当時の貴花田との婚約会見はお揃いのピンクの着物で

 NHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』を人気作に押し上げた功労者の1人は、りく役の宮沢りえ(49)に違いない。坂東彌十郎(66)が演じる北条時政の尻を叩く欲深い妻を名演した。

 1984年にジュニアモデルとしてデビューしてから38年。今や誰もが認める演技派女優だ。元V6で俳優の森田剛(43)との夫婦仲も円満。公私ともに充実している。

 だが、19歳のときに大きな蹉跌(さてつ)も経験した。元横綱・貴乃花(50、当時は関脇・貴花田)との婚約とその解消である。

貴乃花と宮沢りえの婚約・破局の舞台裏

 2人の婚約が判明したのは1992年10月26日夜。ちょうど30年前だ。その解消を2人が発表したのは3か月後の'93年1月27日だった。どうして破局したのか。時計の針を30年前に戻し、深層に迫りたい。

「世紀のスーパーカップル」と騒がれた2人の破局理由は当時、はっきりとしなかった。宮沢が「お互いの気持ちが通わなくなってしまった」と語る一方、貴乃花は「自分の仕事が充実できないのではと感じた」と話したが、どちらの説明も漠然としていた。

 貴乃花は「僕の愛情がなくなったから」とも語り、世間から「無責任ではないか」との批判を浴びた。もっとも、今ではよく知られている通り、貴乃花は口下手。よく誤解を招く。

 2人の婚約とその解消に宮沢側で深く関わっていた芸能関係者は貴乃花発言をこう補足する。

「貴乃花の真意は『結婚への壁を自分の愛情では乗り超えられなくなった』ということだった」

 その壁とは何だったのだろう。

 まず、2人の婚約をスクープしたのは久米宏氏(78)がキャスターを務めていたテレビ朝日『ニュースステーション』だった。番組冒頭で久米氏が「いやぁ、驚きました」と漏らした後、伝えた。

 直後からマスコミは大騒ぎに。とびきりチャーミングである上、ヌード写真集「Santa Fe」(1991年)を出すなど常に話題を振りまいてきたトップアイドルと、20歳で関脇を務めていた相撲界のプリンスが結婚するというのだから、マスコミが色めき立つのも無理はなかった。

 一夜明けた同10月27日のスポーツ紙の1面は6紙中4紙が「貴りえ婚約」。一般紙も朝日、毎日、産経が1面で報じた。

「振り返ると、婚約が明らかになった時点が2人の絶頂期だった」(前出・2人の婚約とその解消に深く関わった芸能関係者)

 2人は1990年元日付のスポーツニッポン紙の対談で知り合ったが、交際が始まったのは婚約が判明する約2か月前の1992年9月。貴乃花からのプロポーズは同10月に入ってからだった。電話で「結婚しよう」と申し込み、宮沢が「承知しました」と受け入れた。スピード婚約だった。

 準備不足は明らかだった。貴乃花の父親・故藤島親方と母親・藤田紀子さん(75)、宮沢の母親・故宮沢光子さんの顔合わせこそ済んでいたものの、結婚後の2人の生活設計は何も話し合われてなかった。無論、結婚後の宮沢の仕事についても最後まで協議されていない。また、藤島部屋の後援会関係者、宮沢の仕事関係者の大半は婚約について何も知らなかった。

 貴乃花は同10月27日に会見し、「2人で決めたこと」と強調したが、相撲界も芸能界も自分だけでは決められないことが多い。

「藤島部屋の後援会関係者は光子さんの行状や資産などをたちまち調べ上げ、“相撲界と折り合えるのか”と藤島親方に進言したそうです。また“りえさんが女将さんになるには引退しなくてはならないが、それが出来るのか”という声も上がった」(同・2人の婚約とその解消に深く関わった芸能関係者)

宮沢「話し合う時間がほしかった」

 一般家庭なら当人たちと親同士が納得すれば結婚となる。当人たちの合意だけでもいい。だが、相撲界と歌舞伎界は支えてもらっている後援会も賛成しないとゴールインは難しい。

