世界メジャーデビューが決まったTravis Japan (左から順に)松倉海斗、吉澤閑也、七五三掛龍也、宮近海斗、中村海人、川島如恵留、松田元太

 2022年3月からアメリカで“武者修行”中だったジャニーズグループ、Travis Japanの世界メジャーデビューが決定した。彼らは先日、アメリカの有名オーディション番組『アメリカズ・ゴット・タレント』に出演して大きな話題になったばかりだ。今回のデビューの意味はどのようなものか? ジャニーズとアメリカの関係を振り返りながら、考えてみたい。

Travis Japanの徹底したスキル志向

 Travis Japanは、通称「トラジャ」。結成は2012年だが、構成メンバーや人数に関しては何度か変遷があり、2017年から現在のメンバーによる7人グループになった。

 彼らの特徴は、なんといってもダンスだ。グループ名の「Travis」は、マイケル・ジャクソンやレディー・ガガとの仕事でも有名なアメリカの振付師、トラビス・ペイン(Travis Payne)に由来するもの。トラビス自身が、ジャニーズJr.のなかから合宿などを経てダンスに優れたメンバーを選抜するかたちで誕生した。

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 結成後は、ミュージカル『PLAYZONE(プレゾン)』に出演。その後、嵐やKis-My-Ft2などのバックダンサーを務めた。2019年からは初単独主演となる舞台『虎者-NINJAPAN-』がスタートし、2021年には初の全国ツアーもおこなっている。

 このように、Travis Japanは、舞台やステージを中心に活動を続けてきたグループだ。そのなかで、結成の原点でもあるダンスに磨きをかけてきた。

 なかでも彼らの魅力としてよく挙がるのは、「シンクロダンス」である。キレが鋭いだけでなく、指先まで揃った一糸乱れぬダンスは、彼らの代名詞にもなっている。SMAPや嵐など歴代ジャニーズの名曲を新しいアレンジで見せるYouTubeチャンネル「+81 DANCE STUDIO」でも、そのパフォーマンスを堪能することができる。

 もちろんほかのジャニーズタレントにとっても、ダンスはすべての基本ではある。だが、ここまで徹底したスキル志向は、Travis Japanをほかのグループとは一線を画す存在にしてきた。

 そのスキル志向と表裏一体なのが、海外志向である。先述した結成の経緯からも想像がつくように、Travis Japanには、つねに海外志向、とりわけショービジネスの本場であるアメリカ志向があった。

 実際、2019年には、アメリカのアーティスト、オースティン・マホーンの来日公演で本格的な共演を果たしている。こうした形式での海外アーティストとのステージ共演は、ジャニーズ史上初のことだった。

 その意味では、彼らがアメリカ武者修行を決断したのも不思議ではない。2022年3月、ダンスレッスン、ボーカルトレーニング、語学習得を目的として、3月下旬から無期限の予定でアメリカ・ロサンゼルスに渡ることを発表した。

 そして早速、アメリカで開催のダンスコンテストに参加して入賞。それがきっかけになって7月放送の『アメリカズ・ゴット・タレント』に出演し、彼らの初オリジナル曲「夢のHollywood」の英語詞バージョンを披露して高評価を獲得、会場のオーディエンスからも拍手喝さいを浴びた。

 残念ながら最終的にファイナルステージには進めなかったものの、セミファイナルステージ進出という結果を残した。そして彼らへの期待感が高まったところで、今回の世界メジャーデビューの発表となったわけである。

初代ジャニーズもしていた海外武者修行

 ジャニーズアイドルは日本ならではのアイドルと考えるなら、Travis Japanは異端の存在に見える。だが決してそうではない。ジャニーズの歴史の底流には、アメリカへの志向がずっとあった。

 そこには、ジャニーズ事務所創設者・ジャニー喜多川の思いがある。1931年アメリカ・ロサンゼルスで生まれ、戦争を挟んで日本とアメリカを行き来する生活だった彼は、アメリカでショービジネスを学び、その経験を生かしてエンターテインメントの世界へと身を投じることになる。

 戦後、ジャニー喜多川は、現在の代々木公園の場所にあった米軍関連施設・ワシントンハイツのグラウンドを借りて、少年野球チームをつくっていた。そしてある日、そのメンバー4人とともに映画を観に行った。

 その映画とは、『ウエスト・サイド物語』(1961年公開)だった。ニューヨークの不良少年たちを主人公にした青春恋愛ストーリーで、元々はブロードウェイでヒットしたミュージカルである。

 感激したジャニー喜多川と4人はミュージカルへの思いを募らせ、1962年芸能活動をスタートさせる。ジャニーズ事務所の誕生である。4人のグループ名もそのまま「ジャニーズ」(以下、「初代ジャニーズ」と表記)となった。

 初代ジャニーズは、それまで歌って踊れるタレントがいなかった歌謡界にあって、画期的な存在だった。1964年に「若い涙」でデビューすると人気も高まり、1965年には『NHK紅白歌合戦』に初出場を果たした。

 その翌年ジャニー喜多川は思い切った決断を下す。1966年8月、初代ジャニーズは日本での仕事を休み、本格的にダンスや歌のレッスンを積むため、アメリカへの長期滞在に踏み切った。『紅白』にも出場し、さあこれから日本でもっと活躍しようというのが芸能界の常識だろう。しかし、初代ジャニーズはそうせず、日本を離れアメリカでの武者修行に向かった。

 ところが、1967年1月、約4か月ぶりに日本に戻ったジャニーズの前に、思いもかけない状況が待ち受けていた。留守にしているあいだに、日本ではビートルズなどの影響を受けたグループサウンズ(GS)のブームが巻き起こっていた。

