「赤ちゃん取り違え事件」の被害者 江蔵智さん 撮影/伊藤和幸

 10月3日、東京・霞が関の東京地方裁判所。背の高い初老の男性が足早に法廷に向かう姿があった。

 男性の名前は、江蔵智(えぐらさとし・64)さん。生まれて間もなく東京都墨田区にあった都立墨田産院(1988年に閉院)で別の新生児と取り違えられた、いわゆる「赤ちゃん取り違え事件」の被害者だ。

 2021年11月、江蔵さんは東京都に対し、実の親の調査実施を求めて裁判を起こした。都を相手取り提訴するのは今回で2度目。第3回公判となるこの日は海渡雄一・小川隆太郎両弁護士とともに出廷、実親探しの重要な手がかりとなる『戸籍受付帳』の開示を求めて、62ページにも及ぶ意見書を提出した。

1958年に起きた「赤ちゃん取り違え事件」

 江蔵さんが言う。

「本当の親を調査してほしいという願いは、当たり前のことだと思います。真実を知ることは間違いでないという結果が出てほしい。これまで都だけでなく、墨田区にも調査を求めては、たらい回しにされてきました。都と区が力を合わせて調査してもらえれば真実に出会えます。真実は1つで、あとは明かされるだけ。僕はその真実が知りたい」

 代理人である海渡弁護士はこう主張する。

「日本も批准する『子どもの権利条約』に、“子には親を知る権利がある”と記されています。都は墨田産院の開設者であり、行政当局でもある。赤ちゃんの取り違えという大きな瑕疵(かし)(間違い)があったわけだから、間違った状態を正す責任があるはずです」

 江蔵さんは今年で64歳。本当の両親は、おそらく90歳近いはずだ。育ての母であるチヨ子さんも89歳と高齢になり、現在は認知症のため介護施設で暮らしている。そのチヨ子さんが、2004年に都を提訴した際、添えた陳述書が胸を打つ。

《私が生んだ子どもがどうなっているのか、見届けたいし、会いたいです。次男に似ているところもあるでしょうし。

 でも見るだけで、声はかけられないと思います。見た瞬間、驚くだけですぐには声がかけられないです。向こうの気持ちもあるでしょうから。会えるものなら、遠くからでも見てみたいです。その気持ちに変わりはありません》

 自分がどうやって生まれたのか真実を知りたいと願う子どもの思い、引き離されたわが子を慮(おもんぱか)る母親の思い──。すべては1958年、取り違えが起きたことで始まった。

東京・台東区の下町で暮らしていた江蔵さん一家。

 当時、江蔵さん一家が住んでいたのは東京・台東区。その西隣にあたる墨田区の産院を選んだのは、父・董(ただし)さんが受けたアドバイスがあったからだという。

 江蔵さんが語り始める。

「父親は都の職員で、都電の運転士でした。都立病院なら(出産)費用も安いと上司にすすめられたそうです」

 戸籍上、江蔵さんの誕生日は同年4月10日となっているが、取り違えがあったため、本当のところはわからない。

 とはいえ、母・チヨ子さんは取り違えなどみじんも疑うことなく、誕生したばかりの息子を連れ、産院から台東区のわが家へ戻った。だが江蔵さんは、物心がついたころには、すでに小さな違和感を抱き始めていた。

「母は4人きょうだいで、父も6人きょうだい。本家だったので、盆や正月には親戚がいっぱい集まります。でも、親戚同士でも子ども同士でも、どうも話が合わない」

 血のつながった家族なら感性も似ていて、同じ場面で笑い、泣き、感動したりする。ところが江蔵さんの場合、笑いのツボも話題の好みも、親戚やいとこたちとは異なっていた。小学校低学年のときには、叔父からこんなことを言われたという。

「“おまえは(両親の)どちらにも似てないなあ”と。母も同じように言われ、からかわれていましたね。母は“何、バカなこと言ってんのよ!”と笑って返していましたが、陰では泣いていたと、後々になって聞きました」

 目に見えないほどのチリが積もり積もって綿ぼこりとなるように、小学校低学年から少しずつ積もり始めていた家族への違和感。それが、江蔵さんが中学2年生のときに爆発する。きっかけは、父・董さんとの確執だったという。

