったという。

「必死でしたね。トイレに行く時間もないほど、1日中接客して、レジ打って。街を歩いていると、“サインください!”って声をかけられたり、キャーッて泣かれたりしたこともありました」

 短大を卒業後も、そのまま父親の会社で6年間勤務。商品開発なども担当した。

 そのとき培った企画力やコミュニケーション力は、冒頭で紹介した『スナック都ろ美』でも活かされている。

「もしもし、『スナック都ろ美』の玲子ママです!」

 そう言って、大企業に電話をかけるのも活動のひとつ。スナックのママを名乗る女性からの電話に、「誰だ、誰だ」と電話口から慌ただしい雰囲気が伝わってくることもある。

 例えば、嚥下障がい児でも食べられそうな商品を見つければ、販売元に電話をかける。

「ひきわり納豆よりさらに細かい納豆がスーパーで販売されているのを見つけ、これは嚥下食にいいぞ!と。動画で紹介したいと交渉するんです」

 そんな具合で、企業にどんどん声をかけている。1本の電話が“嚥下障害”向けの商品開発に発展することも。

「企業との打ち合わせでは、どんなお偉い役職の方に対しても、スナックママの立場を利用して、『〇〇ちゃん』と呼んじゃうので、場が和む(笑)。“スナック”と名づけたことで自然と明るい雰囲気が生まれて助かっています」

 嚥下障害は加齢に伴う筋肉の衰えで高齢者が発症することが多く、介護食の商品は充実している。だが、子ども向けの商品は少ないという。

「家では手作りですが、外出のとき持参するレトルト商品の選択肢が少ないことは、ママたちの悩みです。サバの味噌煮とか渋いメニューが多くて(苦笑)。いま、美味しい高齢者向けの弁当を作る会社と子ども向けの弁当も作ろう!と開発に携わっています」

外食先でも、親子で同じメニューを

 通常、嚥下障がい児と外食する場合、介護用レトルト食品を持参するか、ミキサーを持ち歩くことになる。

 注文した料理をお店の席でミキサーにかけることは、なかなか勇気がいるという。

鮭は焼いた後、骨を丁寧に除いて身をほぐし、ミキサーにかける(撮影/伊藤和幸)

「きれいに盛りつけされているので、ミキサーで形状を変えるとき申し訳ない気持ちになる。それにミキサーの音が目立つんです。近くの席の小学生に“うわ、ゲロみたい”と言われて、心が折れたこともあります。悪気がないとわかっていても悲しい」

 外食先でも、親子で同じメニューを食べたい──これは嚥下障がい児を持つ多くのママたちの夢だ。

 玲子さんと共同代表の加藤さくらさんは、その願いを叶えるため、『スープストックトーキョー』にアプローチ。

 今年、東京・ルミネ立川店限定で「咀嚼配慮食サービス」がスタートした。嚥下障がい児や高齢者など噛むことに困難を感じる方も食べられるメニューの展開、具材の細かさを記したメニュー表の作成、具材をつぶす茶こし器などの貸し出しも行っている。

 玲子さんたち『スナック都ろ美』が今、力を入れているのは、“インクルーシブフード(排除しない食)”を増やすこと。とろみ剤やミキサーで調整せずに、嚥下障害があっても、健常でも食べられる食品のことだ。美味しそうな見た目のまま、食べられることにもこだわっている。

「『サイゼリヤ』のミラノ風ドリアやブロッコリーのくたくた煮、長崎の『なめらかすてら』とか、そのままでも娘が食べられるメニューって実はあるんです。もっと認知されることで、そういう食品が増えることを願っています」

長崎の『なめらかすてら』は楓音ちゃんの大好物!(撮影/伊藤和幸)

 高齢になれば、誰でも嚥下機能が低下する可能性を持つ。そのとき、インクルーシブフードが世にあふれていたら──。

「食べる喜びが人に生きる力をもたらす」と人一倍実感してきた玲子さん。専門家や企業など多くの人を巻き込んだ挑戦は始まったばかりだ。

「同じ釜のものを、お鍋を一緒につつく感じで、娘と食べられたら幸せですね」

 玲子さんの横で、楓音ちゃんがプイッと背を向ける。

「あれ、のんちゃん! ママの話つまらなかった? いやだ~」

 そう言って「こしょこしょこしょ~♪」と身体をくすぐると、楓音ちゃんがキャッキャッと口を大きく開けて笑う。顔を寄せる玲子さんも声を上げて笑っていた。

スナック都ろ美 公式HP(https://snack-toromi.com