西濃学園の授業風景。不登校の子どもたちにとことん寄り添ってきた元高校教師が見てきた不登校の実態とは?

 岐阜県の山間の村落に、西濃学園中学校・高等学校という、中高一貫の全寮制不登校特例校があります。学園長の北浦茂さんは、文字どおり「私財をなげうって」この学校をつくりました。自宅は売り、廃校となった校舎を譲り受け、現在北浦さんは、町職員用の家賃5000円の宿舎に暮らしています。

 拙著『不登校でも学べる』でも詳しく取り上げていますが、北浦さんは、子どものころから勉強は得意ではありませんでした。でもすばらしい先生と出会い、自分も教員になろうと決意します。なかなか大学には入れずに、19歳でいちどは就職しますが夢は諦めきれず、大学を受け直し、私立高校の非常勤講師として教員のキャリアをスタートしました。

 そこで当時「登校拒否」と呼ばれた子どもたちに出会います。1970年代のことです。そのような子どもたちにどう接していいのか、当時は情報も乏しく、右も左もわからずに北浦さんは奮闘します。現場で約50年間、不登校の子どもたちに寄り添ってきた北浦さんの試行錯誤の歴史を振り返ります。

よかれと思って、生徒たちを追いつめていた

 ある年の春、新入生のオリエンテーション合宿に、生徒指導部長として引率しました。昼食後、クラス担任が駆け寄ってきます。「北浦さん、ちょっと難しい子がいる」。急いで行ってみると、目の前の机に両手を突いてガタガタ震えている子がいました。宿舎に入るのが怖くて怖くてしょうがない様子です。

当記事は「東洋経済オンライン」(運営:東洋経済新報社)の提供記事です

 翌日から、その生徒は学校に来ませんでした。

「それが、いわゆる当時の『登校拒否』との初めての出会いでした」

 でも、定期的にその子の家を訪ねて、訳もわからずに寄り添っていたら、3カ月くらいで学校に復帰できました。

「それは単なる奇跡だったと、いまになって思えばわかるんですが、当時私は天狗になるんです。俺なら登校拒否も治せると」

 別のある生徒の場合。「俺が家まで迎えに行ったら来られるか?」と聞いたら「行けます」と言うので、毎朝出勤前に彼の家に寄ることにしました。「お迎え登校」です。車に乗せて学校に行きます。当然、両親は大喜びです。

 しかししばらくすると、月曜日の朝は、トイレから出てこなくなりました。遅刻してはいけないので、彼のことはあきらめて、1人で学校に行きます。学校が終わった帰りにその子の家に寄ると、「休みの次の日が難しい」と聞かされます。

 当時の北浦さんは、情熱さえあればいいと思っていました。「じゃあ、日曜日の夜は、俺の家に泊まれよ。それで月曜日の朝、いっしょに学校に行こう」と提案します。

 1回は泊まりに来てくれました。でも3回目のお迎えの日、事件が起きます。「もう北浦先生の家には行かない」と宣言し、父親に包丁を向けたというのです。

「お父さんからそれを聞いて、俺は何をやっていたんだと、ようやく自分の浅はかさに気づきました。よかれと思って、かえってこの子たちを苦しめていたんじゃないかって……」

 またあるときは、他人の目が気になって教室に入ってこられない女子生徒がいました。教室に入ってもらわないと単位は出せない。そこで担任は、週末の自宅に彼女を招き、家族ぐるみでもてなしました。明るく、楽しく、「教室なんて怖くない! 明日から頑張ろう!」とやってしまった。

 内にこもってしまうタイプの子は、「NO」と言えません。やさしくて、いい子だから。その場で彼女には、「頑張ります」と言うほかに選択肢がありませんでした。でも頑張れるなら、とっくに頑張っていたはずです。それができないから苦しんでいたのです。

 やっぱり、教室に入れなかった女子生徒はますます自分を責めました。そして北浦さんに打ち明けます。「あんないい先生を私は裏切ってしまった」と。教室に入りたくても入れないという心の重しのうえに、さらに、あんないい先生を裏切ってしまったという重しが増えてしまったのです。

 この心理構造を理解していないと、内にこもってしまうタイプの不登校の生徒には対応できません。そういうタイプの子どもに「俺についてこい」はやってはいけないと北浦さん。発達障害の子どもたちも多くの場合そこに含まれます。

不登校への対応は教員だけでは無理

 1970年代の当時、不登校は登校拒否と呼ばれていました。いい子たちだけれど心が弱いんだと、一般的には解釈されていた。だから心を鍛え直さなければどうしようもないんだと。本人の問題なんだから、退学もやむをえないと。

 結局、多くの生徒が、出席日数不足でやめていきました。ほとんどの生徒が、「本当は卒業したかった」と言い残して去っていきます。当時は通信制高校も一般的ではなかったので、「中卒」で社会に放り出されることを意味しました。