わずか14歳で家を飛び出した理由

「父にはよく殴られましたね。おかずに手を出しただけで殴られたりしましたが、“それ以上はやめて”と、母が間に入って助けてくれました。

江蔵さんと育ての父・董さん。酒害の問題を抱え、暴力を振るう父とは衝突が絶えなかった

 ただ、弟は殴られなかった。弟自身、“自分は父から1度も殴られたことはない”と言っていましたね」

 実は、父・董さんにはアルコール依存とギャンブル依存という問題があった。酒を飲まなければ、ひと言もしゃべらないほど静かでおだやかな父。それがひとたび酒を口にすると、家族に暴言を浴びせ、暴力を振るい始める。

「(弟と違って)僕はものをはっきり言うほうなんです。例えば“もう、それ以上飲むなよ!”とか。父にしてみれば、そんな僕がきっと鬱陶しかったんだと思います」

 母が間に入り助けてくれるとはいえ、父との確執が解消されることはなかった。中学2年生だった14歳のとき、ついに江蔵さんは家を出る決心を固めた。

「市川(千葉県)にある知り合いの焼き肉屋さんで、住み込みで働き始めました。義務教育の最中でしたが、学校には行きませんでした」

 ほどなく見つかって連れ戻されたものの、家を出たいという思いは変わらない。アルバイト先だったおしぼり店の店主が“中学には店から通わせるから”と両親を説得すると、江蔵さんは再び住み込みで働き始めた。

幼き日の江蔵さん(左)と弟。性格は異なり、弟が父から殴られることはなかったという

 その後、江蔵さんは飲食店勤務など10種類以上の仕事を転々としたのち、1978年、東京・新大塚で喫茶店を開店。1996年、38歳のときには、福岡県で貴金属の取り扱いと中古車販売店を起業、一国一城の主となった。

 事業を軌道に乗せてからは年に1~2度、福岡から東京へ帰省するとともに、台東区に住む両親にも仕送りを続けていた。父・董さんは競馬やパチンコでせっかくの仕送りを使い果たすなど、相変わらずではあったものの、江蔵さんの孝行息子ぶりに母・チヨ子さんはおおいに喜び、良好な親子関係が続いていたという。

 ところが1997年、江蔵さんが39歳のとき、驚きの事実を知ることとなる。

DNA鑑定でわかった出生の事実

 それは体調不良に苦しんだチヨ子さんが、駆け込んだ病院で受けた血液検査がきっかけだった。

「ただの更年期障害だったんですが、検査をしたら、母の血液型がB型であることがわかったんです。それまではA型だと思っていたのに」

 父の血液型はO型で、江蔵さんはA型。通常、B型(チヨ子さん)とO型(董さん)の両親から、A型の子どもが生まれることはない。

「それで近所の病院に3人で血液型を調べに行った。両親には生物学的におかしいということを伝えましたが、“そんなことを言われてもねえ、わからないよ”と、そんな反応をしていましたね」

 突如として湧き上がった疑問と不安……。叔父に“おまえは両親のどちらにも似ていないな”と言われた記憶がよみがえる。不安を打ち消そうとするかのように、江蔵さんは新聞で目にしたある記事にすがりついた。

「新聞の夕刊で、遺伝子変化で、うちと同じB型とO型の両親からA型の子が生まれたという記事を見たんです。それでうちも、遺伝子の変化があったんじゃないか、と」

 “記事と同じことがわが家でも起こった。そうに決まっている”と、江蔵さんは信じたかった。

 2004年、思いがけない形で回答がもたらされる。

「体調を崩して、近所のクリニックに行ったんです。そこで先生に新聞で読んだ話を参考に、“私はこういう事情で特殊な血液型のようなんです。それで体調が悪いんでしょうか?”と話をしました。すると先生が興味を持ってくれて、九州大学の法医学の教授に話を持っていってくれたんです」

 話を持ちかけられた教授も、同じ新聞の記事を読んでいた。「それで“(江蔵さん一家の)血液を調べてみたい”と言われ、DNA鑑定を受けることになりました。教授が助手をつれて、東京まで両親の血液を採りに来てくれて。それから2週間後、鑑定の結果、どちらの親とも血縁関係がないと言われました」

 出生の事実を知った瞬間、江蔵さんは「頭が真っ白になった」という。

江蔵さんが出生の事実を知ったのは39歳のとき。以来、実の親を知りたいという思いを募らせている 撮影/伊藤和幸

 このとき江蔵さんが受けた衝撃は、精子提供など生殖補助医療で生まれた子どもの体験とよく似ている。その気持ちを、非配偶者間人工授精(AID)をめぐる問題に詳しい、元慶應義塾大学准教授の長沖暁子さんが解説する。