 それは、誰もがギターを持って歌える時代の幕開けであり一種の革命だったが、歌って踊るアメリカ流のショービジネスの世界を基本にしたジャニーズとは交わらないものだった。それだけが理由ではないだろうが、結局初代ジャニーズは1967年いっぱいをもって解散することになる。

ジャニーズミュージカルのなかの「アメリカと日本」

 とはいえ、ジャニー喜多川は、単純にアメリカの真似をしようとしたわけではなかった。アメリカのショービジネスがお手本であることに変わりはないが、作品としてはオリジナルミュージカルにこだわった。

 それは、日本とアメリカの両方に愛着を抱きつつ、自らのアイデンティティーを証明しようとするジャニー喜多川の思いを反映したものだっただろう。彼は、アメリカへの強い憧れの念を抱きつつも、日本らしいエンターテインメントとはなにかを一貫して追い求めた。ジャニーズの歴史は、その模索の歴史でもある。

 1980年代には、少年隊がその歴史を牽引した。先述の『PLAYZONE』において、少年隊は、初演の1986年から2008年まで主演を務め続けた。

 そこにもやはり、アメリカは登場する。たとえば、1986年版のストーリーは、ミュージカルのスターを夢見る3人の若者がニューヨークにやってきて、騒動に巻き込まれるというもの。さらに劇中披露されるいくつかの楽曲の振付を、マイケル・ジャクソンの「スリラー」の振付で知られるマイケル・ピータースが担当していた。

 実際少年隊も、1985年のレコードデビューより前に、武者修行のためアメリカに渡っていた時期があった。定期的に渡米して向こうのショーなどにふれたり、マイケル・ピータースのダンスレッスンを受けたりしていた。ある意味、『PLAYZONE』は、そうした彼らの海外武者修行の経験をそのまま舞台化するところから始まったとも言える。

 その一方で、オリジナルミュージカルのなかに“日本らしさ”を表現することにもエネルギーは注がれた。2000年代以降のジャニーズにおいてその流れを代表するのが、KinKi Kidsの堂本光一であり、現在はジャニーズ事務所副社長となった滝沢秀明だ。

 例えば、堂本光一のライフワークとなった『SHOCK』シリーズの物語の舞台はアメリカのブロードウェイだが、劇中の大きな見どころとなるのは激しく長い殺陣のシーン、そしてそのなかでの階段落ちのシーンであるというように、和の要素が盛り込まれる。

 さらに滝沢秀明が主演の『滝沢歌舞伎』では、その名のとおり和の要素が前面に出てくる。歌舞伎はもちろん、日本舞踊や和太鼓などのパフォーマンスが、ジャニーズ流の宙吊り(フライング)などの演出とともに目まぐるしく展開する。

 ジャニー喜多川は、こうした愛弟子たちの舞台の仕上がりに自信を深めていたようだ。たとえば、「和の要素は昔から外国から憧れられてきた。滝沢歌舞伎はブロードウェイやラスベガスのショーに勝るとも劣らない」(『読売新聞』2015年3月13日付記事)というような発言もしていた。

K-POP旋風のなかで~彼らのハイブリッドな方向性

 ただ、そうした日本らしさの追求が、いまジャニーズを試練のなかに置いている面もあるだろう。その背景にあるのは、世界で旋風を巻き起こしているK-POPグループの存在だ。

 BTSなどを見ても明らかなように、その特徴は明確なグローバル志向にある。そうなった背景として、韓国の国内市場規模の問題、それに伴う国を挙げての海外進出への取り組みがあったことなどが指摘される。

 だがいずれにしても、K-POPの世界的成功は、グローバルな展開を意識した楽曲づくり、歌やダンスのパフォーマンスによるところが大きい。その点、日本固有のエンターテインメント文化のなかで発展してきたジャニーズとは違いがある。

 そんな両者の違いは、アイドルとしての基本的なありかたにも表れている。

 K-POPのグローバル志向は、欧米流のショービジネス観に沿った完成度へのこだわり、高度なスキル志向と表裏一体だ。それに対し、日本のアイドルは、完成度よりはむしろ未完成のなかに魅力を発見する文化のなかで栄えてきた。長らく日本のアイドルファンたちは、未完成な存在が努力して成長する姿を見守ることに価値を見出してきた。

 ただ同じジャニーズのなかでも、最初に述べたようにTravis Japanには明確なスキル志向がある。その点、K-POP的だ。しかしもう一方で、リーダーの宮近海斗が今回の渡米を自ら「修行の旅」と表現していたように、日本的アイドルのエッセンスはしっかり残っていると言える。ここで「修行」とは、「成長」と言い換えられるからである。

 日本流のアイドル像をベースにしながら、磨き上げたスキルを武器に世界に打って出ようとしているTravis Japanのハイブリッドな方向性。世界メジャーデビューの決まった彼らがどのような成果をあげるかは、今後のジャニーズの世界戦略にとってひとつの試金石になるのかもしれない。

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太田 省一(おおた しょういち)Shoichi Ota
社会学者、文筆家
東京大学大学院社会学研究科博士課程単位取得満期退学。テレビと戦後日本社会の関係が研究および著述のメインテーマ。それを踏まえ、現在はテレビ番組の歴史、お笑い、アイドル、歌番組、ドラマなどについて執筆活動を続けている。著書として『攻めてるテレ東、愛されるテレ東』(東京大学出版会)、『平成テレビジョン・スタディーズ』(青土社)、『テレビ社会ニッポン』(せりか書房)、『芸人最強社会ニッポン』(朝日新書)、『SMAPと平成ニッポン』(光文社新書)、『中居正広という生き方』『木村拓哉という生き方』(いずれも青弓社)、『紅白歌合戦と日本人』(筑摩書房)などがある。