デビュー当時の冨士眞奈美さん(右)。左側が冨士さんのお姉さん

 女優・冨士眞奈美が語る、古今東西つれづれ話。青春時代を振り返る。

◆ ◆ ◆

 当連載の担当編集・Yさんと会ったとき、「主婦と生活社に、昔の冨士さんを撮影した写真が眠っていたので持ってきました」と、2枚の写真を手渡された。

きょうだいとの思い出

デビュー当時の冨士眞奈美さん(右)。左側が冨士さんのお姉さん

 1枚目には、私の他にもう 1人女性が写っている。Yさんから「お隣にいるきれいな方は女優さんですか?」と尋ねられたけど、実はこの人は私の姉。当時、私と姉が並ぶと姉のほうが女優と思われるくらいだった。

 2人して出かけると、痴漢に合うのは決まって姉のほう。京都駅を歩いていると、突然男性が紙片を手にやってきて「ここに行くにはどう行ったらいいんでしょうか?」と近づいたかと思いきや、そのままガバッと姉の胸を両手でわしづかみするなんてこともあった。ひどい話よねえ。

 それにしても、どうしてこんな写真が主婦と生活社から出てきたのか。何の取材だったのかさっぱり思い出せない。

 もう1枚の写真で私が着ているワンピースは、第1回NHK紅白歌合戦の白組司会を務めたことで知られる、NHKの名物アナウンサー・藤倉修一さんと対談をするために新しく作った一張羅だったはず。まだ、養成所に入ったくらいじゃないかしら。

 当時の私は三島から上京してきた妹や弟と共同生活をしていて、きょうだいで一緒に行動する機会も多く、姉同様に妹と一緒にいると「妹さんのほうがきれいだね」なんて言われることも多かったから、がっくりきたものよ。

  まぁ、私は男の子に交じって田んぼの中で野球をしていたような性格だったから、髪もバサバサでお化粧もザツ。きっとそのせいもあると思いたい(笑)。

 弟は、大学に行くために上京してきたから、私が学費1年分を負担した……にもかかわらず、「この学校はおもしろくない」と辞めてしまい、違う大学に入学して高田文夫さんと友達になった。アタリ。今は麻布十番で焼き鳥店を経営している。

 志村けんさんや上島竜兵さんが何回か来てくださったそう。私が心配するくらい価格も安いしおいしいお店なんだけど、どうやって麻布十番で切り盛りしているのか不思議。

大山のぶ代と共同生活

 それ以前は、この連載でも触れたペコ(大山のぶ代)が住んでいたアパート。「うちに来なよ」と言われ、ついて行ってみると、雨漏りはするわ、トイレの床は抜けそうで、よく招待したなと感心したもの。でも、ペコはどこ吹く風で、タバコをふかしながら、「ゆっくりしていってね」というような顔。

大山のぶ代さん

 すると、ペコが「吸ってみなよォ」とあの声で言う。私がタバコを吸ったのはそのときが初めてだった。1箱30円のパールというタバコ。今思えば、まさか“ドラえもん”からすすめられるなんてね(笑)。

 ペコと私はその後、ちょっとランクアップした8畳2間で風呂なし電話なし、家賃8000円の木造のアパートに引っ越して、共同生活をすることになる。ペコはスマートボールに夢中で、暇を見つけては駒場東大前にあるスマートボール場に通っていた。

 いっぽう、私は麻雀に夢中になった。俳優座養成所のメンバーたちと、「一日一雀」をスローガンに打ち続け、すっかり麻雀の虜になってしまった。

 菊池寛原作の『時の氏神』を研究生たちで上演ということで、俳優座劇場で一生懸命稽古をしていても、「一日一雀」はお約束。私は『時の氏神』で人妻の役を演じたのだけれど、麻雀に夢中になりすぎて、開演の1時間くらい前までずっと近くの『地獄』という麻雀店で卓を囲んでいることもあった。

「眞奈美……人妻役なんだから首ぐらい剃ってくれよ」

 心配した研究生が忠告をくれるんだけど、牌を睨んでいる私はそれどころじゃない。気の優しい彼は、ついには「動くなよ」と私のうなじの毛を剃り始める。でも、私は麻雀を打ち続ける。その彼の恋人が嫉妬して怒り始める。開演前は、本当にドタバタ。青春─と呼ぶには、カッコ悪すぎたかなぁ。

冨士眞奈美
ふじ・まなみ 静岡県生まれ。県立三島北高校卒。1956年NHKテレビドラマ『この瞳』で主演デビュー。1957年にはNHKの専属第1号に。俳優座付属養成所卒。俳人、作家としても知られ、句集をはじめ著書多数。

〈構成/我妻弘崇〉