「養子縁組の家庭では、子どもが言語を身に付けるのと同時期に“血縁上の親は別にいる” “それでも私たちはあなたを愛情を持って育てている”と教えられて育つと、それほど大きな混乱は生じないといわれています。

 ところが、江蔵さんは大人になって事実を知ったわけで、とても大きな衝撃だったと思います。これは、ひとつひとつ積み上げてきた人生が突然、根底から崩れ落ちるようなもの。寄って立つべき場所がわからなくなり、親との関係をはじめ、すべての人間関係をつくり直さなければならなくなる。それぐらい、その後の人生に大きな影響を及ぼします」

 足もとが崩れ落ちるような衝撃に襲われる一方で、“事実を知りたい”“本当の親を知りたい”という、強烈な思いがこみ上げてきた。両親や弟にもDNA鑑定の結果を報告したが、江蔵さんとは対照的な反応を見せたという。

「母は、ただただびっくりしていましたね。父と弟は“いまさら(取り違えられた相手に)会って、どうすんの?”と。そういった反応でした」

 そのあと、弟が言ってくれたひとことが、心に今も残っている。

「弟が、“兄貴は1人でいいよ”と言ってくれて……」

 “自分にとっての「兄貴」は共に育った江蔵さん、ただ1人。いまさら別の人を兄といわれても受け入れられないよ”と、そう話してくれたのだ。

「いまさら」と言った弟の真意がとてもうれしくて、気持ちが楽になった。だが一方で、江蔵さんが実の親を知りたいという強い思いはみじんも揺らぐことはなかった。

 産院で別の赤ちゃんと取り違えられたのではないか──。そう考えた江蔵さんの、現在まで続く長い闘いが始まった。

調べ上げた約40万人分の情報

「2004年に出生の事実を知ってからは、“本当の親を知るために、できることは何でもしよう”と思いました。それで福岡の店を閉め、東京の実家に戻りました」

 東京に戻る目的は、江蔵さんが生まれた1958年4月前後に東京で誕生し、取り違えられた可能性のある男の子を調べること。まずは墨田区役所に足を運び、住民基本台帳を見て、手書きで情報を書き写した。

江蔵さんと育ての母・チヨ子さん。取り違えられた子どもの「顔だけでも見たい」という母の言葉が提訴を後押しした

 当時は個人情報保護法が全面施行される前。料金を払えば、自治体によっては住民基本台帳を見ることが可能だった。

 江蔵さんはなんと約40万人分の情報を調べ上げ、自分の誕生日を基準に4月1日から25日の間に生まれた男性80人をピックアップ、それをもとに、墨田区在住の該当者をしらみつぶしに訪ねて回った。

「住民基本台帳に電話番号はありませんから、お訪ねするしかありません。実際に足を運んで訪問理由を丁寧に説明し、“住民基本台帳で調べてお訪ねしました”と言うと、ほとんどの方が協力してくれました。

 “うちの人は大阪出身です”とか、“墨田区生まれではありません”とか、快く教えてくれて。“いきなりやってきてなんだ!”と言う人はいませんでしたね」

 約40万人分の行政資料を調べ上げ、手弁当で訪ねて回る、江蔵さんの“執念”とさえいえそうな強い思い。それを前出・長沖さんは、このように推し量る。

「出生の事実を知り、1度壊れた自分のストーリーをつくり直すには、自分のルーツがどこにあったかが重要になります。江蔵さんは“自分はどこで、どのようなかたちで生まれたのか”をたどることで、自分の人生を再構築したかったのではないでしょうか」

 江蔵さんは当時、46歳。誕生からすでに半世紀近い歳月がたっていた。訪問して、すぐに該当者が見つかるとは思っていない。

「でも、めげはしませんでした。私が墨田区で生まれたから墨田区から訪問を始めましたが、周りの台東、葛飾、荒川へ範囲を広げていこうと思っていたぐらいです」

裁判だけでなく、江蔵さんはリストアップした家を1軒1軒訪ね歩き、自力での親探しを並行して続けていた 撮影/伊藤和幸

 驚くような収穫もあった。訪ねた先に1963年、都立墨田産院で女の子を出産した女性がいて、こんな話をしてくれたのだ。

 看護師が赤ちゃんを沐浴に連れて行ったあと、“はい、終わりましたよ”と手元に戻されたのが、なんと男の子だった。女性があわてて“私が産んだのは女の子よ!”と言ったことで、事無きを得たというのだ。

