紹介制・寿司屋「酢飯屋」オーナー岡田大介さん 撮影/伊藤和幸

 昔から寿司職人といえば、修業は“シャリ炊き3年、合わせ5年、握り一生”といわれる厳しい世界。そんな中で、絵本を出したり、子どもたちに向けたワークショップを全国で開催するなど、魚の魅力や命の大切さを伝える活動を行う岡田大介さん。

 従来の職人のイメージにはない一風変わった活動をする岡田さんだが、こうした活動を行うようになった理由は、厳しい寿司職人たちの現状や、母親を18歳のときに失った過去にあった──。

「命の大切さ」を伝えたい

「魚を仕入れて、さばいて、寿司を握る──寿司職人の仕事は奥深く、“一生修業だ”ともいわれます。そんなすごい技術だからこそ、寿司を握るだけにとどまらず、プラスアルファの何かができるのではないかと、僕は寿司職人の可能性に興味があるんですよ」

 そう語る岡田大介さん(43)は、20代で紹介制の寿司屋「酢飯屋」を開業した凄腕(すごうで)の寿司職人である。だが、寿司職人という枠に己を閉じ込めることなく、「寿司屋の知識と経験を生かして、自由にいろんな活動をしていこう」という思いから、自らを“すし作家”と称する。

 作家の名にふさわしく、昨年、写真絵本『おすしやさんにいらっしゃい!生きものが食べものになるまで』(岩崎書店)を手がけた。海で釣られた魚が、さばかれ、お寿司になるまでの過程を写真と文で見せる絵本だ。やさしい言葉で子どもたちに語りかけるような文は、岡田さんが綴った。

イベントでは魚屋さんで選んだ魚を、参加した子どもたちに説明しながらおろす。最後はおいしいお寿司をパクリ。子どもたちみんなも大満足! 撮影/伊藤和幸

 食育にも通じる内容で、小学校低学年の課題図書に選ばれ、全国の子どもたちに読まれている。絵本としては異例の10万部のヒットを受け、岡田さんは今、子ども向けのイベントや講習会にも力を注いでいる。

 8月下旬、都内で行われたイベントに同行させてもらった。絵本のリアル版ともいえる、1匹の魚が寿司になるまでを、子どもが見て触って学ぶ、という内容だ。

 参加は多数の応募の中から抽選で選ばれた親子4組。総勢14名が集まり、まずは、魚屋さんに行って魚を選ぶことから始まる。子どもたちがそれぞれ「食べたい」と思った魚を指さす。金目鯛、ホウボウ、イカ、メイチダイ。今日の授業はこの4種を使って行われる。

寿司にして食べてみたい魚を選ぶ。今回のイベントは魚屋さん魚耕(荻窪本店)が主催。魚耕はただ魚を販売するだけでなく、食育、魚食普及にも力を入れている企業 撮影/伊藤和幸

 会場に移動して、最初にまないたの上にのせられたのは金目鯛。「見る角度を変えると、目が金色に見えます」と岡田さんが説明すると、「ほんとだ、キラッと光った!」と子どもたち。「だから金目鯛というんですよ」と岡田さん。

 続いて、魚の口を開き、ベロやエラを見せる。「背びれは尖(とが)っているので注意して」と、初めに危険な部位を教えることが大切なのだそう。そして魚をさばく。うろこを取り、頭を切り落とすと「卵がある、メスだ」「赤ちゃんどこにいるの?」と、子どもたちは思い思いの言葉を口にする。

 内臓を開くと「気持ち悪い~」と素直な感想。「お腹には食べたばかりの小さな魚が入っています」と説明を加える岡田さん。最後は三枚おろしを披露。生きものが、だんだんおいしそうな食べ物に変わっていくのがわかる。

 こうして4種の魚をひとつずつさばきながら、岡田さんは授業を展開する。途中「さわりたい!」と、うろこや浮袋に触れたり、イカのスミ袋を取り出してスミで絵を描いたり。子どもたちは目をキラキラさせて楽しそうだ。