 そんな場面で何にもできない自分に腹が立って、不登校の子どもたちに最後まで寄り添える学校をいつかつくろうと心に決めます。

 有名な大学の先生に教えを請い、不登校への対応はそう簡単な話ではないことがわかりました。毎週末、東京で行われる講習会にも通いました。名古屋大学の先生にはグループアプローチという手法を習いました。愛知県の中学校で不登校の生徒への対応を熱心にしていた先生からは保護者対応について教えてもらいました。

子どもには自由を与えなきゃいけない

 高校教師として勤務する傍ら、岐阜県大垣市の不登校児童・生徒の母親たちがつくった「親の会」を長年支援しました。そこでの子どもたちとの関わりを通して、やっぱり子どもには自由を与えなきゃいけないんだと確信します。子どもたちを連れて、北アルプスの蝶ヶ岳を登ったり、大垣から琵琶湖まで歩いてみたり、学校の外でいろいろなことをやってみて、大きな効果を感じました。

 この活動が、私塾となり、フリースクールの創設につながります。それがさらに発展して、西濃学園になりました。

 現在の不登校の子どもたちに寄り添うには教員の力だけでは無理だと北浦さんは訴えます。子どもの行為には必ず、本人すら自覚できない意味があり、それを理解するには臨床心理学の力を借りる必要があるというのです。

 一般的な学校の場合、スクールカウンセラーは非常勤が多いのですが、西濃学園には中高合わせて常勤のスクールカウンセラーが2人、非常勤が2人います。2カ月に1度は、外部の専門家を招いて、常勤のカウンセラーと全職員とで、ケースカンファレンスを行います。すべての生徒の状況を共有し、かかわり方の方針を確認するのです。

 さらに、常勤カウンセラーが日常的に生徒たちと直接かかわっており、カウンセリングマインドが学校の文化になっています。愛知淑徳大学の心理学専攻の大学院生の実習校にもなっています。

 学生時代から西濃学園にかかわる常勤スクールカウンセラーの太田宣子さんは、語ります。

「トゲトゲして入ってくる子が多いですが、ここではそんなトゲトゲも、『ええやん!』と言って面白がってもらえます。そしてだんだんと丸くなっていく……。でも実際は1人ひとり違うから、私たちカウンセラーも何が正解だか本当にわかりません。戸惑いの連続です。失敗もたくさんしました。いくら専門知識をもっていたとしても、私たちはここでいっしょに生活しているから、つくろいきれません。結局はひととひととのふれあいの問題になります」

自然や地域から隔絶された社会であえぐ子どもたち

 地域のひとたちとともに歩む。これも北浦さんが学校創設当初から大切にしてきたテーマです。学生時代に民俗学のフィールドワークにかかわっていたことがその原点です。

 運動会や文化祭は地域と合同で実施します。老人会が定期的に行う草刈りには生徒たちも参加します。大雪が降ったあとには、お年寄りの家のまわりの雪かきを、生徒たちが買って出ます。学校の中だけでなく、地域社会に受け入れられながらすごすことが、不登校の子どもたちにとってとても有意義な体験になると北浦さんは言います。

 子どもたちは学校の中で、学校文化に根を張って育ちます。学校は地域の中で、地域文化に根を張って育ちます。地域に深く広く根を張っている学校で学ぶ子どもたちは、とてつもなく大きな価値を知らず知らずのうちに吸収することができます。これは、これまでの取材経験で得た私の確信です。文化的土壌がないところに学校というハコを載せて、そこにいくら最新の教育コンテンツを詰め込んだとしても、そこから得られるものはたかがしれています。

 大都会に住んでいると、ちょっと街を歩くだけで、1日何千人というひとと毎日のようにすれ違います。しかしそのときの何千人というひとたちはモブ(群衆)です。その1人ひとりから、生活や人生をいちいち感じたりはしません。

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 むしろそんなことを感じないように、心のシャッターを閉ざしながら、都会では歩くしかない。誰にも触れられなければ、傷つけられることがない代わりに、ぬくもりを感じることもない。そんな環境で、子どもたちの心が不感症になっていくのは当然のことなのかもしれません。

 子どもだけではありません。大人だって、いや、大人こそ、自分の心をマヒさせて生きています。社会の閉塞感というけれど、閉じているのは心のほうです。大人たちがつくった安心・安全・便利・快適な閉ざされた世界で、子どもたちはいま、エアーポンプが止まってしまった水槽の金魚のように、あえいでいます。

 不登校は、そんな子どもたちの声にならない声なのかもしれません。


おおたとしまさToshimasa Ota
育児・教育ジャーナリスト
「子どもが“パパ〜!”っていつでも抱きついてくれる期間なんてほんの数年。今、子どもと一緒にいられなかったら一生後悔する」と株式会社リクルートを脱サラ。育児・教育をテーマに執筆・講演活動を行う。著書は『名門校とは何か?』『ルポ 塾歴社会』など60冊以上。著書一覧はこちら