 ずさんな管理体制であったことは想像に難くない。江蔵さんはいっそう取り違えに対する確信を強くした。

 実の親はどんな人で、どういう経緯をたどって自分はこの世に生まれたのか──。江蔵さんの思いは深まるばかり。母・チヨ子さんも、父・董さんがいないところでそっと打ち明けた。

「(自分が産んだ子どもの)顔だけでも見たいよ……」

 その言葉を受けて、江蔵さんは弁護士に相談を始める。だが、誰に相談しても、同じような返事が返ってきた。

「誕生してからすでに46年もの時間が経過しています。損害賠償請求でやるしかありません」

 まずは取り違えの事実を東京都に認めさせ、そのうえで、実の両親を探し出してもらうしかないというのだ。

 2004年10月、江蔵さんは都を提訴する。翌年5月の東京地裁での判決は、損害賠償請求は棄却されたものの、取り違えがあったことが認定された。さらに2006年10月、東京高裁は「取り違えという重大な過失により人生を狂わせた」として、都に2000万円の賠償を支払うよう命じた。

 賠償が命じられたということは、墨田産院を管理していた都に落ち度があったと認めたということ。誤りを償うべく、都も実親探しの調査に協力してくれるに違いない──と、江蔵さんは期待した。

「僕は石原都知事にだまされた」

 その期待を石原慎太郎都知事(当時)の記者会見での言葉が後押しした。

当時の石原慎太郎都知事は調査を名言したにもかかわらず、高裁判決後にくつがえした

「(取り違えについては)時効といえば時効だろうが、それで当人が納得できる問題ではない。(中略)人生をかけた問題だから一般化せずに、こういう特例中の特例というものに国はまじめに、真摯(しんし)に応えて力を添えなければならない」

 そう言明してくれたのだ。

 都知事の言葉にも勇気づけられ、江蔵さんはDNA鑑定を受けた直後から始めていた、戸籍受付帳の開示請求にさらに力を入れ始める。

 そもそも戸籍受付帳とは何か。子どもが生まれたら、生まれた子どもの両親の氏名をはじめ、子どもの名前、住所、誕生日を行政機関に報告しなければならない。

 報告を受けた行政機関は、戸籍とは別に、届け出順に子どもの名前と誕生日、住所、両親の氏名をまとめた受付帳を作る。これが戸籍受付帳だ。

 江蔵さんの誕生当時は出生地の区役所、すなわち墨田区が戸籍の受け付けを行っていた。

 そこで作られた戸籍受付帳を頼りに、江蔵さんが生まれた1958年4月10日の前後約1か月の間に生まれた男の子を調べ上げる。転出があれば転出先を追いかける。そうすれば、取り違えられた可能性がある子どもを探し出すのは手間はかかれど、それほど難しいことではない。

 江蔵さんは戸籍受付帳の開示を求め、最高裁に上告することもできた。だが、当時の石原都知事が「情報公開に応じないのは問題。国はまじめに真摯に応えて、力を添えなければならない」と明言してくれている。江蔵さんは明るい気持ちで成り行きに任せ、上告しないこととした。

 ところが、希望は無残にも打ち砕かれる。高裁判決後、石原都知事が定例会見でこう言ったのだ。

「(実の親探しは)プライバシーの問題もあって難しい。賠償金の支払い以外、都にできることはない」

「事を荒立ててほじくり出して、傷口を広げるばかりでどうなるものではない」

 まさに手のひらを返したような変節だった。

「僕はだまされた。石原都知事にだまされたと思いました」

 と、江蔵さんは当時を振り返って言う。

 さらに2005年に全面施行された『個人情報の保護に関する法律』(個人情報保護法)も逆風となった。都や区に調査を願っても、取り違えられたもう一方の家族のプライバシー保護を理由に、拒絶の姿勢を強めていったのだ。