「昔は“食べ物で遊んじゃダメ”と怒られましたけど、触らないと魚の構造も特徴もわからない。食べ物で遊ぶのがいちばん学べます。遊んだあとに捨てちゃダメですが、料理してちゃんと食べればいいのです」と参加者に語る岡田さん。

 いよいよ岡田さんが握った寿司をみんなで立食する。もぐもぐと噛(か)みしめ、やがて子どもたちの顔がほころぶ。「おー」と歓声をあげる子もいれば、「イカがねっとりして甘い」「ホウボウは弾力がある」と食レポする子も。

 今日のイベントの感想を聞くと、「魚の体の中を見られておもしろかった。僕も魚を釣って、自分でさばいて、食べたいと思いました」と小学4年生の男の子は声を弾ませた。

 お母さんたちも「私も普段は切り身しか触らないので、大人も勉強になりました」、などと、4時間に及ぶイベントを満喫したようだ。

 こうしたイベントや絵本を通じて、岡田さんが訴えたいのは「命の大切さ」だと語る。

「“命”なんて言うと、重々しいですけど(笑)。あるとき僕は寿司を握りながらふと気づいたんです。この1つの寿司に何個の命が入っているのだろう、と。魚はもちろん、お米、醤油(しょうゆ)や酢などの調味料も元を辿(たど)れば大豆や穀物など命あるもの。

 僕たちは、たくさんの命をいただいて生きている。その感謝を込めて『いただきます』『ごちそうさまでした』。当たり前すぎて意識しなくなった、日本の食文化の根幹を、寿司を入り口にして伝えたいんです」

母の“命”が指し示してくれた料理人への道

 岡田さんが料理人の道に進んだのは18歳のとき。母の死がきっかけだったという。

「当時、僕は大学浪人中で。将来何になりたいという夢もなく、大学を出てサラリーマンになろうと考えていました。それが突然、母が病気で亡くなって……。

 うちは3人きょうだい。僕は長男で妹と弟がいます。それまで家のことはほぼ母がやっていたので、誰もご飯を作れなくて。仕方なく、できあいの惣菜を買ってきたり外食したり。

 そんな生活を送っていたら、弟が毎晩吐くようになったんです。僕も母を失ってきつかったけれど、弟はまだ小学2年生、お母さんに甘えたい年頃なのに、かわいそうで……」

亡き母との記念写真。食の道へ進むきっかけとなったのは母の導き。ここまで20数年間、志ぶれずにやってこられたのも亡き母親の存在が大きかったから

 病院で診てもらっても原因がわからない弟の病気は、「食生活が原因かな?」と岡田さんは気づいたという。

「じゃあ僕が料理を作れるようになろう、と。浪人中でフワフワした状態の僕に、『食の道へ進みなさい』と、母が命をかけて伝えてくれたメッセージのようにも感じたんです。まぁ、そういうふうに捉えないと、母の死を自分の中に落とし込めなかったのです」

 大学進学はやめて、料理人になることを決意。家庭で食べるのは和食だからと、地元の割烹(かっぽう)料理店の門を叩く。

 このときの岡田さんの料理の腕前は「アジを見てもアジとわからない、りんごの皮もむけないレベル」と苦笑する。

母親を亡くしたという18歳ごろの岡田さん

「でもゼロの状態でスタートしたのが、逆によかった。毎日やればやっただけ技術が身についていきますから。りんごの皮がきれいにむけた、そんな小さな達成感がモチベーションになり、次々にできることが増えていく。それが楽しかった。僕の中では、このころは自分がどんどん伸びていく成長期でした」

 学生時代の岡田さんは、本人いわく「通知表はオール3タイプ」。人より秀でたものが何もない少年だった。

「だから料理という特技ができることがうれしかったんです」

 とはいえ、上下関係が厳しい料理人の世界。つらいこともあったに違いない。

「確かに厳しかったし、怖い先輩もいました。1回だけ遅刻して殴られたことも。1秒でも遅れたらアウトですから。あと、魚には苦玉という胆のうがあるのですが、『うまいから飲んでみろ』と飲まされたことも。すっごく苦い! これはイジメというより意地悪ですね。その程度のことはあったけど、基本的に先輩を立てて、ちゃんと挨拶をしていたので、そんなにいじめられるようなことはなかったです」

