(左上から)タモリ、竹中直人、野口五郎、倍賞千恵子、カンニング竹山、黒柳徹子

 27日、安倍晋三元首相の国葬が行われ、友人代表として菅義偉前首相の弔辞が、昭恵夫人はじめ多くの国民の涙を誘った。

《総理、あなたは一度、持病が悪くなって、総理の座をしりぞきました。そのことを負い目に思って、2度目の自民党総裁選出馬をずいぶんと迷っておられました。最後には、2人で銀座の焼き鳥屋に行き、私は一生懸命あなたを口説きました。それが使命だと思ったからです。  

 3時間後にはようやく首をタテに振ってくれました。私はこのことを、菅義偉生涯最大の達成として、いつまでも誇らしく思うであろうと思います》

 安倍さんがこの世を去った“あの日”の回想に続き、菅さんが声を震わせながら話した、“銀座の焼き鳥屋”のエピソードには会場から嗚咽が聞こえたほどだった。

追悼メッセージ・弔辞に込める故人への想い

 また、9月8日のイギリスのエリザベス女王の死去から2日後、ウィリアム皇太子が追悼メッセージを発表した。

《世界は類まれなる指導者を失った。彼女の歴史的な治世の意味について、これからも長く語られるだろう。しかし、私は祖母を亡くした》

 こう始まったメッセージには一国の皇太子として、また祖母を愛する一人の孫としての心情が込められていた。

《私はこの日が来ることを知っていたが、おばあちゃんのいない生活が本当に現実だと感じるには、しばらく時間がかかるだろう》

 女王を“おばあちゃん”と呼ぶくだりに世界が涙した名文だったが、日本の芸能界にも泣ける弔辞が多かった。

タモリから赤塚不二夫さんへ

 まず浮かぶのは“平成のベスト弔辞”として名高いタモリの弔辞。恩人である漫画家・赤塚不二夫さんに向けて読んだものだ。

2008年没。無名時代のタモリ(左)を自室に居候させるなど“大恩人”だった赤塚さん(右)

「赤塚先生、本当にお世話になりました。ありがとうございました。私も、あなたの数多くの作品の一つです」

 胸を打つ結びの言葉はその年の新語・流行語大賞にノミネートされたが、手に持った奉書紙が白紙であったことも大きな話題となった。

黒柳徹子から森光子さんへ

2012年に死去した森さん(右)。黒柳(左)とはテレビ放送初期の頃からの仲

「“あなたとお食事に行きたいからリハビリしてます”。これが森さんからいただいた最後のメッセージでした」

 森光子さんとの50年以上もの友情を明かした黒柳徹子は“こんなつらいお別れはありません”と心情を吐露。

倍賞千恵子から渥美清さんへ

 日本映画でいちばん有名な兄妹にもお別れが。

“国民的お兄ちゃん”渥美さん(右)は1996年に死去。まだ60代だった

「私もみんなも“お兄ちゃん”とか“アニキ”って呼べなくなっちゃったのよ。それ本当に哀しいし、寂しいよ」

 映画『男はつらいよ』シリーズの主人公・寅次郎(渥美清さん)を見送ったさくら(倍賞千恵子)。寅さんの死が夢オチでないのがつらい。

竹中直人から忌野清志郎さんへ

「清志郎さん、ボス、キング、ゴッド。ずっとずっと僕たちは、清志郎さんが大好きです。ずっとずっとずっと!」

2009年に亡くなった忌野清志郎さん(右)。弔辞はほかに大竹しのぶ、甲本ヒロトが読んだ

 ロック歌手の忌野清志郎さんに熱いラブコールを送ったのは竹中直人だ。

「言葉、声、歌は、ずっとずっと僕の中に生きています。忌野清志郎は死んでない」

カンニング竹山から相方・中島さんへ

「俺がまたそっちに往ったらまたやろうや。いいか、お前な、待っとけ。ありがとう。じゃあな。いつもとおんなじように別れるぞ。じゃあな」

2006年、白血病を患い35歳の若さで亡くなった中島さん(右)を支えた竹山(左)

 いつもと同じ別れ方で相方・中島忠幸さんを見送ったカンニング竹山。昨年の命日には、自身のSNSに《もうあれから15年》と投稿。変わらぬコンビ愛に涙。

野口五郎から西城秀樹さんへ

「秀樹ほど、天真爛漫という言葉がぴったりな人は僕はこれまでに会ったことがない。何事にもまっすぐで、前向きで、おおらかで。

 出会う人を全て魅了する優しさと全てを受け入れる潔さとたくましさ。そんな君を慕う後輩がどんなにたくさんいたか。僕はうらやましかったよ」

2018年の葬儀・告別式では長男・慎之介くんとともに棺を支えた

 ライバルであり親友でもあった西城秀樹さんへの弔辞は、野口五郎が読んだ。同じ時代を過ごしたトップアイドルの正直な言葉だ。

 故人を思い心から出る言葉だからこそ涙を誘う。弔辞は人生最後の贈る言葉なのだ。


撮影/週刊女性写真班