 都の対応に納得できない江蔵さんは戸籍受付帳の開示を求め、新たな訴訟の提起を決意する。だが、弁護士の見解は芳しくない。

「そもそも都に取り違えの事実を認めさせ、賠償を求めるために起こした裁判。都の誤りが認められ賠償が支払われた以上、できることは何もないという話でした」

 戸籍受付帳の開示を求め、江蔵さん自身も墨田区にかけあったものの、開示されたのは江蔵さんの名前と住所を除いて、すべて黒塗りだった。実の親を知りたいのなら、不利を承知で調査を求める訴訟を起こすより方法はない。

 江蔵さんは腹をくくった。

立ちはだかる個人情報保護法の壁

 新たに訴訟を起こすなら、まずはこちらの意向を受けて裁判に臨んでくれる代理人弁護士を探さなければ。しかし、どの弁護士を訪ねても、返ってくる言葉は判で押したように同じだった。

「個人情報保護法があるし、裁判が終わっているから(新たな提訴は)無理ですね」

 40~50人の弁護士を訪ね歩いたすえの2020年夏、江蔵さんは宇都宮健児弁護士に相談することを思いつく。

 日本弁護士連合会元会長であり、同年夏の都知事選に出馬した宇都宮弁護士は、人権派として知られる。江蔵さんは都政に強い関心を寄せるこの弁護士にかけたのだ。

 この間の経緯を、前出の海渡弁護士が代弁する。

江蔵さんの代理人を務める海渡雄一弁護士。提訴にあたり打ち合わせだけで長時間を費やすほど個人情報保護法の壁は分厚い

「都知事選が終わる直前に宇都宮先生の事務所に相談に来られて。宇都宮先生は“こうした難しい案件は、都知事選で選対本部長をやってくれた海渡ならやってくれるかも”と話を振ってくれ、それで僕のところにいらしたんです」

 だが海渡弁護士は、江蔵さんから話を聞けば聞くほど難しさに頭を抱えたと、当時の心情を打ち明ける。

 なにせ目の前に立ちはだかるのは、個人情報保護法という高いハードル。大勢の弁護士に断られたのも無理はなかった。だが、江蔵さんの苦難に満ちた人生と深い思いは、百戦錬磨の弁護士の胸をも揺さぶるものがあった。

「江蔵さんは中学にも通えないほど悲惨な状況だったというのに、まっすぐに育った紳士。育てのお母さん(チヨ子さん)がやさしい方だったのがよかったんでしょうね。

 僕の事務所へ相談に来たときは、また断られると思ったんじゃないかなあ。僕もすぐには“受けましょう”とは言わなかったと思います。まずは判決文をよく読み、どういうことが可能か一緒に考えてみましょうということで、長い長い打ち合わせを始めたんです」(海渡弁護士)

 2021年4月、「出自を知る権利」を武器にした訴状案が完成。その趣旨を海渡弁護士はこう話す。

「子どもには自分の親が誰なのか知る権利があります。子どもの権利条約には“子には親を知る権利があり、その父母によって養育される権利がある”という条項もある。加えて東京都は産院の管理者であり、出産契約の当事者。その両面から見れば、都には被害者である江蔵さんの実の親を探し出す義務があります」

提訴後、記者会見に臨んだ江蔵さん(写真中央)と海渡雄一(右)、小川隆太郎(左)の両弁護士。江蔵さんは「自分が何者なのか知りたい」と訴えた

 前出・長沖さんも海渡弁護士の言い分を裏付ける。

「子どもの権利条約の第8条には、“締結国は、子どもが身元関係事項の一部もしくは全部を不法に奪われた場合には、その身元関係事項をすみやかに回復するため適当な援助ならびに保護を与えなければならない”とあります。江蔵さんの場合、まさにこれが該当します。

 もちろん(取り違えられた)相手のプライバシーの問題もありますから、関係者の了解は必要でしょう。ですがそれを得たうえで援助することは、絶対に必要だと思います。少なくとも“相手にもプライバシーがあるからできません”というのは、ありえない対応だと思いますね

 また言うまでもなく、産院には赤ちゃんを正しい親に渡さなければならない契約上の義務がある。海渡弁護士は、「今回はそれが履行されていない。ただし履行不能ではない。戸籍受付帳を使えば今からでも義務を果たすことができるはずです」と強調する。

 それでも調査を渋る国や都の頑(かたく)なさに対して、長沖さんがこんな背景を指摘する。

「現在、国会で年内の改正が検討されている『生殖補助医療法』でも、子どもの出自を知る権利は保障されていません。その理由は、日本では基本的に子どもの権利が認められていないからだと思っています。