亡き母との記念写真。食の道へ進むきっかけとなったのは母の導き。ここまで20数年間、志ぶれずにやってこられたのも亡き母親の存在が大きかったから

 学生のころから敵をつくらず、誰とでもうまくやっていけるタイプ。コミュニケーションは得意だったという。

「ただ、先輩たちにへこへこと従っていたわけではありません。職人の世界は『仕事ができるやつが上に行く』と教えられた。だから僕は一生懸命に自主練習をして、先輩に勝負を申し込んだんです。

 例えば穴子を開くという仕事がある。どっちが早くきれいに開くか、という勝負をして、先輩たちを倒していった。まぁ半分遊びみたいなものですけど。先輩は『おまえ、すごいじゃないか。練習したんだな』と認めてくれました。技術で勝負すればケンカにはならないんですよ」

 岡田さんの仕事への情熱と向上心は際立っていたのだろう。ある先輩が、その後の道を拓(ひら)くアドバイスをくれた。

「『おまえみたいな感性を持っているやつは、芽を潰さないうちに、東京で修業したほうがいいよ』と言ってくださったんです。自分では地元の店でそこそこ満足していたのですが、そうなのか、と思って。20歳のとき、東京・秋葉原の寿司屋に移りました」

“一人前”の定義を決めて24歳で独立を果たす

 転職先でもいちばん若手。再び下働きからのスタートだ。

「ひたすら洗い物、ゴミ掃除、そして出前。包丁に触れる機会は減ってしまった。でも下働きの中でも何か見いだせることがあるはず、と前向きな気持ちで仕事に励んでいましたね。

 例えば洗い物のスキルが上がれば、調理場がいつもきれいで作業効率が上がる。それに家でも、料理しながら洗い物を終えることができるようになり、食後に大量の洗い物をしなくてすむ。これは今でも妻に感謝されます(笑)。下働きで身につけた手際が役に立っているんです」

 東京の寿司屋は、やはり刺激的だったという。

「寿司職人はみんな勝負しにきてる感じで、本気度が違う。技術はもちろん、所作も洗練されている。お客さんも粋な人が多い。高い水準の中に身を置き、学ぶことが多くて大変でしたけど楽しかった」

“握らない”たこの握り寿司 撮影/伊藤和幸

 ここでもまた人生に影響を及ぼす出会いがあった。

「後にも先にも『こんな人、見たことがない』というほどの圧倒的な技術とスピードを持つ先輩がいたんです。言葉で説明するのは難しいけど、まず所作が美しい。ネタを切って、寿司を握って、お客さんにお出しする。一連の流れは伝統芸能を見ているみたいで。

 それに、同じ寿司ネタでも味が違うんですよ。よく切れる長~いピッカピカの包丁で、その先輩がスーッと切ったヒラメはやっぱり違う」

 トップレベルの板前を目の当たりにした岡田さんは、自信を失いかけたという。

「レベルが高すぎて、何年修業しても自分は追い越せないだろうな、と。僕には、一人前になって独立したいという目標があった。でも、その先輩の技術を求めたら一生かかってしまう。ただ世間には、その先輩ほどの技術がなくても独立している人はたくさんいる。一人前の定義ってなんだろう、と悩み始めたのです」

独立して自宅マンションで酢飯屋を始めたころ

 答えを求めて、周りの先輩たちに「一人前とは、どういう状態ですか」と聞いて回った。

「技術的なことを口にする人もいれば、家族を養えるようになれば一人前だと言う人も。みなさん最後には『一生修業だ』とおっしゃる。確かにそうなんですが、具体的な定義がないと独立に向かえないので、自分で決めたんです。

 食材を自分で調達する。その食材を調理する。お客さんを自分の力で呼ぶ。お客さんが『おいしかった』とお金を払ってくれる。この全工程を1人でできたら一人前!と」

 手始めに休日に試した。

「家に友達を呼んで寿司パーティーを開いたんです。会費3000円で。ピザを頼んでも1人当たり2000~3000円しますから、その値段で豪華な寿司を握ったら、みんなが喜んでくれて。人が人を呼び、参加者が増えていきました」

