10月1日、スーツにノーマスク姿で伊勢神宮の外宮と内宮を参拝された悠仁さま

 国民の賛否が交錯する中、9月27日に行われた安倍晋三元首相の国葬には、秋篠宮ご夫妻や佳子さまをはじめとする7人の皇族方が参列された。

「憲法上、国政権能を有しない皇室の方々は、政治に関与したり影響を与えたりすることが許されません。欠席されれば、安倍元首相や岸田政権へ反発する意思表示と捉えられるため、ご出席以外の選択肢はなかったといえます」

両陛下が2年8か月ぶりに地方行幸啓

 そう話すのは、國學院大學で講師を務める天皇・皇室研究者の高森明勅さん。

「憲法第1条で、天皇は《日本国の象徴であり日本国民統合の象徴》と定められており、近親の皇族方もそれに準じます。国民統合の象徴としての役割が前提にあるからこそ政治にノータッチなのです。

 国葬は、結果的に国民の統合ではなく分断を加速させるきっかけになってしまった。使者を派遣された天皇・皇后両陛下や上皇・上皇后両陛下をはじめ、皇室の方々は残念なお気持ちを抱かれていると拝察します」(高森さん)

“穢れ”から遠ざかるという考え方によって、国葬を欠席された天皇陛下と雅子さまだが、10月1日に開幕した国民体育大会『いちご一会とちぎ国体』には、おふたりそろってお出ましになった。

「コロナ禍以来、東京都外へのお出ましを控えておられたため、およそ2年8か月ぶりの地方訪問でした。当初は1泊2日の日程が検討されていましたが、感染対策の観点から日帰りに。栃木県までの往復の交通手段は車で、ご訪問先が事前に特定されると沿道に人が集まりかねないことから、“ご到着時に具体的な場所を報じることは禁止”など、報道にも制限が設けられました」(皇室担当記者)

 午前10時前に皇居を出発された両陛下は、国民体育大会の開会式に臨席されたほか、鹿沼市の地域交流の場となっている北犬飼コミュニティセンターをご訪問。

「陛下は今年2月の誕生日会見で、オンライン公務のメリットに触れつつも、“実際の訪問でしか成し得ない部分はある”と、コロナ禍の収束を願っておられました。ようやく、地元の人々とふれあい、土地の雰囲気を肌で感じることができ、胸にこみ上げるものがおありだったのでは」(宮内庁関係者)

 今年の春ごろから、秋篠宮ご夫妻をはじめとする皇族方の地方訪問は再開されたものの、両陛下は慎重だった。

「国民とともに歩む皇室にとって、全国各地の人々とふれあう機会はとても大切です。ただ、両陛下が率先して“脱・コロナ”の姿勢を示すわけにはいかず、状況の推移を見守られることしかできなかった。誰よりもお出ましを切望されてきた両陛下にとって、今回の国体は忘れがたい1日になったとお見受けします」(同・宮内庁関係者)

紀子さまによる“意趣返し”か

 令和皇室の歯車が再び動き出したこの日、栃木県から遠く離れた三重県には“次代の天皇”のお姿が─。

「秋篠宮家の長男である悠仁さまが、伊勢神宮を参拝されました。学校のお休みを利用した私的訪問で、メインの目的は9月から11月まで神宮美術館で開催されている正倉院の特別展をご覧になること。ご参拝はその“ついで”だったとか」(前出・記者)

 悠仁さまが神宮に参拝されるのは'13年3月以来、9年ぶりだった。

「単独でのお参りは今回が初めてです。いくら“私的”とはいえ、皇室と深い関わりを持つ伊勢神宮にいらっしゃるとなれば、注目されてしかるべき。だからこそ、“なぜ両陛下の国体と同日になさったのか”と、波紋を呼んだのです」(皇室ジャーナリスト)

 前出の高森さんも「不可解だった」と振り返る。

9月30日、国立大学附属学校PTA連合会の式典に臨席された秋篠宮さま

「今年3月、愛子さまの成年に際しての記者会見と、悠仁さまの卒業式の日程が重なり、宮内庁の長官が“私のミス”と謝罪する事態が起こりました。両陛下が'20年1月以来久しぶりの地方訪問を再開されるというタイミングで、再びバッティングしたのは、日程をマネージメントする宮内庁の責任が大きいのでは」

 両家にとっての“特別な日”が重なった原因について、さまざまな臆測が飛び交った。

「悠仁さまの晴れ舞台となるべき卒業式が、愛子さまの初会見によって埋もれてしまった……。不本意な展開に憤られた紀子さまによる“意趣返し”では、と一部で指摘されました」(前出・記者)

 前出の皇室ジャーナリストは、別の見解を示す。

「皇室の方々は、即位や結婚、進学などに際して、ご奉告で伊勢神宮を参拝されるのが慣例です。本来であれば、昨年12月に成年を迎えた愛子さまも参拝されるはずでしたが、感染対策の観点からいまだに実現せず。皇位をめぐって、“愛子天皇”を望む声も上がる中、悠仁さまが先んじて伊勢へ出向くことで存在感をアピールされた印象でした」

 しかしながら、前出の高森さんは、「秋篠宮家にとって、デメリットしかなかった」とし、理由をこう続ける。

「国体と別日であれば、悠仁さまのご様子はより大きくメディアで扱われたと思います。また、待望の地方訪問に臨まれた両陛下とは対照的に、日程をずらすべきお立場だった秋篠宮家は国民に違和感を与える結果になりました」

父親の決定で自分が批判される不条理

 そのしわ寄せを受けてしまったのは、ほかならぬ悠仁さまだ。

「悠仁さまご自身が日程を決められたとは思えませんし、いかなる経緯があろうと“ゴーサイン”を出されたのは、当主の秋篠宮皇嗣殿下でしょう」(宮内庁OB、以下同)

 そのことは、側近のスタンスからもうかがえるという。

「今回のご参拝について、皇嗣職は“公的な活動ではなく私的な旅行”ということを強調していました。説明の背後には、皇族としての“公”の姿と、“私”という人間の一面を大切にされる殿下の存在を感じずにはいられなかった」

 では、なぜ10月1日という日程となったのか。

「両陛下の国体と重なることを、殿下はそもそも気になさっていなかったのではないでしょうか。優先事項は、当事者である悠仁さまの学業と、訪問先の伊勢神宮のご都合。10月17日には『神嘗祭』という神宮でもっとも由緒ある祭典が行われるため、その時期を避けるように10月初旬を選ばれたとも考えられます」

留学中の眞子さんを除く秋篠宮ご一家で伊勢神宮へ。悠仁さまは6歳だった('13年3月)

 一方、宮内庁内では“日程かぶり”によって、悠仁さまに火の粉が降りかかることを懸念する声もあったそう。

「ですが、現在の宮邸は、側近から秋篠宮さまに進言できる環境とはほど遠く、基本的にご意向を尊重する方針だといいます。高校生の悠仁さまは、そんなぎこちない雰囲気を察しておられるでしょう。

 伊勢参りを経て、悠仁さまは皇室の身分や地位を強く意識しただけでなく、“周囲の決定に従った自分が批判される”という不条理にも対峙されました。思春期真っただ中、お父さまに倣うことがはたして正しいのか苦慮されていることは想像に難くありません」(宮内庁関係者)

 悠仁さまの前途に広がるのは自立の道か、それとも。


高森明勅 國學院大學講師。神道学や日本古代史を専攻とし、『天皇「生前退位」の真実』『「女性天皇」の成立』(いずれも幻冬舎新書)など著書多数