 女性の権利より男性の権利のほうがどこか強いと思われているのと同じように、日本では子どもよりも親の権利が優先される。子どもを親の所有物のようにとらえ、親に決定権があると考えているからではないでしょうか

 今回の裁判で都は、「調査には精密なDNA鑑定や個人情報の強制的な開示が必要だが、それを行う根拠となる法律がない」と主張している。

 こうした都の姿勢を受けて海渡弁護士は、国会での法整備の道も探っている。取り違えが起きたとき、誰がどのように調査するかを法的に決めようというものである。

 海渡弁護士が言う。

「行政が動かない、動けないのは、動く法的根拠がないからです。でも、立法化できれば根拠ができる。生殖補助医療のケースでは意見が分かれ、立法化はハードルが高いと思います。しかし、医療機関の取り違えの場合について医療機関や行政当局に調査義務を負わせることに反対する意見はないはずです。法律さえできれば、都はそれに従って調査し始めるはずなんです」

 裁判と立法化の両面から江蔵さんの思いを支える構えだ。

決して甘くはない裁判にかける思い

 話を冒頭の10月3日、東京地方裁判所に戻そう。

 この日、海渡弁護士らが新たに提出した意見書は、こんな内容で構成されている。

《戸籍受付帳には、彼の親と他人の情報が混じっている。彼の親がわからない限り、他人の情報と分けて取り出すことはできない。ならば受付帳に記されている情報全体が、江蔵さんの個人情報であるといえる。江蔵さんには自分の個人情報を取得し、都に調査をしてもらう権利がある》

 裁判の見通しは決して甘いものではない。海渡弁護士らは、個人情報保護法の専門家である三宅弘弁護士とともに考えたこの意見書で、個人情報保護法の分厚い壁を突き崩そうと意気込む。

取り違えで生みの親の調査を求める訴訟は、今回が初めて。江蔵さんがこの裁判にかける思いは切実だ 撮影/伊藤和幸

 公判後、江蔵さんが裁判にかける思いをこう話してくれた。

誰でも間違いを犯したら訂正して謝らなければならない。今回、間違いを犯したのは都であり、その情報を管理しているのは墨田区です。であれば、都や区が間違いを正さないのはおかしい。

 行政は“(取り違えられた)相手に迷惑がかかる”と言うけれど、迷惑か迷惑じゃないかは調べてもらわなければわかりません。

 僕は親父や弟を見ていますから、相手が僕に“会いたくない”と言ったとしても驚きません。もしも両親や相手の家族が会いたくないと言ったら、それ以上の迷惑をかけるつもりはありません。でも今の状態では、それすらもわからない」

行政との裁判を支援するサイト『CALL4』で、江蔵さんの裁判の経過や資料が閲覧できる

 前出・長沖さんによれば、スウェーデンやイギリスなどでは、生殖補助医療で生まれた子どもの出自を知る権利が法的に保障されている。それでも理解が浸透しているとは言い難く、多くの場合、子どもに「本当の親」を知らせることに躊躇(ちゅうちょ)があるという。

「ただ、子ども自身が出生に第三者が関わっていたことを知っていれば、(精子や卵子の)提供者に会う・会わないという選択ができます。

 まずは出自を知る権利について、法や制度で保障することが重要です。AIDや養子縁組の子どもにも影響することから江蔵さんの裁判の行方は注目されています」(長沖さん)

 さて、ここまで読んでくれた読者の中には、“本当の親を知りたいという気持ちは十分に理解できる。老いた母親にも、実の息子に会わせてあげたいものだ”と、そう感じた人がいるかもしれない。

 それなら、あなたにもできることが実はある。この特集記事に掲載された江蔵さんの写真を、まずはじっくりと眺めてほしい。あなたの両親、きょうだい、いとこや親族に、よく似た面影の人はいないだろうか。いま一度、振り返ってみてほしいのだ。

 あなたのその小さな気づきが、裁判や立法化とはまた違う、新たな突破口となるかもしれないのだから──。

取材・文/千羽ひとみ(せんば・ひとみ )●フリーライター。神奈川県横浜市生まれ。企業広告のコピーライティング出身で、人物ドキュメントから料理、実用まで幅広い分野を手がける。新著の『キャラ絵で学ぶ! 徳川家康図鑑』(ともに共著)ほか、著書多数。