 これなら独立できる! と手応えを感じ、24歳のとき、八丁堀の自宅マンションの一室で紹介制の寿司屋を始めた。

漁港に出向き、仕入れルートを作る

「八丁堀のお店から歩いて行ける距離に築地市場があって。仕入れのためだけでなく、魚の勉強をしたくて毎朝通っていました。気になったのが、魚の産地がけっこう曖昧なんです。仲卸業者さんに聞いても、わからなかったり、人によって言うことが違ったり。売り手が産地をすべて把握しているわけではないんです。

 でも僕は『これは和歌山県産のアジです』とか、自信を持ってお客さんに伝えたいんです。それで全国の産地に足を運んで、漁師さんから直接買いつけることにしたのです

 魚のみならず、薬味のネギ、生姜、米、調味料に至るまで、生産者に会って、イカはこの人、ネギはこの人、と食材別ルートを作っていった。そのスタイルが確立し、2008年には文京区の古民家を改築して「酢飯屋」を構える。

 この屋号にも、岡田さんのこだわりが込められている。

「僕はネタと同じくらい酢飯にもこだわっていて。マグロに合う日本酒とイカに合う日本酒が違うように、ネタによって合う酢飯が違うんじゃないかと。穴子はこの酢飯、マグロはこの酢飯と、何種類もの酢飯を作ったら、めちゃくちゃ大変で(笑)。最終的に3~4種類にとどめました」

 1万軒以上の寿司屋がひしめく都内でも3種類以上の酢飯を使う店は希少で、差別化に成功。完全紹介制の店は、食通の間で話題になる。当時、客として訪れた有馬朱美さんも、味と、カウンター越しに語る岡田さんの魚にまつわる蘊蓄(うんちく)に惹(ひ)かれた1人だ。

子どもたちを連れて海釣りへ行くことも。YouTubeでもその様子を投稿している。ブログには釣った魚が細かく記録され、まるで事典のよう

「『おいしいお寿司屋さんがあるよ』と最初は知人に連れてきてもらいました。普通のお寿司屋さんにはない魚がいろいろ出てきて、おいしいのはもちろんですが、ユニークだなと。

 そのころまだ珍しかった神経締め(鮮度とうまみを保つ締め方)の魚を仕入れていたり、例えばナポレオンフィッシュとか沖縄など南方の地元の人しか口にできない魚や、郷土寿司を出してくれたり。

 東京にいながら旅してるみたいに各地のおいしいお寿司を味わえて。しかも1コース15貫で当時は5000~6000円ほどと私にも手が届く金額。銀座の高級店なら2万円ぐらいしそうなレベルですよ」

 その後、有馬さんはホールスタッフとして店を手伝うことになる。「毎日でもここのお寿司を食べたかったから、まかない目当てです」と笑う。

 岡田さんの探求心は、魚から派生して調味料、野菜、肉、器と広がっていく。

「僕が直接生産者から仕入れた食材を寿司以外にも提供できる場所をつくりたかったのと、地元の人が気軽に入れる場としてカフェを併設。その横に、陶芸家の器を展示販売するギャラリーも設けました」

 食材も器も“作り手”に会って、本当にいいものだけを仕入れるという岡田さんの姿勢は一貫している。

「作り手の顔が見えて思いが伝わるものって、使うほうも大切に扱いますよね。例えば洗い物をするときも器が割れないように丁寧に洗う。心も生活も豊かになると思うんです」(岡田さん)

山梨県上野原市秋山小学校で特別授業を行った 撮影/伊藤和幸

 最初は1人で始めた店が、事業の幅を広げるにつれて従業員も増えていった。母が亡くなったとき小学2年生だった弟の聖也さん(34歳)も岡田さんに弟子入り。板前として兄を支えた。岡田兄弟のもとで修業を積んだ大山浩輝さん(26歳)は、こう証言する。