 やはり同10月27日に貴乃花とは別に会見した宮沢は、結婚を機に引退するのかと問われると、「簡単には答えが出せない」と明言を避けた。宮沢にとっては当たり前の答えだったのだろうが、相撲関係者と後援会関係者は当然引退と考えていたので、不満だった。

「実は光子さんも両手を挙げて賛成というわけではなかった。それまでビートたけしさんら一流の人たちを自分で選び、りえさんと親交を結ばせたので、やはり一流の貴乃花さんとの交際と婚約には大喜びでした。

 けれど、いざ結婚について現実的なことを考え始めると、りえさんが相撲界に入ったら、遠い存在になってしまうことに気づいた。芸能界の仕事も出来なくなるかも知れない。“一卵性母娘”と呼ばれるほど、りえさんを溺愛していましたから、結婚に不安感をおぼえ始めた」(同・2人の婚約とその解消に深く関わった芸能関係者)

 もし、宮沢が引退となったら、個人事務所社長で全権プロデューサーだった光子さんは困ってしまう。かといって19歳だった宮沢が、光子さんの許しを得ずに「引退します」と宣言するのは極めて難しかった。一方、相撲界と後援会は宮沢が芸能活動を続けたままプリンス・貴乃花の妻になることを認めようとしなかったに違いない。

 1か月後の同11月27日、2人は正式に婚約し、挙式は1993年5月28日と決まった。2人は「ついにこの日が来た」(貴乃花)、「やっと実感が湧いてきました」(宮沢)と喜色満面だったが、光子さん側と相撲界、後援会の思いはバラバラ。宮沢家と藤島家の話し合いがないのだから当然だった。光子さんは宮沢が何より大切だが、藤島部屋と相撲界、後援会も貴乃花は自分たちの宝だった。

 年が明けて1月6日、日刊スポーツ紙が「貴、りえ破局」と断定で報じた。宮沢と貴乃花が沈黙したこともあり、半信半疑のマスコミも多かった。2人が不実を働いたり、重大な隠し事があったりしたわけではなかったからだ。

 しかし、初場所後の同1月27日に2人は別々に婚約解消の会見を開く。宮沢は「話し合う時間がほしかった」と悔しそうだった。「引退の意思は(貴乃花側に)伝えてあった」とも話したが、光子さんの了承は取れていなかった。

「光子さんはCMなど時間のかからない仕事なら出来ると考えていたようです。相撲界と後援会側の意向が分かってなかった」(前出・2人の婚約とその解消に深く関わった芸能関係者)

 理解不足は相撲界と後援会側も同じ。宮沢を失うことが光子さん、芸能界にとって、いかに大きいことかを分かろうとしなかった。最終的に破局の方向に強く誘導したのも相撲界と後援会側だ。

 同日、やはり会見した貴乃花は破局の理由について繰り返し「自分の力のなさ」と語った。相撲界や後援会など周囲の反対を押し切れなかったことを指したのだろう。

 仮に貴乃花が「りえには結婚後も自由に芸能活動をさせる」と宣言したら、2人は結ばれていたはずだ。しかし、当時の貴乃花はまだ20歳で、その上、横綱になることが宿命付けられていた身。反対の声に抗うのは困難だった。

 貴乃花は1995年、周囲の期待に応え、横綱になった。同年に結婚したフリーアナ・河野景子(57)とは2018年に離婚し、同じ年には相撲協会も去ったが、もう誰の声にも縛られずに済む。今は相撲の普及やタレント活動を行なう自由人だ。

 一方の宮沢は着々と大女優への道を歩んでいる。

取材・文/高堀冬彦(たかほり・ふゆひこ)放送コラムニスト、ジャーナリスト。1964年、茨城県生まれ。スポーツニッポン新聞社文化部記者(放送担当)、「サンデー毎日」(毎日新聞出版社)編集次長などを経て2019年に独立。
当時の貴花田との婚約会見はお揃いのピンクの着物。ふたりはずっと手を繋いでいた

 

1992年、貴乃花・宮沢りえ婚約会見

 

貴乃花と破局、会見をした宮沢りえ

 

'95年に行われたゴルフ大会での宮沢りえ。連日ワイドショーで“激やせ”を報じた