「職人の世界は、技を“見て盗め”ってよく言いますよね。でも大介さんは、それは効率が悪いし時間がかかる、と。手とり足とり丁寧に教えてくださいました。大介さんは寿司を握るだけではなく、やりたいことがたくさんある方なので、店は聖也さんや、僕にも早く任せられるように育ててくれたのだと思います。

 僕の個人的な意見ですけど、聖也さんは職人気質。板前としての腕もあり、食材の目利きもでき、細かいところまで気が回る人。だから大介さんも安心して店を任せられると思うんです。大介さんはクリエイティブ系。何か新しいことを見つけてきたり、外に発信したり。兄弟でバランスがとれている気がします」

 師匠としての大介さんについて聞くと「声を荒らげて怒ったことは一度もない。褒めて伸ばすタイプ」だと大山さん。

「僕はもともと料理が好きで、趣味で包丁を作ったことがあるんです。僕がまだ駆け出しで板場の奥で働いていたとき、大介さんが僕を呼んで、店のお客さんに紹介してくれたんです。

『自分で包丁を作って仕組みがわかっているから、魚を切るのがうまいんですよ』と弟子を自慢するみたいにお客さんの前で褒めてくださって、すごくうれしかった」

先輩の死がきっかけ。店の規模を縮小

 事業を広げて岡田さんは忙しくなる一方だった。3年前、大きな決断をする。

「僕は経営者だし、自分で好きでやっているんだけれども、年中無休に近い状態でずっと働いていたんです。40代を目前にし、働き方を変えないとな、と考えていて。

 ちょうどそのころ、同業の50代の先輩たちが病気で亡くなることが続いて。中でもいちばんショックだったのは、最初の割烹料理店で、東京行きをすすめてくれた先輩が亡くなったこと。恩人ですから……」

東京ビッグサイトにて開催された「ジャパン・インターナショナル・シーフードショー」に参加 撮影/伊藤和幸

 岡田さんの上の世代は、夜遅くまで働いて、そのあとお酒をガブカブ飲む、そんな豪快な人が多かったという。

「自分も健康に留意しないといけないと思ったし。僕には小学生の息子2人がいるので、家族の時間ももっと持ちたかった。それで事業規模を縮小して、また1人でやることに決めたのです。もちろん従業員の今後のことも考えなければいけないですから、解散の日程を事前に伝えました」

 特に右腕として10年以上働いてくれた弟に、解散を告げるのはつらかったと話す。

「弟も悲しかったと思う。でも『大介さんが選択したことが第一。今後のことは僕が自分でどうにかするので大丈夫です』と言ってくれて、ホントよくできた弟ですよ。9歳年が離れているので、兄貴というより、板前の先輩として、面倒見てくれてありがとう、という気持ちを常に持ってくれている。それが言葉の端々から伝わってきます」

 ほかの従業員も、岡田さんの思いを理解してくれて、次の職場も決まった。前出の大山さんの場合は──。

「僕は18歳でここに就職したときから、独立を念頭に、『オレのことはステップアップに使ってくれ。6年ぐらい修業すればいい』と大介さんに言われていました。ちょうど解散のころが6年目で、僕も退職しました。今は酢飯屋の併設カフェで土日限定の海鮮ランチを作ったりしています」

現在も酢飯屋に併設されたギャラリーやカフェは引き継がれて運営されている 撮影/伊藤和幸

 実は併設するカフェとギャラリーの運営は、前出の有馬さんが引き継いだ。

「最初はカフェとギャラリーは閉じる、と岡田さんは言っていたんです。でも、カフェのランチを楽しみにしているお客さんもいるし、ギャラリーの予約も埋まっていました。私はもともとお客さんだったからわかるんです。好きなお店がなくなったら寂しい。だから、私がやります! と立候補しました」(有馬さん)

限りある命。やりたいことは、やってみる!

 冒頭で述べたように、岡田さんは現在すし作家として全国を飛び回っている。「自然が豊かな場所で子どもを育てたい」という妻の希望もあり、数年前に自宅は福岡に移した。酢飯屋で握るのは年に数回のみ。漁港に通ううちに、魚釣りも始めて、今は自ら釣った魚を寿司として提供することも多いという。

7月に千葉県富津市上総湊港で海の上で寿司を握る企画を開催。この日に釣ったカワハギなどをその場でお寿司に。ちょっとした下処理で釣りたてのお魚もおいしい

「先日も佐渡で、船に乗って魚を釣り、それをさばいて寿司にするという1泊2日の親子向けツアーを実施しました。こうしたイベントやワークショップ、そして魚釣りに行った先々でお寿司を握っています。店だけじゃなく、僕が握る場所が酢飯屋なんです」

 事業を縮小したとはいえ、「やりたいことは、やってみる」がモットー。釣りをするうち、魚が棲む海にも興味が向いてダイビングも始めた。環境問題にも関心が広がる。

「海水温の上昇などが原因で海藻が失われつつある。海藻は魚が卵を産む場所なので生態系に影響を及ぼす深刻な問題です。

 海藻の研究と養殖を行っている『シーベジタブル』というベンチャー企業があり、そこの顧問をしています。

 育てた海藻を、どう調理したらおいしいか、というので料理人の僕が考案しているのです」

 また、魚屋の顧問も務め、これまで培ってきた魚の知識や仕入れ法などのノウハウを生かしてコンサルタント業務を行っている。

 そして以前から力を入れているのがブログでの発信だ。

紹介制・寿司屋「酢飯屋」オーナー岡田大介さん 撮影/伊藤和幸

「昔から記録魔なんです。海で釣りをしたら、魚をいろんな角度から写真に収めて。漁師さんから得た魚についての情報をメモする。そうしてインプットしたことは外に出したくなるんですよ。僕のブログは細かいし、写真が膨大。

 例えばニシンだったら、うろこや目、ヒレ、口の中のアップ。ニシンが泳いでいる水中写真、そして最も魚が美しい、釣りあげた瞬間を撮影。ニシンの語源や歴史、ニッチな逸話まで綴って。ウィキペディアより詳しいブログを目指しているんです」と笑う。 

 興味があることはとことん凝って妥協しない性格なのだろう。岡田さんにとってブログはストレス発散。利益を生むものではない。

 ただ、絵本もブログを見た出版社の人から「本を出しませんか」と依頼が来て実現したという。コツコツ積み重ねたことが何らかの形で実を結ぶのだ。

 長年、岡田さんの仕事ぶりを見てきた有馬さんは、尊敬の念を込めて、こう語る。

「やりたいことをやる、って言うのは簡単だけど、実は大変なこと。例えば生産者さんから食材を仕入れるという岡田さんのやり方。

 食材ごとに生産者が異なるから発注も事務作業もそのぶん手間と時間がかかる。豊洲市場でまとめて仕入れたほうが1か所ですむからラクなんです。だから、ほかの飲食店のオーナーも『やりたい』と言いつつ妥協する。そこを妥協しないのが、岡田さんの素晴らしいところ」

現在も酢飯屋に併設されたギャラリーやカフェは引き継がれて運営されている 撮影/伊藤和幸

 岡田さん自身は、冷静に先を見据えている。

「今は顧問の仕事もいくつかいただき、おかげさまで絵本も売れ、イベントや講演の声もかかる。だからといって安泰というわけではありません。長年お店をやっているとわかるんです、いいときと悪いときの波は必ずある。またピンチは来るかもしれない」

 そして、こう続けた。

「18歳のときいちばん大事な人、母を失った。でも、それが僕を食の道に導いてくれました。以後、僕はネガティブなことが起きても、何か意味がある、ポジティブに変える方法はないかと考えるクセがついた。

 だからまたピンチが来ても乗り越えられる気がします。母の死よりつらいことって今後もないでしょうから。あっ、あるとしたら……妻がいなくなったら……つらいなぁ(笑)」

取材・文/村瀬素子(むらせ・もとこ) ●映画会社、編集プロダクションを経て'95年よりフリーランス・ライターとして活動。女性誌を中心に、芸能人、アスリート、文化人などの人物インタビューのほか、映画、経済、健康などの分野で取材・執筆。